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潤一はドアの鍵をかけると、満面の笑みを浮かべた。
「やった、十万円ゲットだぜ」
潤一がハイタッチしてきたので、気乗りしないながらも手を合わせた。
「でもなあ、なんか気乗りしないんだよな」
「取りあえず十万手に入ったんだしいいじゃねえか。それに鳥を捕まえたら、更に二十万入るんだぜ」
「でも鳥が現れたとして、どうやって捕まえるんだよ」
「それなんだが」
潤一は立ち上がり、玄関から傘を持ってきた。
「こいつに両面テープを貼り付けて、近づいた鳥を捕まえるんだ」
「飛んでる鳥に付けるんだぞ。そんなに上手くいくもんかなあ」
「やってみないとわかんないだろ。それに前金はもらっちゃったんだし、なんかやんないとだめだろ」
「そうだよな」
ゴトンと奥の障子が音を立てながら開き、青いパジャマを来た男が出てきた。白髪頭の頭頂部はすっかり地肌が見え、皺だらけの顔の奥に生気の抜けた目があった。右手で棚に手を付けながら、左脚を引きずり、しんどそうに歩いて行く。
「お邪魔してます」
「和希君か。ごゆっくり」
男はわずかに口角を上げて微笑むと、トイレに入っていった。潤一の父親の重光だ。まだ五十代なはずだが、まるで老人のような顔をしている。
潤一は父親が部屋を横切る間、時間が止まったように押し黙っていたが、いなくなると立ち上がった。
「さて行くか」
傘を持って玄関へ向かった。和希は気乗りしなかったが、他人の家に取り残されるわけにもいかないので、立ち上がり、靴を履いて一緒にマンションを出た。
外は既に日が傾きかけている。近くのカーマへ行き、一番強力な両面テープを買って傘に巻き付けた。
「取りあえず、その辺を歩いてみようぜ」
川沿いを二人並んで歩いた。横をママチャリに乗った中年女性が通り過ぎ、テープを巻いた傘を担いでいる潤一を、あからさまに不審な目で見ながら過ぎていく。
「こんなことしても、絶対鳥なんてこないだろ」
「まあな、日が暮れるまで歩いて実績を作っとけばいいさ」
潤一はアイフォーンをいじりながら呟く。
「そうだ、俺の分の金をよこせよ。それで家賃を払うんだ」
「わかってるって。明日、ATMの引き落とし手数料が無料になるから引き出すよ」
「ああ」
潤一が突然けたたましく笑い出した。
「お前、ハゲウアカリの臭いがするんだってな。これがハゲウアカリだってよ」
潤一が突き出したアイフォーンの画面には、頭のハゲた茶色い猿が映っていた。
「どうだ。なんだかお前に似てないか」
「全然似てねえよ。俺はこんなにハゲてない」
「いやいや、これからハゲるんだ」
「てめえ。ふざけんじゃねえ」
和希が軽く蹴りを入れ、潤一がヘラヘラ笑いながら大げさによける。
「いいのか。俺はこいつを持ってんだぜ」
両面テープを巻いた傘を突き出してくる。
「コラコラ、よせって」
慌てて後ずさりする和希に、潤一が声を上げて笑う。
再び突き出そうと構えたときだ。
「あ……」
笑みが消え、潤一の視線が和希の背後へ移動する。
「おい、来たぞ」
いつの間にか、頭の後ろでブーンという羽音のような音がしているのに気づいた。振り返る。
手のひらほどの大きさをした黒い鳥が、高速で羽ばたきながらホバリングをしていた。足もくちばしも真っ黒。ちょっと不気味だが、手を伸ばせば捕まえられる距離だ。両手で挟みこむようにして手を出した。鳥は素早い動きで上に逃れたが、飛び去ることはなく、まだホバリングをしている。
「俺に任せろ。こいつで捕まえてやる」
潤一から笑みが消え、鳥を睨め付けながら傘を構える。
「二十万っ」
叫びながら傘を横に振る。鳥はひらりと傘を躱した。
「くそっ」
繰り返し傘を振り回すが、鳥は余裕で避けていく。潤一は肩で荒く息をし始めた。
「このクソ鳥が。俺を馬鹿にしてやがる」
鳥はなおも和希の頭上でホバリングをし続けている。一向に逃げようとしない鳥に、和希は少し不気味に感じ始めてきた。
「おい鳥、俺は毎日シャワー浴びているんだからな。お前の好きな寄生虫なんていないぞ」
「いやいや、こいつは三日に一回しかシャワーを浴びてない。部屋も汚いから、きっとダニがくっついてるぞ。頭に乗って髪の毛の中をつついてみろ」
「適当なこというんじゃねえ。っていうか、この鳥に人間の言葉なんかわかんないだろうな」
鳥は首を傾げるようにちょこまかと盛んに動かしている。よく見るとかわいいもんだなと思っていると、不意に鳥と目が合った気がした。この鳥と俺はよく知っている気がして、無意識のうちに右腕を差し出した。鳥がゆっくりと下降し、和希の右手の甲に停まった。
「チャンスだ」
「ちょっと待て」
勢い込んで傘を突き出そうとした潤一に、左手を出して制した。
「どうした。二十万のビッグチャンスだってのによ」
和希は不満げな潤一を無視して、鳥を顔に近づける。羽はオーロラ色の光沢を放っていて、小鳥らしいかわいい顔をしていた。
「やめよう」
「えっ?」
「こいつをテープでくっつけるなんて、かわいそうじゃん」
「でも二十万円が手に入るんだぜ」
「俺は降りる」
「なんだよそれ」
潤一は不満げに口をとがらかせたが、和希は無視して小鳥を見つめていた。
「この鳥、どこかで見たことがある気がするんだ」
「馬鹿言えよ。南米にしかいない鳥なんだぞ。お前みたいに南米どころか海外だって行ったことがない奴が、見たことあるわけないだろ」
「そうなんだけどさ」
鳥が羽を広げ、再び飛んだ。
「おいっ、待てよ」
潤一がつま先立ちで傘を振り回したが、鳥はもう傘の届かない高さまで飛んでしまっていた。しばらく上空を旋回していたが、やがて鳥は飛び去り、視界から消えてしまった。
「あーあ。なんだか疲れちまったよ。鳥も逃げたことだし、もう帰るか」
「そうだな」
「腹減った。今日は金もあるし、くら寿司いくか?」
「えっ?」
「嫌そうな顔すんじゃねえよ。お前のことなんか、誰も気にしちゃいねえって。このまんま引きこもってるわけにもいかねえだろ」
「まあな」
「よし、決まり」
潤一がアイフォーンからアプリを操作して、くら寿司の予約を取る。
「よし、六時二十分で予約したぞ」
「ていうか、今六時十五分だぞ」
「ここからだったら大丈夫だよ」
「この傘持ってか? 不審者に思われるぞ」
「あ、そうだ。家に戻んなきゃ」
「時間変更しろよ」
「それ以降はもう八時過ぎまで予約が埋まってる。和希、走るぞ」
傘を担いで駆け出した潤一を追いかけて、和希も走り出す。
予定時間には少々遅れたが、キャンセルされることなく寿司を食べることが出来た。和希に注目する者はいなかった。
「な。誰もお前なんか気にしてやいねえだろ。炎上なんか毎日起きてんだし、もうお前のことなんか忘れてるよ」
「うん……そうかもしれない」
「そうかも知れないじゃなくて、そうなんだよ。だいたいお前はあのタコ野郎に煽られてやったんだかし」
あのタコ野郎。思い出すだけで腹が立ってくる。
和希がネットで炎上したのは二ヶ月ほど前のことで、いわゆるバイトテロだった。二十四時間営業のスーパーのバックヤードで、和希が弁当を足で踏み潰したり、壁に投げつけたりしている映像がいつの間にか拡散していた。知り合いからのメッセージでそんな動画が拡散しているのを知った和希は仰天した。まさか撮影されているとは思わなかったからだ。
三日前の深夜二時のことだった。日付が代わって消費期限切れとなった弁当はゴミ袋に入れて産廃業者に引き取ってもらう手はずになっていた。その弁当を一緒にバイトをしていた連中がふざけて足で踏みつけ始めた。当初は冷ややかにその様子を見ていた和希だが、その男たちにお前もやれよと誘われた。正直、弁当を潰す行為なんて、面白くともなんともなかったが、どうせ廃棄するんだからと思い、その場の雰囲気を壊すのが嫌で行為に加わった。その様子が隠し撮りさたれのだ。画像では更にガハハと豪快に笑う和希の顔が映し出されている。これは別の日に映した動画を編集したものだ。たちまち和希のプロフィールが調べ上げられ、動画と一緒に広がった。和希のアカウントには非難のメッセージで溢れ、反論しても誰も聞く耳を持たなかった。
和希の動画を撮った男には心当たりがあった。スーパーで一緒に働いていた達川という男だ。迂闊ではあったが、行為をしたのは事実だ。既に達川のSNSアカウントは削除されて、教えてもらっていた電話番号も使えなくなっていた。騒動のあったスーパーの店長によると、届け出していたアパートも既に引き払った後だという。
一瞬で悪名が世間に知れ渡ったおかげで、新たなバイトの面接ではことごとく落とされた。道を歩いていたら、突然画像を映されてネットにアップされた。バイクに乗った男から、すれ違いざまに「弁当潰し」と声を投げかけられたこともある。ここ一ヶ月は外へ出るのも怖くなっていた。
柔らかな風に乗って、どこからか青臭い草の匂いか鼻孔をくすぐった。もうすっかり春なんだと思う。神社の裏を通り過ぎ、旧東海道に出た。
「じゃあ明日、九時になったら金をおろして持ってくからよ」
「おう、頼むよ」
別れようとしたときだ。不意に背後でブーンという羽音が聞こえてきた。
黒い鳥がホバリングをしていた。暗闇の中、ぼんやりとシルエットが浮かび上がっているだけだが間違いない。さっきはちょっとかわいいと思ったが、今は不気味だ。
「おいおい、俺のところに来たって寄生虫はいないんだからな」
「しつこい奴だな。だからあのとき捕まえればよかったんだ」
潤一が手を伸ばしたが、鳥は簡単に躱す。
「まったく。こんなの無視していりゃあいいよ。行こうぜ」
「そうたな」
歩き出そうと前を見たとき、左目の隅に暗い影が動いた気がした。気になって動いた場所を見た。
道路を挟んだ街灯の光が届かない場所。古びたシャッターの前に黒い塊があった。高さは一メートルぐらい。歩道からはみ出る程の大きさだ。暗い毛に覆われている
「おい、あれ見ろよ」
「ん? 猫か」
「猫があんなにデカいわけないだろ」
「じゃあ犬か。でも犬だったらあんな風に丸まらないよな」
「昨日、熊を見ただろ……」
「あ、そういえば――」
黒い物体が動き出した。四本の脚で立ち上がると、首を伸ばし、頭が露わになる。前脚を踏み出し、街灯の光にその姿が照らし出された。焦げ茶色の体毛。和希の背丈よりも高い背中から、肩が瘤のように盛り上がっている。鈍く伸びた口吻の先には湿り気を帯びた黒い鼻面があり、その奥にはつぶらな黒い目が和希を見据えている。
間違いない、和希たちを襲った熊だ。
「グオォォォッ」
むき出しになった乳白色の牙。全身の筋肉を躍動させながら飛び出し、奔流のように襲ってくる。
和希は体が固まって動かない。視界が熊だけになった瞬間、道路に押し倒されていた。
「グオッ、グオッ」
興奮した鳴き声。禍々しいほどに黒光りする前脚の爪が振り上げられる。
悲鳴が自分の声だと気づいた瞬間、意識が飛んだ。