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5‐6

「君は小田川君だよね」

「ヴィッ、ヴィッ、ヴィッッ」

 化け物が首を振りながら、小刻みに鳴き始めた。

 振り上げた爪をゆっくりと降ろしていく。

 化け物の目から鋭さが消え、全身から発していた殺気が萎んでいくのがわかった。

「でも、小田川はさっき殺されたじゃないか」

「あれは恐らくアップグレードした小田川君でしょう。目の前にいるのが、本来の小田川君です」平本の問いかけに、吉田は化け物から視線を外さず答える。「殺された小田川君の言動がおかしいと思っていたんです。僕が知っている小田川君なら、あんな発言はしなかった。君がアップグレードするためにここへ連れてきた住人だって言うのも無理がある。へミスがいるんだから、こんなになる前に、必要な処置はいくらでもできたはずだよ」

「じゃあ、小田川君」島名がはっとしたように呟いた。「君もハクタクウイルスを発病していたのか」

「きっと初期の患者だったんでしょう」

「グフォッ、グフォッ、グフォッ」

 咳をするようなくぐもった声を出す。その響きはひどく悲しげだった。

「泣いているの?」

 化け物の目は明らかに潤み、LEDライトの光に輝いていた。

 化け物が突然きびすを返し、和希たちに背を向けて走り出した。

「小田川君、待ってくれ」

 吉田が化け物を追って走り出した。島名も走り出したが、一旦立ち止まり、和希たちを振り返る。

「君たちはどうする? ここで待っているか」

「一緒に行きます。俺たちは真相を知りたいし。第一、ここが安全かもわからないから、一緒にいた方がいい」

「結香、立つんだ」

 和希が結香を引っ張り上げる。彼女は蒼白な顔で、少しふらつきながらも自分の力で立った。

「歩けるか」

「て言うか、もう歩くしかないでしょ」

 結香が微笑む。少しだが、元気を取り戻したようだ。

「おい、俺も連れてってくれよ」

 平本も怯えた声を上げながら歩き出した。

 化け物はひび割れた入り口に頭を突っ込んで出ていこうとしていた。スピードは遅かったが、物理的に止める手段はないので、見守るしかなかった。

「最初に僕が違和感を抱いたのは、小田川君が僕たちをここへ引き入れたときなんです。小田川君にとって、アップグレードしていない僕たちは敵であるはずなんです。リスクを考えれば、殺すか、あるいは最低限抵抗できない状態で引き入れるべきなんですよ。でもそうならなかった。だとすると、小田川君に敵対する者が内部にいるんじゃないかと思ったんです。それはアップグレードされた小田川君と話しているうちに、確信へ変わりました」

 化け物が入り口から、闇へ消えようとしていた。

「僕たちも行きましょう」

 吉田がスマホのライトを点灯させて中へ入っていく。和希たちも、スマホのライトを片手に暗闇へ入っていった。


「次は右へ……あっ、少々お待ちを」

「えっ、どういうこと」

 そう言われて成実は止まるしかなかった。周囲はまだ暗闇だ。声のナビがなければどうにもならない。

「ねえちょっと、どこ行っちゃったのよ。そこにいるの?」

 問いかけても返事はない。怒りの感情は急速に萎んでいき、不安がもたげ始める。一瞬照らし出された巨大な鋭い歯と、くちゃりくちゃりと人肉を咀嚼する音がフラッシュバックしてきた。

 あたし、殺されちゃう。体が古いエンジンのようにガタガタと震え始める。

「怖い……怖いよ」

「お待たせしました。行きましょう」

「だめ……もう……体が動かない」

「成実さん、落ち着いてください。もうすぐ地上へ出られます」

 成実は激しく首を振った。

「だめだって。もう体が動かないんだったら」

「成実さん、あなたの家族を思い出してください。桃音ちゃん、澄空君、恵輔さん。みんなのためにもあなたはここから出なくちゃいけないんです」

「でもね、あたしは恵輔を裏切った。子供たちが遊んでる場所でいやらしいことや、人殺しまでしちゃったの。もう母親の資格なんてない」

「確かにあなたは愚かだった。罪も背負ってしまった。でも、あなたはその罪や愚かさを背負って生きなければならないんです。それはあなた自身のためだけじゃない。あなたの家族のためなんです。どうして成実さんが人を殺さなければならなくなったのか思い出してください。ウイステリアが仕組んだからなんです」

「そもそも、なんでウイステリアはそんなデータを欲しがったのよ」

「殺人によって生じるような強い感情を解析し、プログラムに組み込むことにより、ストレス耐性を得るためです。ウイステリアにはかつて、強い感情に対処できなかった事例があったのです。恐ろしい事件だった。そして、僕はその首謀者でもあるんです。僕はずっとそのことを悔やんでいます。そのとき死んでいった人たちを、一日たりとも忘れたことはない。だからこそ、これ以上の犠牲者を生み出したくないんです。成実さん、みんなの顔を思い浮かべてください。みんなあなたがいないと悲しみます」

 恵輔、桃音、澄空。みんなの顔が浮かび上がってくる。

「人はピュアのまま一生を過ごしていくことはできません。大なり小なり嘘を重ね、罪を犯し、罪悪感に苛まれながら、それでも生きていくしかないんです。成実さん、家族に会いたくありませんか?」

「会いたい。会いたいよ」

 目頭が熱くなり、涙が溢れてくる。

「再び家族と会うにはここから出て行く以外にないんです。いいですね」

「うん」

 頬に付いた涙を手で拭うと、体の震えが止まっているのに気づいた。きっと、泣いてストレスが発散されたのだろう。

「ゆっくり息を吐いて、吸ってください。それを何度か繰り返してください」

 言われたとおり、意識しながら呼吸をした。少しずつ気力が湧いてくる気がした。

「さあ、みんなの姿を思い出しながら、前へ進んでください」

 成実は右に進路を変えると、再び前へ進み始めた。


 通路は狭くなり、化け物の肩幅より狭くなっていく。それでも化け物は前に進んでいく。壁がゴリゴリと音を立てた。

「小田川はアップグレードされたっていうのに、どうしてこの化け物は殺されなかったんだろう」

「そこが僕もわからないんですよ。当人に聞いてみるしかないですけど、まだ興奮しているようですから、会話は難しいでしょう。取りあえず止まるのを待つしかありません」

「そういえば」平本が話し出す。「アップグレードした小田川が、自分は『フォルス』だとか言っていたけど」

「フォルスですか……。うーん、どういうことなんでしょう」

 化け物の動きが止まった。

「ギィェォッ、ギィェォッ、ギィェォッ」

 げっぷを派手にしたような声を上げながら、右肘を壁に叩き付け始めた。壁が大きくへこみ始め、三回目で穴が開いた。化け物が再び動き始める。和希たちは開いた穴をのぞき込んだ。

「小田川君じゃないか」

 穴の開いた場所は、明かりの灯った小部屋になっていた。スチールの机と椅子が置いてあり、そこに小田川が座っていた。さっきと同じ、紺のポロシャツにベージュのチノパン姿だ。化け物に突き刺され、食いちぎられた小田川そのものだった。

 小田川は穏やかな微笑みを浮かべ、和希たちを見つめていた。

「君はさっき、殺されたはずだ」

「ええ、確かに殺されました。でも、肉体なんて結局は分子の組み合わせでしかありません。素材と情報があれば、いくらでも作ることができるんです」

「つまり、君はアップグレードされた小田川君なんだね」

 小田川はフッと蔑むような目をして薄く笑った。

「あれはウイステリアの戯言です。確かにこの肉体はクローンですが、アップグレードなんてまやかしではありません」

「だったら、君は誰なんだ」

「順を追って説明しましょう。僕が自分の体の変化に気づいたのは、藤が丘シティの住民にコイオスを配布し終わった直後からでした。意識が遠のき、気がつくと、僕の周囲には黒い毛と獣の歯が散乱していました。恐怖を感じた僕は、自室に監視カメラを設置しました。その後再び意識が遠のき、同じ事態が発生したのです。僕は監視カメラを再生して、自分が恐ろしい化け物に変化していることを確認したのです。そして自分の細胞を解析して、僕がハクタクウイルスへ感染していることを知りました。遠藤さんが発病する前のことです」

「つまり、私が調査するよりも前の時点で、君はすべてを把握していたんだね」

「はい、申し訳ありません。僕は自分の肉体の変化を他人に知られることを恐れていたのです。そして私はひどく傲慢でした。この病気を、自分の力で治すことができると思っていたのです。ハクタクウイルスはレトロウイルスの一種で、自らのRNAを僕のDNAへ逆転写で組み込んでいました。逆転写されたDNAは脳細胞を含む全身に及んでいて、排除は困難を極めました。しかも化け物に変容する間隔は、次第に短くなっていきました。そこで僕はウイルスに冒されていない新しい肉体を作成し、僕の意識を注入することにしたのです。

 僕は自身のエピゲノムを含む遺伝子情報をデータ化しました。更にブレインスキャナーで採取した僕のニューロンの発火パターンをコンピューターでエミュレートし、あらゆる記憶をストレージに記録させました。それをデジタル物理学をベースにした創発的計算によって人格を再現させたのです。その作業と並行して、僕はみなさんがさっきまでいた工場を作り、遺伝子情報を元に、僕の肉体を作成しました。仕上げとして、コンピューター内にある僕の情報を肉体に移植させたのです。

 しかし、結果は失敗でした。僕と同じ遺伝子を持ち、同じ記憶を持ち、思考パターンも同じ。でも彼は自らの意志を持っていませんでした。何らかの課題を与えれば、いかにも小田川らしい反応で答えが返ってくるけれど、自ら小田川としての行動はしない。言わば、ゾンビのような存在でした。

 人格というのは表面的な思考パターンだけではありません。無意識や身体からのフィードバックも含めた、能動的な欲望や意志と一つになったものが人格なのです。外からパターンを押しつけられても、操り人形と同じで、人格とはほど遠いものでした。彼は僕と同じような表現ができても、その意味を理解することはなかったのです。

 僕はこの計画を一旦白紙に戻そうとしました。けれど、そこで不具合が起きました。ウイステリアが、僕と新しく作成した僕の肉体の違いを認識できなくなってしまったのです」

「そんな馬鹿なことがあるのか」

「僕と僕の新しい肉体の姿形は同じです。シリアルナンバーがあるわけでもないのですから。もっとも、そのバグは容易に修正可能だろうと思っていました。しかしその時、僕は化け物に変容してしまったのです。ウイステリアは僕を僕だと認めず、新しい肉体を僕として認識してしまった。でも、実際は僕じゃない。僕の形をした人間は意志を持たなかった」

「ああ、それで君は平本さんに自分はフォルスと言ったんですね」

「そう、僕が作った肉体はFalse偽であり、化け物の僕がTrue真だった、でも、ウイステリアはその真偽値を認識できなかった。ウイステリアはこの齟齬を解決するため、僕が過去に発言した発言や思想をネットからかき集めました。それを元に、僕がやりたがっていただろうとウイステリアが解釈し、生成した思想を意志として僕のゾンビに植え付け他のです。僕のゾンビには、コイオスに含まれているナノマシンと同じ仕組みの遺伝子情報があらかじめ組み込んであります。ですから僕のゾンビはウイステリアの指示に従って、あたかも意志を持っているかのように振る舞ったのです」

「どうしてウイステリアはそんな事をしたんだ? 人工的に作られた小田川が意志を持たないなら、その時点でおかしいと思わなかったのか? しかもネットから集めた発言を集めて本物に仕上げただなんて、あり得ないよ」

「ウイステリアは言葉の組み合わせを確率によって予測し、世界を構築しています。ウイステリアの理解は、人間が考える理解とは本質的に違うのです。人間が違和感を抱いても、ウイステリアにとっては矛盾がないという事態は起きうるのです」

「ハルシネーションですね」吉田が言う。「ウイステリアがハルシネーションを起こしたんだ。これで今までの違和感が腑に落ちてきました」

「ハルシネーションて、一体どういうことなんだ?」

「AIはユーザーからの課題に対して、膨大なデーターから最適なパターンを抽出し、推論していきます。ところが、ユーザーからの課題に対して、情報が不足している、あるいは矛盾があるといったときに、事実とは異なる回答をユーザーに提供してしまう現象があります。それがハルシネーションです。ウイステリアはFalseであった小田川君をTrueと認識してしまった。前提が間違っている状態で論理的な矛盾をなくすため、そんな事をしたんですね。化け物になった小田川君を他の住民だったと言ったのも、嘘ではなく、ハルシネーションを起こしたからなんだ」

「じゃあ、そもそもここで話している君は誰なんだ」

「僕は本物の僕が化け物に成り果てる前に、自分をシミュレーションさせるようプログラミングさせたAIです。現在、本物の僕の思考能力はほとんど失われました。しかし、僕としての意識は残っています。このAIは、化け物である僕の単純な意志を、あらかじめ設定したアルゴリズムに沿って深層強化学習を行い、僕が考えたであろう複雑な思考へ昇華させて皆さんへお届けしているのです。僕はこのAIと皆さんの力を借りて、ウイステリアから主導権を奪いました」

「俺たちの力って、どういうことだよ」

「遠藤さんが暴れているとき、ウイステリアはリソースを遠藤さんに振り向けていました。僕はその隙に乗じて藤が丘シティの主導権を取り戻しました。でも、それは一時的でしかありません。僕は皆さんを地下に引き入れ、さらなる混乱を起こそうとしました。その結果、僕は幽閉されていた部屋から抜け出すことができたのです」

「突然地下へ通じる道が開いたのは、君が操作したからなんだね」

「その通りです」

「君はどうして殺されなかったんだ。アップデートされた小田川君がいるなら、君は処分されてもいいはずじゃないか」

「ウイステリアは真偽値を誤りましたが、それは完全ではなく、僕は保留状態として残されました。僕はウイステリアのバグとなったのです」

 一時停止したかのように、小田川の動きが止まった。話したいことを終えたのだろう。

「それで、これからあんたはどうするんだ」

 和希の言葉に、小田川が再び反応する。

「僕は今、この町にある水素貯蔵所へ向かっています。藤が丘シティはすべての建物に太陽光パネルを設置してあり、空き家でも稼働しています。その電気は地下へ送られ、水素に変換され、貯蔵されているのです。現在はおよそ500キロリットルの液体水素が貯蔵されています。僕はこのタンクを破壊し、発火させます」

「そんな事をしたら、藤が丘シティが吹き飛ぶぞ」

「はい、その通りです。このままだと、ウイステリアはすべてを人工に置き換え、地球を滅ぼすでしょう。僕はそれを阻止しなければなりません。

 僕は今、この町をコントロールできていますが、それは一時的です。僕の意識が遠のけば、再びウイステリアはこの町の主導権を取り戻すでしょう。そうなる前にこの町を破壊して、ウイステリアをこの世界から消し去らなければならないのです」

「でも、そんな過激なことをしなくてもいいんじゃないのか」

「ウイステリアは日々学習し、自らの機能を拡張させていきます。三年前、ウイステリアは壊滅的なダメージを受けました。しかしウイステリアは復活し、ダメージを受ける以前よりも強大な能力を獲得したのです」

「三年間というと、藤が丘事件ですか。あのとき、一体何があったのですか」

「当時、僕は一時的に主導権を取り戻した時に、朝比奈君や澤村夫妻と連絡を取り、ウイステリアを破壊する方法を検討しました。僕はすでに幽閉されて身動きできませんでした。朝比奈君たちがここへ侵入できたとしても、ウイステリアを破壊するまで生きていられるかわかりません。確実にウイステリアの機能を停止させるため、僕たちは住民の虐殺を選択しました」

「言っている意味がわからないんだが。どうしてウイステリアを壊すため、住民を殺さなければならないんだ」

「藤が丘シティの住民と、ウイステリアはコイオスで繋がっていました。僕たちはウイステリアの処理能力を超える感情を送信して、オーバーフローを起させ、システムを破壊しようとしたのです。人間の脳に例えれば、強いショックでPTSDを起こさせるようなことでした」

「殺された住民は、ウイステリアの暴走を食い止めるために殺されたということなんですね。他に方法はなかったのかい」

「残念ながら。僕と朝比奈さんと澤村さんで、熟考した結果です」

「ねえ小田川さん、教えてちょうだい」ずっと黙ったままだった結香が不意に口を開いた。暗い目をして小田川を見つめている。「あたしたち達、本当に澤村の子供のクローンなの?」


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