5‐7
小田川は表情を消した。その顔の奥にいる本物の小田川が、スッと意志を引っ込めていくのがわかる。
結香は吉田を見る。「吉田さん、さっきの小田川の説明に、違和感があったって言ったでしょ。あれ、あたしたち達の説明にも当てはまらないの?」
「そう……僕も思ったけど……」
普段、忖度とは無縁な吉田が目を泳がせ、言葉を濁す。
人形になった小田川の目に、再び感情が宿り、静かに話し始める。「結香さん、和希さん。真実を知りたいですか? それはお二人を、更に苦しめるかもしれません」
「今の自分に疑問がある以上、もう後には戻れないわ」
「俺もだ」
「承知しました。お二人の記憶を甦らせましょう」
小田川は両手を差し出す。「私の手を握ってください」
二人はおずおずと、小田川の手を握る。
脊髄の奥で、痺れるような感覚があった。
「ああっ……」
割れるような痛みが頭を襲う。今まで曖昧だった過去の記憶ががらがらと崩れていき、隠されていた新しい記憶が浮かび上がってくる。
白髪交じりの頭髪に、度のきつそうな縁無しのメガネ。神経質そうな笑みを浮かべているのは俺の父さん。澤村明丈。やはりメガネを掛け、生真面目な顔でパソコンに向かってキーボードを叩いている女性。母の優真だ。結香とよく似た相貌。
いや、結香じゃない。彼女の名前は美月。俺の妹だ。そして、俺の名前は裕樹。
まざまざと思い出せる。抜けるような青空が広がっていた春の日、俺たちは東京から藤が丘シティへ引っ越して来た。日差しは暖かだったが、時折冷たくて乾いた風が吹くと、寒くてジャンパーの前を押さえ、寒さをやり過ごした。玄関の前に引っ越し屋のトラックが止まり、作業服の人たちが家具や段ボール箱を次々に降ろしていく。家の奥では母が降ろし場所を指示していた。父と結香は段ボール箱を開けて荷物を取り出していた。
「ねえ、お兄ちゃんも手伝ってよ」
スマホでゲームをしていた俺は「もうちょっと待ってろよ」とうるさそうに呟いた。
「お兄ちゃん」
睨み付ける美月。
「裕樹、いい加減にしなさい」
そういったものの、明丈は困ったようなやさしい笑みを浮かべていた。
「父さんはこれまでたくさん優秀な人と仕事をしてきたけど、小田川君は正真正銘本物の天才なんだ」
「澤村さん、やめてくださいよ」
はにかむように微笑みながら、目を伏せる小田川。
「いやいや、本当だよ。この藤が丘シティプロジェクトが成功すれば、同様のコンセプトが世界中に広がり、社会を変えていくんだ。父さんたちはこのプロジェクトに参加できて本当に幸福だと思っているよ」
隣で柔らかな笑みを浮かべて頷く母。
「和希さん、大丈夫ですか」
上の方から声がして、和希は目を開けた。心配そうに自分をのぞき込んでいる吉田がいた。いつの間にか手を離し、意識を失っていたらしい。体を起こして立ち上がる。まだ頭が痛くて、体がふらつくが、立てないほどではない。
和希は息を整え、小田川を、そして結香を見て話し始める。
「すべてわかった。記憶も戻ってきた。俺と結香はクローンじゃない。澤村家の子供なんだ」
結香はしゃがみ込み、頭を抱え込んでいた。和希は彼女の肩に手を置いた。
「美月、大丈夫か」
自然に口を衝いて出てくるのは、結香ではなく美月だ。
結香/美月はスローな動きで顔を上げた。幻を見ているように、うつろな目で和希/裕樹を見た。「お兄ちゃん、お兄ちゃんなの?」
「どうもそうみたいだ」
「嘘……嘘。潤一はお兄ちゃんじゃないの? 重光はお父さんじゃないの?」
「その辺りは、俺もわからないんだ」
「和希さん、いや裕樹さん。その問いにお答えします」
小田川が静かに話し始める。
「澤村さんと朝比奈さんは、ウイステリアの危険性を誰よりもわかっていました。だからどんな犠牲を払ってでも、ウイステリアの破壊を決意したのです。ただ、澤村さんは、自分の子供たちが殺人者の子供というレッテルを貼られてしまうことを恐れました。そこで僕は君たちを違う生い立ちに変えようと提案しました。幾つかの役所には当時からアップグレードされた職員がいましたから、戸籍の改変を行うことは可能だったのです。
当初の計画は、澤村さんの奥さんと君たち二人を一つの家族として設定するはずでした。けれど、プログラムを実施に移したところ、ウイステリアのセキュリティシステムが、そのプログラムは不正あると認識してしまいました。僕はシステムを回避するため、ウイステリアの計画に僕たちの計画を紛れ込ませる必要に迫られたのです。
結果、裕樹君はアップグレードされた八田の親戚として経歴を作り上げ、美月さんは結香さんとして、架空の家族の一員となりました。結香さんのお父さんは美月さんのお母さんです。お兄さんはバイク事故で死亡した少年の遺伝子を使って作成しました。美月さんたちとは縁もゆかりもない人です」
和希/裕樹は結香/美月の肩に手を置いた。呆然とした目で結香/美月が見上げる。
「ねえ美月、俺たちはずっと一緒に暮らしてきたんだ」
結香/美月は黙って頷き、ボロボロと涙を流し始めた。
「八田は裕樹君をおとりにして、逃げた遠藤さんを捕まえるつもりでした。けれど、自分の息子を危険にさらしたくなかったお母さんは、潤一を使って盗聴機を発見させ、八田に不信感を抱かせることに成功した。そして、清水へ連れてきたのです。けれど、とうとう遠藤さんに発見されてしまった」
「例の熊か」
「ええ。あのとき、潤一のSNSへDMを入れたのがフェイクの小田川だったのです。裕樹君、美月さん。お父さんがしたことの責任はすべて僕にあるんだ。申し訳ない。よかったら、また元の和希君と結香さんへ可能だが、どうだろうか」
「美月、どう思う」
結香/美月はゆっくり、はっきりと首を振った。「嫌よ。もう、あたしが美月以外になるなんてあり得ない」
「俺もだ。もう裕樹以外になることはないよ」
「いい考えです。僕もそう思う。人格は、過去に起きたいいこと悪いこと、すべてが積み重なり形作られていくのです。他人に植え付けられた記憶なんて、結局は幻でしかない。さて、本物の僕が水素タンクにたどり着いたようだ。これからタンクを破壊するまで一時間程度と言ったところでしょうか。でも、理性が吹き飛んだ僕がすることだから、不測の事態が起きるとも限らない。早くここから出て行った方がいい。僕が案内するよ」
小田川はひしゃげたドアを踏み越えて廊下へ出た。裕樹たちも後に続いた。
廊下の暗闇から「ヴォッ、ヴォッ」という獣の声がわずかに聞こえてくる。野獣が力尽き、悲しげに鳴いているような声だった。
いくつもの角を曲がり、階段を上ると、和希/裕樹たちはサーバーが立ち並ぶエリアにたどり着いた。そこには明かりの下、べっとりと粘ついた血が広がり、頭の潰れた死体や内臓が露出した死体が無造作に横たわっていた。既に感覚が麻痺しているのか、そんな死体を見ても不快な思いを抱くだけで、恐怖は感じない。
小田川は奥にあるドアを開けて階段を上り、何もないフロアへ和希/裕樹たちを連れていった。そこからエレベーターに全員を乗せて一階のフロアへ出た。正面に自動車が出入りできるほどの開口部があり、広場が見えていた。和希/裕樹たちは外へ出る。ここは中央広場だ。そして目の前にそびえるフィーチャータワー。過去に何度も見たことのある景色。
覚えている。夏の日の夜、多くの住民がこの場所へ集い、町の外れから打ち上げられた花火に歓声を上げた日のことを。カラフルな浴衣を着た美月は、母親と手を繋いで、姉妹のようにケラケラと笑い転げながら話をしていた。露店から、お好み焼きの食欲を刺激するソースの匂いが漂ってくる。同級生の中沢が、イチゴのかき氷を食べながら通り過ぎようとしたので声を掛ける。
けれど今は誰もいない。ガランとした空間が広がっているだけだ。
小田川が話し出す。
「僕はずっとこの肉体から逃れようと、もがき苦しんできました。けれどその努力は更に深刻な事態を招いてしまいました。多くの人の人生を奪い、心を破壊しました。いくら謝っても、謝りきれるものではないのは承知しています。しかし最後に謝罪をさせてください。申し訳ありませんでした」
小田川が頭を下げると、そのまま崩れるように倒れた。
「小田川さん」
和希/裕樹はしゃがみ込んで小田川をのぞき込んだ。肩はわずかに上下しており、息はしているようだった。しかし開いた目は瞳孔が開ききり、声にも反応しなかった。
「裕樹さん、もう行きましょう。いつ爆発が起きるかわかりません」
吉田に促されて裕樹は立ち上がる。
「どこへ行けばこの町から逃げられるかわかりますか?」
「ああ、わかるよ」
和希/裕樹は歩き出し、広場を横切っていった。住宅街に入り、整然とした町並みに懐かしさを抱きながらも、誰もいない状態に違和感を覚えた。
「お兄ちゃん。あれ、沖さんのとこの七人の小人でしょ」
結香/美月が雑草が生い茂った庭を指差した。よく見ると、雑草の間からコミカルな表情をした石像が見えていた。
「そうだ。ここは沖さんの家だ」
和希/裕樹は思い出す。二人の幼い子供を育てていた沖さん夫婦。結香/美月がイベントで白雪姫のコスプレをした時があった。それを見た沖さん夫婦に招かれて、ここで記念撮影をしたんだ。沖さんは今、どうしているんだろう。そう思ったとき、自分の父親に殺されたかもしれない可能性を自覚し、吐き気がしてきた。
「どうしましたか」
立ち止まった和希/裕樹に吉田が心配そうに顔をのぞき込んだ。
「何でもないよ。行こう」
「何でもなくないよ」結香/美月が声を震わせながら叫ぶ。「沖さん、あたしたちのお父さんが殺しちゃったかもしれないのよ」
「ああ……そうだったんですね」
結香/美月はしゃがみ込み、肩を上下させながら激しく呼吸をし始めた。
「おいおい、頼むよ。もうすぐここは爆発しちゃうんだよ。ここから抜け出すにはあんたたちに道案内してもらうしかないんだからさ」
平本が焦りの目を浮かべて怒鳴り始めた。
「平本さん、落ち着いてください」吉田が和希/裕樹を見た。「事態は一刻を争います。美月さんを担いで歩くことはできますか」
「ああ」
和希/裕樹はかがみ込んで彼女の背中をさすった。
「美月、苦しいのはわかるけど、俺たちはここから逃げなくちゃならないんだ。わかるだろ」
結香/美月はこっくりと頷き、立ち上がった。ふらつく肩を和希/裕樹が両手で掴む。
「行こう」
結香/美月はまだ息が荒いが、和希/裕樹の肩にもたれかかり歩きだした。
「目をつぶっているんだ。景色が目に入ると、いろんなことを思い出してしまうだろ」
「うん……わかった」
成実は緩いカーブが続く道を一人歩いていた。体力は限界に達し、目眩がする上に、歩くたび打撲を負った膝や肩が悲鳴を上げた。
それでも成実は歩く。
桃音、澄空、恵輔。会いたい、会いたいよ。
あたしは母親や妻になる資格なんかない、ろくでもない女。でも、やっぱり会いたい。神様、お願いよ。
目に浮かぶ家族の姿だけが力となり、ボロボロになった体を引きずり、前へ進んでいく。
やがて民家が点在するエリアに入ろうとしたとき、前方に黄色の規制線が見えた。その向こうには何人かの人がいて、成実が歩いてくる方向を見ていた。それを二人の警官が中に入らないよう止めていた。
「成実」
「ママっ」
聞き覚えのある声が聞こえ、男一人と子供たちが規制線をくぐって駆け出してくる。恵輔と桃音、そして澄空だ。
「ああ……」
言葉にするのももどかしい感情が溢れ、成実も走り出した。
目の前に恵輔たちが来た瞬間、ほっとした成実は力尽きてよろけた。それを恵輔が抱き留めた。
「成実、大丈夫か」
「ママ」
腰に抱きついてくる桃音と澄空。
「うん、大丈夫」
安心して、どっと涙が溢れてくる。
「家に戻ろうとしたらさ、オマワリがいてさ、感染症が出たから入るなっていわれてびっくりしてたんだよ。ママ大丈夫かなあって、みんなで心配してたんだ」
「ごめん……心配かけてごめんね」
久々に嗅いだ恵輔の匂い、桃音と澄空のぬくもり。すべて愛おしかった。涙が止めどなく流れていく。
「成実、それって血だろ。怪我をしているのか?」
恵輔が心配そうに成実の体を見ていた。胸からジーンズにかけて、べっとりと赤黒い血が染みこんでいる。
「これは……」
首に包丁が突き刺さった成実。
クチャリ、クチャリと肉を咀嚼する音を聞きながら、血だまりでもがいている自分。恐怖がぶり返してくる。
一体、どう説明すればいいんだろうと思いながら、桃音と澄空が血に濡れたジーンズに体を押しつけているのに気づき、慌てて立ち上がる。
「だめ……あたしの体に触っちゃいけないの」
不思議そうに自分を見ている桃音と澄空を、呆然と見つめる。もう、昔の自分には戻れないんだ。
「あんたたち、勝手に中の人と接触しちゃだめだよ。全員隔離しなきゃならないんだからね」
むっとした表情の警官が駆け寄ってきた。腰に付けていた無線機を手に取る。
「あれ、本部と繋がらないぞ」
警官が不審げな目で道の向こうを見た時だった。
藤が丘シティの方向から、ドンッと鼓膜を突き破るような爆裂音が響く。
ゴゴッと地鳴りがして、道路が揺れた。
「何?」
風とは明らかに違う、重い風圧が高まる。
道の奥から、土埃を含んだ空気が塊になって押し寄せてくる。
息ができないほどの圧に晒され、草木が大きく撓んだ。
「ぎゃあっ」
成実たちも突き飛ばされるようにして、道路へ投げ出された。
「何が起きたんだ」
恵輔の問いかけに、成実は困惑して首を振るしかなかった。「わからない」
「ママっ、あれっ」
桃音が斜め上を指差す。その先に、巨大な白煙とごま粒のような瓦礫が、ドーム球場のように膨れ上がっている姿が禍々しく出現していた。
「でっかい……」
唖然として呟く澄空。成実は白煙から目を離せない。
「あたしたちのお家が……吹き飛んじゃった」
上の空で呟くしかなかった。




