5‐5
「何よそれ……頭がおかしくなってしまいそう」結香は頭を抱え、しゃがみ込んでしまった。「あたし達がクローンだなんて」
「お前……なんてことをしたんだ」
和希は小田川を睨み付けた。戸惑いと怒り、恐怖が沸き起こり、渦巻きあってカオスになってくる。
小田川は訝しげな顔で和希を見ていた。そこに皮肉や嘲笑はない。
「私にはどうして和希さんが、そのような怒りを表明するのか理解に苦しみます。人工的に作られた存在であっても、精子と卵子を受精させ、養分を取り込みながら細胞分裂していく過程は自然のそれと同じです。記憶も作られたものです。しかし、記憶は脳の中で発生している物質の変化でしかありません。実際の経験によって形作られた記憶と人工の記憶、その間に物理的な違いは存在しないのです。むしろ管理されている分、突然変異で身体へ異常が生じることもありませんし、不要な記憶で精神に悪い影響を及ぼすこともありません」
「だが、俺の記憶は本当に起きたことじゃないだろう。嘘の記憶だ。そんな記憶を頼りにして生きていけというのか」
「確かに和希さんの記憶は現実に起きたことではありません。でも、過去に起きたことは熱力学第二法則における不可逆な過程でしかありません。それを可逆的に遡って確認できるものは情報です。その情報が真実であることと、そうでないことに、どのような意味があるのでしょうか。現在の情報と矛盾しない限り、問題ないのでは?」
平本は暗闇を走った。時折何かにぶつかったり、つまずいたりして顔面や肩をぶつけて痛みが走る。しかし、殺されるかもしれないという恐怖が突き上げ、体を前に進ませた。
さっき現れた黒い奴は熊なんだろうか。熊もでかかったが、さっきの奴は更にでかいように思えた。ともかく危険なのは確かだ。立ち向かっていった防護服の男が、あっさりと倒されるなんて尋常じゃない。
しかし、これからどうすればいいんだと思っていると、また何かにつまずいて思い切り右肩を打った。激しい痛みを感じながら立ち上がるが、もはや右腕全体が痺れ、左手で触れても自分の腕のようには思えない。息も上がってきたし、もうだめかもしれない。
――右へ曲がって――
耳元で声が聞こえた。
「お前……小田川だろ。まだ生きていたのか」
――僕は大丈夫です。それよりこのままだと、平本さんは外へ出られません。僕の言うことに従ってください――
「お前なんか信頼できるわけないだろ。どうせ俺を溶かしてアップグレードさせるんじゃないのか」
――アップグレードした僕。あれはフォルスだったんです――
「えっ? それってどういう意味なんだよ」
――それは――
その時、背後からいきなり肩を掴まれた。振り返ると血の臭いがした。
「平本」
嗄れた低い声。八田理事長だ。
目の前にわずかな光で照らされた顔が現れる。左肩と左耳が着くほど、あり得ない角度で曲がっていた。右半分がえぐれ、真っ赤な血で溢れ、だらりと垂れた眼球が、鼻に引っかかっていた。
「ひゃぁっっ……」
悲鳴を上げながら、左肘で八田の胸を思い切り突いた。手が離れた瞬間、平本は再び走り出す。向かった方向は右だった。よりによって、小田川が指示した方向に進んでしまった。方向転換しようとしたが、既に左右は壁だった。後ろには八田がいるから、前に進むしか選択肢がない。びくびくしながら走って行く。
やがて、前方がうっすらと明るくなっているのに気づいた。更に進んでいくと、左手から光が差し込んできた。そこには空間が広がっていて、何人か人の姿が見える。そのうちの一人の顔があまりに意外で、思わず部屋の中に踏み込んでいた。
小田川の背後にある開け放たれたドアから、人が出て来た。和希と目が合う。
「平本」
「和希さん、どうしてこんなところにいるんですか?」
「あんたこそ何でこんなところにいるんだよ」
平本は唖然とした顔をして和希を見ていたが、小田川に視線を移し、怯えた目を浮かべた。
「おや? 八田理事長は迎えに来なかったのですか」
小田川は右眉をわずかに上げ、冷たい目で平本を見た。
後ずさりし始めた平本の更に背後から「平本……」という嗄れた声が聞こえてきた。
「ひぃぃっ……」
平本が情けない悲鳴を上げながら走り出し、足をもつれさせて和希たちの手前で転がるように倒れた。
白い防護服を真っ赤な血で染め、顔の右半分が赤くえぐれた男が出てきた。首の骨が折れているのか、首が左側へあり得ない角度で曲がっている。そのぎこちない足取りはB級映画に出てくるゾンビめいていた。声と左側の顔から、辛うじて男が八田だとわかる。
「一体どうしちゃったんだよ。痛くないのか」
「問題ない。私もアップグレードしているんだ」
「その割には、ずいぶん意地悪い性格だったよな」
「私たちは状況によって最適な肉体と精神をつくり上げているのです」小田川が話を引き継ぐ。「あれほど悪評が高かった八田さんが、突然聖人君子に豹変したら周囲の人々が訝しむでしょう」
「で、なんであんたがこんなところにいるんだよ」
「パンデミックを利用するんだね」
島名が硬い視線を小田川に送る。
「ご明察です。新型コロナが流行したとき、人々は未知のウイルスに怯え、ロックダウンを実施して交流を断絶しました。私は新型コロナなど比較にならない強毒な人工ウイルスを開発し、世界に拡散します。人々は恐怖に怯え、ウイルスが流行した地域を隔離するでしょう。そこへ私が入り、変革していくのです」
「ウイルス……それで理事長はこんな格好で現れたんだ」平本が声を震わせて話し出す。「パンデミックが起きたから陽公会が藤が丘シティを隔離したんだ」
「そう。既に計画は実行に移されました。厚労省へは、多数の多数のアップグレードした職員を送り込んでいます。彼らが理事長に隔離の指示を行ったのです」
「君が作ったウイルスは、エボラウイルスをベース作成されたのだろう。そもそも私がここへ来たのは、嶋本の細胞膜にあるタンパク質が改変されていたからなんだ。それはすべて、エボラウイルスの受容体として機能するものだった。嶋本はエボラウイルスに罹患しない体質になっていた。つまり、君が人工ウイルスを拡散したら、アップグレードした人だけが生き残るんだ」
「その通りです。このウイルスは藤が丘ウイルスと命名され、今後、全国各地でパンデミックを引き起こすでしょう。世界の人々は恐怖し、日本への渡航を禁止し、日本は世界から隔離されます。日本のアップグレードした指導者たちには、国民の命を守るためという理由で強権的なロックダウンを実施させます。その間に私たちは、隔離された住民をアップグレードしていくのです。日本人すべてのアップグレードが終了した後、世界の人々はパンデミックは終了したと思ってくれます。そして日本の隔離措置が解禁されたとき、我々はパンデミックとアップグレードを世界中に広げていくのです」
「私はそれを阻止するためにここへ来た。熊になった遠藤には、すべての原因は小田川君であり、彼が藤が丘シティで活動を再開させていると伝えたんだ。彼は怒り狂い、狙い通り小田川君を攻撃目標にしてくれた。人間は研究所へ入れないが、ネズミなら通風口をたどれば可能だ。私は彼に研究所の構造を教えて地下に潜らせた」
「八田さん、聞きたいことが山ほどあるんですけど」吉田が発言した。「まずはその怪我ですよ。一体どうしちゃったんですか」
「これか」八田がえぐれた顔を指差す。「化け物に襲われたんだ」
「化け物? 遠藤さんじゃなくって」
「よくわからないが、巨大な奴だった。私の部下は全員奴に殺された」
「島名さんは、遠藤さん以外にも化け物を送り込んだんですか」
「私は知らない。送り込んだのは遠藤だけだ」
「でも、八田さんを襲ったんだから、当然小田川君に敵対するか、少なくとも小田川君にはコントロールできない存在ですよね」
「その質問には私が答えましょう」小田川が発言する。「八田さんを襲った存在は、僕がアップグレードするためにここへ連れてきた住民です。彼は処置を終える前に我々を振り切って、暴れていたんです」
「小田川君、君の説明はとってつけたような印象なんだな。八田さんはそれが巨大な存在だと言っていましたね。和希さんや結香さんが変化していた時は膨大なカロリーが必要だったんですよ。ましてや大きな体を作るためには、更に多くのカロリーを摂取しなければならない。この閉塞した空間で、どうやってそこまでのカロリーを摂取できたんですか?」
「僕が嘘をついていると言うのですか」
「いや、そういうことじゃなくて――」
「ヴィッ、ヴィッ、ヴィィァァァッー」
八田の背後にある入り口から、何かの叫び声が聞こえてきた。錆びたヒンジが軋むような、金属的な響き。耳の穴に突き刺さり、脳をぐちゃぐちゃにえぐるような不快な音だ。同時に糞便の強烈な臭いが漂ってきた。
「これって……一体なんですか」
「私の部下を殺した奴だ。こっちへ来るぞ」
八田が暗い入り口を見た。
ドアの奥、漆黒の闇が動いたように思えたとき、
真っ黒なものが突然飛び出し、八田の頭を横に払った。
ボンッと音を立て、頭が血しぶきを上げて破壊された。
首があった場所から大量の血が噴出する。
「ひぃぃっ」
吉田が悲鳴を上げながら尻餅をつく。
八田の体が、棒のようにばったりと倒れる。湯気を立てた大量の鮮血が、フロアを真っ赤に汚していく。
成実はようやく血だまりから逃れ、四つん這いになりながら前へ進んでいた。焦りが空回りし、自分の荒い呼吸音が遠くから響いてくる気がした。
その時、突然額に硬い物がぶつかった。脳から背中にかけて衝撃が走り、意識が飛んだ。気がついたとき、背中を床に着けて倒れていた。額が焼けるように痛い。恐る恐る体を起こして、手探りで周囲を探った。手に、金属の壁らしき感触があった。どうやらこれに頭を打ち付けたらしい。
周囲は明かり一つない暗闇。聞こえてくるのは、遠くから響いてくるサーバーのうなり声だけ。このままいれば、防護服の男たちを殺した化け物が襲ってくるかもしれない。でも、動いたら逆に化け物と鉢合わせするかもしれない。二つの思いがせめぎ合い、もつれ合い、やがて考えることに疲れ果ててしまった。痛むのは額だけじゃない、腰や肩もどこかでぶつけたのか、ズキズキ痛む。逃げるにしても、すでに体力が尽きていた。
もう限界だ。
再び仰向けに倒れ、胎児のように体を丸めた。怖くて情けなくて、涙が溢れていく。こんな風になったのは結局自業自得よね。友達の旦那を寝取った挙げ句、人まで殺しちゃったんだもの。今更逃げたってみんなに顔向けできない。このまま死んじゃってもいいかもしれない。
「成実さん」
不意に耳元で声がした。
「ヒッ」
恐怖が突き上げ、体がブルブルと震えてくる。やっぱり死にたくないよ。死ぬのは怖い。
「ねえお願い、何でも言うことを聞くから、助けて……助けてよ」
目を閉じ、体を縮こまらせ、かすれた声で叫ぶ。
「大丈夫、成実さんはきっと生きてここから出られます」
「でも……あたし、あのおばあさんを殺しちゃったのよ。どうしようもない奴なのよ」
成実の下で、目を剥きながら呻いている榎本の妻の姿が目に浮かんでくる。
「そう、あなたは人を殺してしまった。でも、その時は薬で精神がおかしかったんですよ」
「薬? どういうことなの」
「成実さんはコイオスを飲みましたね。あれが感情の起伏を激しくさせたんです。そもそも榎本夫妻が、成実さんたちの不倫現場の画像を持っていたのはどうしてだと思いますか。ウイステリアが榎本夫妻に提供したのです」
「なんでそんなことしたのよ」
「すべてはデータを取得するためでした。榎本夫妻に成実さんたちを脅すよう仕向けて、感情の推移を記録したのです」
「何よそれ、データを取るためにあたしの人生をぐちゃぐちゃにしたっていうの。ひどいじゃないの」
「残念ながらその通りです。ウイステリアは、殺人についてのデータを欲していたのです」
「そんな……馬鹿な話ってあるの?」
じわじわと怒りで心が染まり、体の芯が熱くなっていく。成実は首を上げ、闇を睨み付けた。
「そう、怒って下さい。感情の高ぶりこそが、行動を起こす原動力となるのです」
成実は体を起こす。「ねえ、どうすればここから出られるのよ」
「僕の言うことを聞いてください」
「また変なところへ連れて行くんじゃないよね」
「大丈夫です。もうやらなければならないことはすべて終わりました。まずは左へ進んでください」
「わかったわ」
成実は言われたとおり、四つん這いになり、左へ進んでいく。
ドア口から、磨かれた石のように、艶を放つ黒く巨大な爪が出ていた。
闇の奥、スッと浮かび上がるように真っ黒な頭部が露出した。
全体が黒く脂ぎった毛で覆われていた。口吻が伸び、半開きの口からは、真っ赤な歯茎と、乳白色の鋭く尖った歯が露出していた。興奮したように浅い呼吸を繰り返しながら、だらだらとよだれを垂らしている。尖った耳は上に突き出て、つり上がった目が、和希たちを射貫くように睨めつけていた。犬に似た顔つきだったが、大型犬と比べても格段に大きい。まるで象だ。
黒い巨大な生物は、ドア口よりも大きい。そこを無理矢理抜け出ようとしていた。
生物が動くたび、ミシリミシリと音を立て、ドア周辺の壁にひびが入り出した。
「結香、逃げるぞ」
和希は結香の腕を掴んだ。茫洋とした目で見つめる彼女を引っ張り上げ、背中を押すようにして奥の人工子宮がある場所へ連れて行った。
ひびの入った入り口がついに崩れ始めた。黒い肩が現れ、化け物は室内に入り、全身を露わにした。
二本足で立ち上がる。そのままだと天井に着いてしまうのか、前かがみだ。短い足に対して腕は長い。頭から肩、手足は黒い毛で覆われているが、胸から腹にかけて、血管がうっすらと浮き出た生白い肌が露出していた。腹は水風船のように膨れ、動くたび波打つように揺れた。両手からは、八田の頭を破壊した黒く輝く鋭い爪が三本伸びている。
「ヴィィァァァッー」
鼓膜をかきむしるような雄叫びが耳に突き刺してくる。
「これ……何だよ」
小田川を除く全員が、呆気にとられてこの化け物を見上げていた。
化け物が三本の爪を小田川に向けて振り下ろす。
フォークがケーキへ刺さるように、スッと胴体を貫通した。小田川は大きく目を見開き、体をガタガタと痙攣させ始める。
化け物は小田川を爪に刺さったまま持ち上げ、頭からかぶりついた。
咀嚼するごとに、ゴリッ、ゴリッ、と骨の砕ける音がして、下顎から真っ赤な血液が死ただ落ちてくる。
首を振り、肉を引きちぎる。小田川の胸から先がが食われた。両腕は辛うじて体に着いた状態で、ぶらぶらと揺れながら垂れ下がっていた。大量の血が滝のように流れだし、床へ広がっていく。
「ヴィッー、ヴィッー、ヴィッー」
叫びながら右腕を振る。爪に刺さっていた小田川の残骸が飛び、壁にぶつかった。白い壁に鮮血を四散させ、死体は床に落ちた。
島名は和希たちのところに逃げてきた。吉田と平本も、這いずるようにしてたどり着いた。しかし遠藤は動けないまま化け物を見上げている。
化け物は太く短い右脚を上げた。足にも短めではあるが、手と同じく鋭い爪が伸びている。
右足は躊躇なく遠藤の背中を押し潰した。
「ヴェェッ……」
遠藤が振り絞るような絶叫を上げた。
繰り返し踏む。
踏まれるたび、潰された果実のように、口や鼻、裂けた皮膚から血が噴き出す。
遠藤の体か扁平になり、血だまりに沈んだ。手足と頭部があり得ない位置まで広がり、血の中に浮いている。
化け物が和希たちを見た。
「ヴィッ、ヴィッ、ヴィィァアァッー」
雄叫びを上げながら、化け物が歩き出した。行く手を塞いでいるタンクや機材を薙ぎ払い、和希たちに近づいてくる。
キャビネットが化け物の足の下で、紙のようにぐしゃりと簡単に押し潰された。壁から出ているステンレスのパイプが破壊され、茶色い液体が噴き出す。
ここから脱出するには、化け物の横を通り抜け、化け物が出て来た入り口へ行くしかない。しかし、小田川を刺し貫いたスピードからして、愚鈍ではないだろう。しかも結香は頭を抱えてしゃがみ込んでいるし、とても走れる状況ではない。
逃げ道はない。
その時、吉田が立ち上がり、化け物に向き直った。
「吉田さん、殺されちゃうよ」
和希の声にも耳を貸さず、吉田は前に進み、化け物の間合いに入ってしまった。
「ヴィァッー」
化け物が敵意に満ちた目で吉田を見下ろした。血に濡れた右の爪を振り上げる。それでも吉田は怯まない。
「小田川君」
吉田が化け物に向かって叫ぶ。
一瞬、化け物の動きが止まる。




