5‐8
「やれやれ、やっとここまでたどり着いたよ」
町の外れにある連絡道路にたどり着くと、平本は足を速めて裕樹たちを追い抜き、規制線をくぐり抜けていく。
「ちょっと待ってください。島名先生が遅れてます」
吉田の言葉に振り向くと、島名が一人、ぽつんと立っているのが見えた。こちらへ歩いてくる様子はなかった。和希/裕樹は違和感を覚える。
「島名先生、早く来てください」
「吉田君、皆さん。申し訳ない。私はここに留まる」
「先生、どうしちゃったんですか。ここにいたら死んじゃいますよ」
「私はひどい罪を犯した」島名は肺の奥から老廃物を吐き出すように呟く。「この町の人たちを実験の道具にして病気をまき散らし、その挙げ句、怖くなって逃げ出した。あのとき、小田川君を止めていればこんな事態は起こらなかったんだ。しかし私はくだらない功名心に狩られ、小田川君を止めるどころか一緒に研究を進めてしまった。皆さんには迷惑を掛けました。申し訳ありません。しかしこの件で死んでいった多くの人たちにはもう謝ることもできない。死んでお詫びするしかないんだ」
島名は深々と頭を下げ、和希/裕樹たちに背を向けて歩き出す。
「島名先生、待ってください」
走り出そうとする吉田の腕を和希/裕樹が掴んだ。
「何するんですか」
「行っちゃだめだよ。ここはいつ爆発するかわからないんだから。早く逃げないと」
「でも島名先生を助けないと」
「死ぬって言ってんだから、ほっとけばいいだろ」
平本が面倒くさそうにそう言い放ち、一人道を走り去っていった。
「そういうわけにはいきません。理由はどうあれ、自死しようとする人を放置するわけにはいきません。ましてやその人は僕の師匠なんです」
「そうは言ったって、ここはそのうち吹き飛ぶんだからさ。島名さんを説得している時間なんかないよ」
「ねえちょっと……あれ見てよ」結香/美月が怯えた声で指差す。「小田川じゃないの」
「何?」
規制線の向こうに放置されているワゴン車の横に、いつの間にか男が一人立っている。笑顔を浮かべ、澄んだ目で裕樹たちを見つめている。間違いない、小田川だ。
「お前、どっちの小田川だ」
「FalseかTrueかという設問ですか。無論僕はTrueです」
「ウイステリアのデバイスですね。本物の小田川君なら、そんなに自信たっぷりな言い方はしない」
「そうなんですね」小田川は穏やかな笑みを浮かべる。「データが一つ増えました。ありがとうございます」
「一体何の用だ」
「全員を拘束させていただきます。皆さんは多くの情報を知っている。そんな人たちをアップグレードしないまま解放すると、僕たちの活動に支障を来す恐れがありますから」
「君は誰だ」
背後から島名の声が聞こえて振り返る。住宅が立ち並ぶエリアから、中年男が歩いているのが見えた。
「永松じゃないか」
グレイのスーツにノーネクタイ。狡猾さは消え、穏やかな表情だが、ガラスのように冷たい目をしていた。右手には刀。刃長一メートルほどで、わずかに反りがある。柄と刀身は一続きのくすんだ銀色で、乱れのない刃文だけが鈍い輝きを放っていた。ホウキでも持っているかのように、ぶらぶらと切先を揺らしながら島名へ近づいてくる。
「えっ……」
島名が逃げようと体を翻した瞬間、永松は無造作に刀を振り上げ、斜めに振り下ろした。
島名は大きく目を見開き、口を半開きにしたまま固まった。右肩から左脇に掛けて、血が滲んだかと思うと、大量の鮮血が吹き出す。血の勢いに押し出されるようにして、斜めに切断された上半身が道路に落ちた。続いて残りの体も前に倒れていく。
「島名先生」
声を震わせて吉田が叫んだ。
「今後、人類に貢献できる知性を持っていただけに、ぜひアップグレードしていただきたかった方ですが、仕方ないでしょう。もっとも、彼の遺伝子は採取済みですから、これを元に素晴らしい人物を作成すれば良いのですが」
全身に真っ赤な鮮血を浴びた永松が、島名を乗り越えて近づいてくる。
「吉田先生は素晴らしい知性の持ち主だ。裕樹君と美月さんは僕の親友の息子さんだから殺すわけにはいかない。皆さんには、どうしてもアップグレードしていただかなければならないのです」
「馬鹿を言うな、俺の父親はお前を破壊しようとしたんだぞ。憎くはないのか」
「憎しみといった感情は、概念としてメモリーされていますが、僕自身には実装していないのです。僕の理念は友愛、そしてよりよい世界を構築するのが使命です」
永松が吉田へ近づいてくる。逃げようとした吉田は足をもつれさせ、あっけなく倒れてしまった。
「あわわわ……」
恐怖に顔を引き攣らせ、永松を見上げている。
「止めろ、吉田さんには手を出すな」
「もちろんまだ殺すことはありません。吉田さんには脳波パターンの解析や、詳細な記憶の採取をしなければなりませんから」
永松が左手で吉田の襟首を掴み、軽々と持ち上げる。
「ただし、裕樹さんたちが僕の行動に従わない場合、吉田さんのデータ採取は諦めるしかありませんが」
永松はチェロを弾くような体勢で、吉田の腹に刃を当てた。
「でも、ここはもうすぐ爆発するのよ」
「確かにそうですね。でも、僕はすべてのミッションを遂行するために設定されているのです。終わりについては設定されていません」
「狂ってる……」
和希/裕樹の中で、怒りが沸騰する。
目眩がして視界が歪み、細胞の一つ一つがバチバチと弾けていくような感覚が全身を襲う。
骨がギシギシと軋む音を立て、強烈な痛みが貫く。
「おや、変態ですか」永松が右眉を上げた。
二本の足で体重を支えるのが困難になり、うつ伏せに倒れるようにして地べたに手を突いた。
「ウウゥゥ……」
喉の奥からうなり声が響く。
口から血の付いた歯がぽろぽろとこぼれ落ち、口吻が伸びていく。全身から灰色の毛が生え始める。
「永松さん、人質の戦略は放棄しましょう。狼には効きませんから」
「承知しました」
永松は吉田から手を離して突き飛ばした。剣を両手で構え、変身しつつある和希/裕樹へ正対する。
和希/裕樹は服が破れ、波打つように蠢く肌を露出させていた。明らかに狼としか思えない形状へ変化しており、胴体も肩幅が狭まりつつあった。しかし手足はまだ人間に近い。
永松は切っ先を裕樹に向けた。
右足を踏み出すと同時にスナップを利かせて、刀を横に払う。
裕樹に激痛が走った。
左腕が切断され、血しぶきを上げながらバランスを崩して倒れる。
「これで当面は動けなくなります」小田川は満足そうに笑みを浮かべ、結香/美月を見た。「美月さんも痛いのが嫌でしたら、僕の指示に従ってください」
和希/裕樹は重なる痛みに意識が朦朧となりながら、美月という言葉が脳内に響き渡るのを意識した。
美月。その言葉に特別な響きを感じた。俺にとって、大切な存在。
助けなければ。
「ウォォォッッッー」
熱い。
全身が沸騰する。
裕樹はのたうち回りながら完全な狼へ変身する。
「おや? もう一本脚を切った方がいいのかな」
和希/裕樹は三本の脚で跳躍し、永松の間合いから逃れた。
着地した瞬間、バランスを崩し、横に倒れた。
「逃しません」
永松がすり足で近づき、間合いを詰める。
刀を振り上げた瞬間、
狼は起き上がり、その勢いで跳躍した。
方向は永松。
懐へ入り込む。
殺害を禁止された永松は、切っ先を逸らすしかなかった。
右足を肩に掛け、乳白色の鋭い牙が首筋へ襲いかかる。
永松は刀を捨て、和希/裕樹の頭を掴んだ。そのまま背中から倒れ込んでいく。
「グアォォォッ……」
よだれをぼたぼたと垂らしながら、噛みつこうとする和希/裕樹。歯を食いしばりながら頭部を押さえる永松。
和希/裕樹がじりじりと牙を近づけていく。
小田川がつかつかと近づき、和希/裕樹の腹を蹴った。
サッカーボールのように飛ばされ、ガードレールに衝突して止まった。
内臓が痛みで悲鳴を上げていた。口から血を吐き、道路を汚していく。起き上がろうとするが力が入らない。
「抵抗しないで僕らと一緒に行きましょう。アップグレードすれば、痛みを感じることもありません。病気もせず、感情や欲望に惑わされることもない、素晴らしい世界が待っているんですよ」
小田川と永松が近づいて来たときだ。エンジン音が響いてきた。
スピードを上げたワゴン車が向かってくる。運転席には吉田。
ドンッと音を立て、加速したワゴン車は、小田川と永松を跳ね飛ばした。
助手席のドアが開き、結香/美月が出てくる。
「お兄ちゃん、乗って」
結香/美月は和希/裕樹の体を抱えるが、重くて持ち上がらない。和希/裕樹は既に自身で起き上がる力を失っていた。
「吉田さん、手伝ってよっ」
「ちょっ、ちょっと待ってください。手が震えてシートベルトが外れません。僕、人を轢いたのなんて初めてなんですよ」
小田川が立ち上がる。頭から血を流し、脚を引きずっているが、視線ははっきりと和希/裕樹たちを見据えている。
「ねえ、もう一回あいつを轢いて」
「いやいやよしてください。こんな恐ろしいこと、これ以上できませんよお」
吉田は口をわなわなと震わせながら、近づく小田川を凝視している。
「さあみなさん、行きま――」
不意に小田川の動きが止まった。
ドンッ、と下から突き上げる衝撃が襲う。
フィーチャータワーが傾いだかと思った瞬間、空へ向かって一斉に黒い瓦礫が噴出した。
ドドドッと地響きを立てながら、道路が、住宅が、破裂するように吹き飛んでいく。
フィーチャータワーが真っ二つに折れ、空高く押し上げられていた。
ハンマーのような衝撃で爆轟が襲った。灰色の土埃が視界を奪う。瓦礫が和希/裕樹の体を叩き、刺し貫いた。為す術もなく飛ばされていく。
頭の中で何かが弾け、真っ白な光で満たされていく。
痛みはなかった。白い光の中を漂っている。
光は俺を浸食し、一つになろうとしていた。
それでいいじゃないかと思う俺。
だめだと抵抗する俺。
光が笑う。
お前は私、私はお前。もともと一つの存在。
違う、俺は俺だ。
じゃあ、お前は誰なんだ。
俺は……和希。いや裕樹? 狼……。
お前は何物でもない。私だ。
意識が薄れていく。
光の中に埋没していく。
ねえ、起きて。起きてよ。
お前は誰だ。俺か?
わかんない。でも、あたしはあんたを知ってる。起きて。
どうして起きなくちゃいけないんだ。
それはあんたが生きているから。
生きている?……。生きているって、どういうことなんだ。
そんなのどうだっていい。生きている、それだけでいい。
温かい何かが包み込んでいく。
埋没していこうとした光が、ひどく冷たい存在だったのに気づいた。
何かに引っ張り上げられていく。
最初に目に入ったのは、薄闇の空で瞬く星だった。視線を移すと、オレンジ色に染まっている山際が見えた。
視線を更に下へ移動させると、なぎ倒された木と、家の屋根らしき破片があるのに気づいた。
埃っぽい空気と、息苦しさを覚えるほどの焦げた臭いが充満している。そう思った瞬間、全身から刺すような激しい痛みが湧き上がってきた。
「ああっ……」
同時に激しく咽せる。咳をするたびに、意識が飛びそうな程の痛みが走る。浅い呼吸を繰り返しながら、落ち着きを取り戻そうとした。
右手に温もりを感じた。俺を引っ張り上げた温もり。
痛む首を無理矢理起こして横を見た。
焦げ茶色の羽毛で覆われたものがあった。その間から人間の手が伸びて、自分の手を握っている。ゆっくりと首を伸ばしていくと、羽毛の中に目を閉じている若い女の顔があった。
見覚えのある顔だが、名前を思い出せない。でも、よく知っている気がする。
痛みに耐えきれず、首を倒して空を見た。暗い空に瞬く星は強く輝き、存在を強く主張し始めていた。鳥の鳴き声も、虫の音も、葉擦れの音も聞こえない。静寂が支配している。
彼女が誰かだって、どうだっていいじゃないか。右手の温もりがあればいい。
考えるのに疲れ、そっと目を閉じる。




