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5‐4

 へミスとのにらみ合いから五分ほど経過した頃、工場のドアが開いた。そこには紺のポロシャツにベージュのチノパンを穿いた男がいた。三十代に相応な肌の色艶をしていたが、高校生のようなピュアな目をしていた。

 島名が硬い表情で男を見ていた。「小田川君、久しぶりだね」

「この人が小田川翔吾なのか」

「ご挨拶が遅れて申し訳ありません。少々トラブルがありましてね」

 小田川が和希たちに歩み寄ってきた。

「トラブルというのは、熊に関することか」

「それも要因の一つです」

「君がやろうとしていることはわかっているんだ」

「ええ、さっきから島名先生のお話は伺っています。すべて先生の考えているとおりです。私の目的は、この世界にあるすべての情報をデータベースのに収め、再構築していくことです。それによって、地球に存在する様々な悲惨な出来事を消し去ることが可能だと思っています。天変地異もなく、動物が他の動物を襲って喰らうといった野蛮な行為も消えるでしょう。まずはその先駆けに、もっとも野蛮で、この地球を汚染し続けている動物である人類を変革するのです」

「小田川君、君の考えは狂っている。肉体は交換できても肉体に宿った意識は交換できない。私が私であるという意識は、唯一無二のものなんだ」

 小田川は澄み切った美しい目で微笑む。

「意識は肉体のフィードバックでしかありません。自分の意志だと思っている行為も、実際は肉体の動きが先です。人が行動を意識する三百ミリ秒前から、既に脳内ではその活動が始まっています。つまり、意識は肉体の行為を追認しているのに過ぎないのです。過去の私が、今の私であることを担保しているのは記憶です。そして記憶は海馬を中心とする脳の組織です。意識とは、肉体の上に浮かんだ上澄みのような現象にしか過ぎないのです。確かに人のアップグレードは死が伴います。それは生物の生存本能を激しく刺激するでしょう。しかし同じ肉体、同じ意識を作り上げれば、その人は復活するのです。アップグレードは死を乗り越え、自然に任せていた進化を人類自らがデザインし、選択する行為です。アップグレードはこの地球の生命を、新たな段階へ引き上げるのです。島名先生にはご理解いただけると思っていたのですが、残念です」

 視線の隅で、何かの動きを感じた時だ。

 壁際を、灰色のネズミが一匹走り抜けていくのが見えた。

 小田川が鋭い視線でネズミの動きを追った。「とうとうここへも来ましたね」

「それってまさか」

 壁に取り付けてあったダクトカバーが外れた。

 中から大量のネズミが溢れ出てきた。

 ネズミはあっという間に床へ広がり、室内を駆け回り始める。唖然としてその様子を見ている和希たちに対して、小田川は笑みを崩さない。室内を飛んでいる遠藤の片割れが、激しく鳴き始めた。島名は厳しい視線を小田川に向けている。

 ネズミが山となっていく。境目が消え、無数の尻尾がウネウネと動く巨大な生き物となっていった。尻尾が縮み、手足と頭部が形作られ、熊となっていく。

「ウォォォォッ」

 熊が咆哮し、小田川を睨み付ける。小田川と熊の距離はほんの三メートルほど。しかし小田川は逃げようとしない。

 熊が強烈な圧を放ちながら、小田川に殺到する。

 ぶつかる寸前、小田川は闘牛士のようにひらりと躱し、熊は壁に衝突した。

「ヴオァッッ」

 振動と共に杭打ちを思わせる重い音が響き渡り、熊が苦痛に満ちた叫びを上げる。

 しかし熊はよろめきながらも立ち上がり、小田川を探そうと周囲を見回す。

 小田川がチノパンのポケットから何かを取りだした。Y字型のスリングショットだ。

「そんな物で熊と戦うの?」

 結香が呆れた顔で呟いた。

「ヴォッ、ヴォッ、ヴォッ」

 小田川を認識した熊が興奮した息づかいで叫ぶ。

 小田川は慌てる素振りも見せず玉を装着し、ゴムを引っ張った。

 熊が動き出す。

 小田川は伸ばしたスリングショットを天井に向けた。

「えっ?」

 球を放つ。

「ギェッッッッ……」

 玉が鳥の遠藤に命中した。

 羽根が飛び散り、一直線に落下した。

「ヴオッッッ……」

 同時に熊がうつ伏せに倒れた。体を激しく震わせ「グゥゥェェ……」と呻くような声を上げている。さっきの興奮した様子とは明らかに違う。

「なにが起きたんだ」

「鳥と熊は一人の遠藤だ」島名が小田川を睨みながら呟いた。「一方にダメージを与えれば、もう一方もダメージを受ける」

「その通りです」小田川が笑顔で話し出す。「熊の遠藤さんを仕留めるのは難しい。そこで鳥の遠藤さんを捕まえようとしたのです。「最初に結香さんのお兄さんへ接触したのはそのためです」

「グオッ……グオッ……」

 熊の口から血があふれ出してきた。這いつくばるようにして、落ちた鳥へ近づいて行く。痙攣させるようにバタバタと羽根を動かしている鳥へたどり着くと、熊は上から覆い被さった。熊の背中が表面が波打つように動き出す。頭部と手足が縮み始め、巨大な毛の塊となった。一瞬ネズミの尻尾を全身に発生させたかと思うと、また元に戻る。

 やがて背中が膨れ始めた。

 大きな瘤ができていったかと思うと、鮮血を飛び散らせながら爆発した。

 大量の血が溢れ、床を汚していく中、傷口から血と共に何かが出て来た。

 人間だ。

 裸で、血にまみれながら、転げるように床へ落ちた。仰向けになると、咽せながら大量の血を吐き始めた。

「遠藤君か」島名が血だまりの縁に立って見下ろした。「大丈夫か」

 遠藤は今にも消え入りそうな弱々しい生気を放つ目で島名を見ながら、ゆっくりと首を横に動かした。

「問題ありません。遠藤君のデータはすべてデータベースに収められています。アップグレードした遠藤君はいつでも制作可能ですから」

 小田川が冷静に話し始める。

「馬鹿な……ことを……するんじゃねえ」

 もはや体を起こす気力もないのだろうか。遠藤は僅かに首を動かし、小田川を睨み付けた。

「済まなかった。私は君を救えなかった」

「何を言っている」遠藤は目を歪ませ、ささくれだった視線を島名に向けた。「都合が悪くなった途端、お前はすべてを投げ出して逃げていったんだろうが」

「君の言うとおりだ。悔やんでも悔やみきれない」

「俺が殺した二十一人の責任は全部お前にある。俺に脅されたなんて言い訳をするかもしれないが、この世界からお前の罪の痕跡を消したいと思っているからこそ俺に協力したんだろ。朝比奈たちの犯罪も、お前が裏で手を引いていたんじゃないのか」

「それは違う。あの事件に私は関わっていない」

「そうか。だったらどうしてこいつらがいるんだ」

「えっ……」

 遠藤は和希、そして結香を見ていた。

「清水区で最初にお前がいたとき、俺はひどく驚いたんだ。どうしてお前が生きているのかと。しかも相方の家には美月がいた」

 美月……聞いたことがある名前。

「美月って誰よ」

 結香が震える目で遠藤を凝視していた。

「決まっているじゃないか。澤村美月、お前のことだ。おればずっと死んでいたとばかり思っていたんだ」

「お前は一体何を言っているんだ」

「裕樹、お前もだ。どうして和希なんて名乗っているんだ」

 裕樹。

 いきなりこめかみを殴られたようなショックが襲い、和希は頭を抱えた。

「俺は……裕樹なんて名前じゃない」

「あたしもよ。美月なんて知らないわ」

「俺にはそう思えないがな」

 遠藤は右頬をひくつかせるようにして笑う。

「島名さん、あんたも気づいていたはずだ。こいつらが澤村たちの子供だってことを。俺の善良な鳥と一緒で言えなかったのか」

 和希は恐る恐る島名を見る。彼のこわばった表情は、遠藤の話が図星だと教えていた。

「確かに私も似ていると思っていた」

「澤村って一体誰なんだよ」

「藤が丘事件の犯人は二人いた。そのうちの一人が澤村君だった」

「俺たちは犯人の息子だって言うのか」

「事件の後、澤村君たちは一家心中をしている。既に彼らは死んでいるはずなんだ」

「だったらあたしたちは……」

「小田川君」島名が硬い表情で和希たち見て、小田川に視線を移す。「君は澤村君の子供の遺伝子を使って彼らを作ったのか」

「論理的に考えれば、そういった結論になりますね」

「他人事みたいに言わないでよ。あたしたちはやっぱりクローンだったのね」

「どうしてそんな事をしたんだ」

「遠藤君は私にとってバグだった。よって遠藤君を捕まえて処置する必要があったんです。そこで僕は彼を捕らえる仕組みを作る必要があった。そのために和希君と結香さんを利用したのです」

「つまり、俺たちは遠藤を釣り上げる餌として作ったっていうのか」

「端的に言えばそのようになります。遠藤君を捕まえるのには、罠が必要でした。そのためには旧藤が丘シティの住民が必要でした。それも普通の人々ではインパクトが弱いし、すぐに見つけられない可能性がある。かと言って、朝比奈さんや澤村さんでは、人々に顔が知られすぎている。そこで、澤村夫妻の子供たちをクローニングすることにしたのです。もちろん澤村さんの子供は死んでいるので、あなたたちを和希君と結香さんへ設定したのです」

「八田が探偵を使って俺達を監視していたのは、遠藤が現れるのを待っていたからなのか」

「その通りです。清水区で殺された相川さんは、度々遠藤さんの犯行現場に姿を見せていたので、いずれターゲットになるだろうと以前から想定していました。そこで和希さんと大浜家を相川さんの近くに住まわせたわけです。その後、相川さんが殺された時点で、和希さんと潤一さんを現場へ向かわせて、遠藤さんに和希さんを認識させたました。

 次に嶋本さんが和希さんたちにセットされたハクタクウイルスを活性化させる薬品を、自らがスプレーとなって大浜家の室内へ噴霧させたのです。これによって、変身した遠藤さんと互角に戦える体にしたのです」

「じゃあ、なんで潤一はお前たちに掠われたのさ」

「掠ったのではありません。回収したのです。潤一さんはハクタクウイルスが活性化しなかったのです。本来ならば、和希さんが熊になった遠藤さんに襲われた時、潤一さんは動物に変態して遠藤さんを倒さなければならなかった。しかし潤一さんはうろたえるだけで、和希さんを倒せなかった。そこで潤一さんに欠陥があると判断して、一旦ここ藤が丘シティへ戻したのです。

 もう一人、結香さんのお父さんのことも説明しなければならないでしょう。彼は和希さんと結香さんの戦いをサポートさせるために設定したのです。ところがプログラムのミスで、私たちからも和希さんたちを守るようになってしまったのです。彼が嶋本さんを襲ったのもそれが理由です。私は潤一さんと同じく彼を回収しようとしましたが、入院したため不可能になりました。そこでやむなく彼を殺害したわけです。

 二人の戦闘員が欠員して、我々は遠藤さんの殺害計画を練り直す必要が出てきました。そこで嶋本さんを戦闘員に加えることにしたのです。潤一さんも当初のハクタクウイルスによる変態ではなく、身体能力を強化させて投入しました。

 和希さんたちがシャチ襲われた時の戦いが、僕にとっての総力戦でした。しかし、結果は遠藤さんに逃げられてしまいました。主な理由は和希さんと結香さんが戦力にならなかったからです。当初のシミュレーションでは速やかに変態を行うはずでしたが、発現の契機が感情というファジーなものだったのが間違いでした。このため僕は、和希さんと結香さんを回収するよう指示したのです。それ以降は和希さん自身がご存じのように、お二人が変態して逃げ去っていったわけです」

「でも、和希君は和希君としての戸籍があったんだよ」腕を組み、考え込むように沈黙していた吉田が口を開いた。「どうしてそんな事ができたのさ」

「私の目的は、この世界にあるすべての情報をデータベースに収め、再構築していくことだと説明しましたね。その中には当然官公庁の情報も含まれています。既にデジタル庁や厚労省、地方公共団体の一部でアップグレードした人たちが活躍しています。住基ネットや、アップグレードした方がいる地方自治体の戸籍情報には、アクセスが可能となっているんですよ」


「ちょっと待ってよ」

 成実は闇の中、わずかに確認できる男の背中を必死になって追いかけていく。

「嫌だね。どうせお前も奴らの一味なんだろ」

「違うって、あたしアップグレードなんかしていないからね」

「何だと――」

 その瞬間、男は何かにつんのめり、あっと叫びながら倒れた。起き上がろうとしたところで、成実は男の腕を掴んだ。

「逃げないから離せ」

「わかったわ。でも、変なまねするんじゃないよ。逃げたらまた捕まえるからね」

 成実は身構えながら手を離す。

「お前、どうしてここにいるのか経緯を話してみろ」

「あんたが先に話しなよ」

 男はため息をついた。「じゃあ、俺から先に話そう。俺の名前は平本だ。とある件で探偵に強請られて、病院に来た佐山という男の住所を教えたんだ」

「ああ、佐山なら知ってるわ。それと、探偵の名前って、もしかして永松じゃないの」

「お前、何で知っているんだ」

「家に来て、佐山のことを聞いてきたわ」

「その後、永松はどうしたんだ」

「筋向かいの家に入っていったけど、あとは知らない」

 平本は不審げな顔をして見せたが「そうか」とだけ呟き、深く追求しなかったので、内心ほっとした。榎本の婆さんの話をしたら、自分があの婆さんを殺したことを知られてしまうかもしれなかった。

「で、アップグレードの件はどこで聞いたんだ」

「さっき友達が来たのよ。その友達がアップグレードされていて、あたしにもアップグレードしろなんて言ってきてさ。しかも奴ら、もうアップグレードしたあたしを作ってたのよ。あたしそっくりな奴。もう、びっくりだったわ」

「そりゃあ災難だな」

「それでその友達に、ここへ連れてこられたの。あたしを処置するとか言ってたけど、きっと殺すつもりだったんでしょうね」

「そうだよ。さっき俺がいた部屋には、人間を溶かす機械があったんだ。俺達、ドロドロになって、化け物の原料になるところだったのさ」

「あんた、あたしの話になっちゃったけど、あんたがここへ来た理由を教えてもらってないわよ」

「永松の行方を捜しに来たんだよ。心配になってさ」

「嘘、どうして強請る相手の行方が心配なのよ。消えたら逆にせいせいするんじゃないの?」

 平本は明らかに動揺した顔をして見せた。

「お互い大変なことになっているんだから、正直に話してよ」

 平本は陽公会で理事長の秘書をしており、その被後見人を監視するよう言われていた。その中で町中に突然現れた熊やシャチが被後見人を襲っていること。その件に佐山が関わり、永松が調べていたことを話した。

「で、その佐山が昔勤めていた病院へ行ったら、女に捕まって、ここへ連れてこられたってわけさ」

 突然、正面から光が当てられた。成実は目を瞬かせながらたじろいだ。懐中電灯で、誰かが成実たちを照らしていた。目が慣れてくると、光の背後から白い防護服が見えてきた。

「ヤバい、逃げるよ」

 走り出そうとしたが、背後から新たな懐中電灯の光が成実たちを捉える。やはり白い防護服が見える。周囲を見回した。懐中電灯の光で、ここがサーバーラックが立ち並んでいる区画なのがわかった。ラックとラックの間は、人が一人通れるスペースがあった。逃げよう。そう思ったとき、ラックの間からも新たな光が放たれた。

「囲まれちゃったじゃない」成実は不安げに周囲を見回す。「あんたたちは誰なのよ」

「ヤバいんじゃないのか」

「平本、そんなに怯えた声を出すんじゃない」

 懐中電灯の向こうから、低く嗄れた声が響いてきた。

「理事長、どうしてここにいらっしゃるんですか」

 懐中電灯の間から男が一人出て来た。防護服姿だが、頭のフードを取り、白髪頭が露出していた。マスクも外している。

「この人、誰か知っているの?」

「陽公会の八田理事長ですよ」

「この人、あんたの上司ってわけ? だったらあんたもグルじゃないのよ」

「グルってなんだよ。陽公会は全国に多数の医療機関を抱える医療法人で、八田さんはその理事長なんだよ」

「じゃあ、なんでこんなところまで入って来られたのよ」

「それは……」

 平本は不安げな目で八田を見た。

「平本、お前は陽公会が感染症派遣チームを設立して、民間初のDMAT指定医療機関の認定を受けたのは知っているだろう。今回ここ藤が丘シティで、未知のウイルス感染症が発生したという報告があり、DMATから派遣要請があったんだ。この場所への進入も、管理者から許可を得ているんだ」

「そうなんですか」

 平本は不安げに目を震わせながら、八田と成実を交互に見た。

「騙されないでよ、こいつらアップグレードした康孝と組んで、あたしをここに連れてきたんだからね」

「平本よ。そんな見知らぬ女と、私のどちらを信頼するんだ」

「ええっと……」

 平本の目が泳ぐ。

「わかったわよ。あんたはこいつらに連れていかれてアップグレードされなさいよ。あたしは戦うからね」

 成実は周囲を見回す。前後は複数の男たちがいるから、暴れても間違いなく取り押さえられる。ラックの間にいるのは一人だけだから、多少なりとも可能性はある。もっとも、アップグレードしたあたしみたいに驚異的な力があれば歯が立たないけど。

 平本は役に立たないし、あたし一人でやるしかない。

 左側にいる男に目標を定める。

 行くぞっ。脚を踏み出そうとした時、

 背後でドンッと何かか倒れる重い音が響き、足元から振動が伝わる。

「どうした」

 八田が訝しげな表情で、闇を見つめた。

 再びドンッと音が響く。

 成実は襲撃のタイミングを見失い、前のめりになったまま、音のする方を見た。

「ねえ……一体何なのさ」

「熊じゃないのか?」

 平本はあからさまに怯えた顔をしていた。

 背後にいた男たちが振り返り、懐中電灯を闇に向けた。

「ヴィッ、ヴィッ、ヴィィァァァァッー」

 金属が軋む音を、限界まで増幅したような叫びが響き渡る。

 耳をえぐるような不快で不穏な音。

 押し出されるような圧を感じた瞬間、乱れた懐中電灯の光に、黒いものが映し出された。

 限られた光の中、全貌は捉えられないが、恐ろしく巨大なのはわかった。

 真っ赤な歯茎と、凶暴な程に伸びた乳白色の犬歯が、光の中をかすめた。

「ああっ」

「うおおっ」

 叫びと共に、背後にいた男たちが、押し潰されていく。

 黒い物が目前に迫るが、成実の体は恐怖で固まったまま。

「きゃあっ」

 何かがぶつかり、はじけ飛ばされた。

 頭の中が真っ白になり、気がついたときには床へ倒れていた。訳がわからないまま、機械的に体を起こす。手を動かすと、左手に金属の感触があった。どうやら自分はラックの間へ飛ばされたらしい。

「あああっ」

「ヴィィァァァッー」

「やめろっ……」

 男たちの叫び声。ドンッと何かがぶつかる音。黒い物が発する鳴き声。コゴッ、ゴゴッと硬いものが砕かれる鈍い音。そして、鼻が麻痺しそうなほどの強烈な腐敗臭。

「ねえ……何なのよ……」

 恐怖で痙攣するように体が震えてくる。逃げたいが、弾き飛ばされたときのショックで、脳が上手く働かない。足に力が入らず、動けない。

 やがて叫び声は消えていった。

 クチャリ、クチャリ。

 犬が食い物を咀嚼するような音。

 床に着いた右手に、熱い液体の感触があるのに気づいた。

 腐敗臭の中に、むせかえるような金属臭が混じる。

 手にどろっと粘つく液体の感触があった。手の平が、懐中電灯の光に照らされる。

 真っ赤な血が付着していた。

 あの黒い奴が、人を食っているんだ。逃げなくちゃ。

 恐怖でこわばった体を無理矢理動かして立とうとしたが、腰を浮かせた瞬間、滑って肩から床に落ちる。

「ギャッ」

 痛みで思わず悲鳴を上げてしまった。

 ああ……やばいやばい、声であたしがいるのがばれちゃうよ。

 パニックを起こし、体中がガタガタ震えて吐き気がする。逃げようとしたが、手足がばたつくだけで前に進まない。まるでひっくり返ったカメじゃないの。そう思うと妙におかしさがこみ上げ、分裂したもう一人の自分がおもちゃの猿のように、ケタケタと無機質に笑い始めた。

 ねえ、お願いだから助けて……誰か助けてよ。

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