4-8
吐き気がする。その場にうずくまってすべてをやり過ごしてしまいたい。けれどもたもたしていたら、恵輔たちが戻ってしまうんだ。
やらなければならない。
成実は自分の家の玄関に立ち、大きく深呼吸をした。赤いLEDランプが点灯し、顔認証が始まる。
――認識エラー、認識エラー――
「何っ、ふざけんじゃない。あたしはこの家の住民よっ」
ドアハンドルを力任せに引っ張るが、ガチガチと音がするだけで、開くことはない。きっと偽物のあたしがいるから、人工知能がエラーを起こしているんだ。成実は玄関を諦め、柵を乗り越えて庭へ侵入した。掃き出し窓の向こう側に、足を組んでソファに座っている女がいた。もう一人の成実だ。左手にはピンクのスマホを持ち、指でスワイプさせていた。成実は窓を開け、もう一人の成実を睨み付ける。成実は画面から視線を移し、外にいる成実を見て微笑む。
「あら、戻ってきちゃったのね」
「あんた……」声が震えているのを上の空で意識しながら叫ぶ。「そのスマホ、あたしのよ。返して」
「でもね、あなたはあたし、あたしはあなたなの。顔認証だってバッチリだったわ。一発でロックが解除されたし。ほら」
成実がスマホの画面を見せる。三年前、恵輔の所属する草野球チームが主催したバーベキューのときに撮った画像が写っていた。桃音は成実にぴったりくっついて手を握り、澄海は恵輔に抱っこされていた。
「この後、澄海が転んで右肘をざっくり切ったんだっけ。泣き叫ぶ澄海をなだめながら、バーベキューに参加していた看護師の人に止血してもらってさ。当番医を探して診てもらったんだよね。あのときは肝を冷やしたけど、今はいい思い出」
「あたしがブログに書いた事を言っているだけでしょ。あんたの経験じゃない」
「でもね、これはあたしの記憶になるのよ」
「嫌よ」成実は怒りが突き上げる。「あたしの思い出はあたしだけのもの。あんたなんかに盗られてたまるもんですか」
「だから言ってるじゃない。あんたはあたし、あたしはあんた」
「違う、断じて違う。あんたはインチキ、偽物よっ。そのスマホを返しなさい」
成実はリビングへ乗り込み、成実に飛びかかった。しかし成実は立ち上がり、成実の手が届く寸前でひらりと離れた。
「待ちなさい」
成実はまた手を伸ばすが、成実は余裕の笑みを浮かべながら飛びすさる。
「何をやっても無駄。アップグレードしたあたしはあなたより格段に運動神経がいいの。絶対に捕まらないわ」
「だったら……殺してやる」
成実はキッチンに駆け込むと、引き出しから三徳包丁を取り出し、成実に向けた。
「あら、変なことするのね。あたしがあたしを殺すなんて、矛盾していない?」
「あんたは……あたしじゃないんだあっ」
成実に突っ込んだが、成実は余裕で躱す。勢い余って成実はソファに衝突した。つんのめり、顔面を思い切り床にぶつけながら転がる。
鼻が焼けるように熱く、液体が上唇に垂れてくる。鼻の下を手で拭うと真っ赤な血が付いていた。
「がんばれー」
成実の馬鹿にしたような笑みを見て、成実の怒りは激しさを増す。
頭の中が真っ白になる。
「この野郎」
成実は包丁を投げつけた。
「げえぇぇっ」
叫びながら目を大きく見開いている成実がいた。
成実の首の付け根に包丁が突き刺さっている。
血が、大量の血が噴き出す。
「ああ……。当たっちゃった」
成実は鮮血を吹き出しながら、みるみるうちに蒼白な顔になっていく成実を呆然と見つめていた。どんと音を立て、棒のように成実が倒れた。膝の力が抜け、成実はその場へへたり込んだ。
また人を殺しちゃった。
いや、こいつは人なんかじゃない。人の形をしたバケモノなんだ。成実は自分にそう言い聞かせながら、血だまりに倒れている成実へ這っていった。血の中から、右手に掴んだままのスマホをもぎ取った。カーペットに画面をこすりつけて血を拭い、タップする。手が震えて何度もミスしたが、どうにか恵輔に電話を掛けることができた。
「ねえ、今どこにいるの?」
「まだスーパーだよ。これから帰るところだけど、なんか他に買うものでもあるのか?」
呑気な声が聞こえてくる。
「そこでちょっと待ってて、今ここに猿が出て来たのよ。今帰ると危険なのよ」
「ええっ、何だよそれ。警察を呼ぼうか」
「大丈夫。もう来てるから。それより、あたしがいいって言うまでスーパーで待機していてね」
「お前は大丈夫か?」
「うん、あたしは家の中にいるから」
「窓とか全部鍵を掛けとけよ」
「ありがとう」
恵輔の心配そうな声を聞いて、涙が溢れてきた。声が詰まりそうになったので「じゃあね」と言って電話を切った。こんな血まみれの姿を見たら、恵輔たちはどう思うだろうか。情けなくて、嗚咽が漏れてくる。どうしたらいいんだ。成実は壁にもたれ込みながら考える。やっぱり警察を呼ぶしかないのか。成実はスマホから百十番をタップしようとした。
右側に人の気配を感じ、顔を上げる。
目の前に、蒼白で血にまみれた成実の顔があった。
首の付け根には包丁が突き刺さったまま。
「ひぃぃっ」喉の奥から擦れるような悲鳴が漏れてくる。
手をはたかれ、スマホが飛んだ。
成実は口から血の泡を吐きながら、かすれた声でささやく。「電話しちゃだめ」
カーペットの上に落ちたスマホを取ろうとしするよりも先に、死にかけた成実が拳骨でスマホを叩き潰した。ドスッと鈍い音を立て、スマホが床へ陥没した。ガラスが粉々に砕け、画面は真っ黒になった。
「ねえ、ウイステリア……この子を連れて行ってちょうだい……ねえったら」
死にかけた成実が天井へ向かって呟くが、AIは何も答えない。
逃げろ。
成実は勢いよく立ち上がったが、足をもつれさせて転倒した。足元を見ると、死にかけた成実が四つん這いで追いかけてくる。
「ねえ、待ってよ……あんたは処分されなくちゃなんないの」
「嫌よっ」
恐怖が全身を支配している。腰が震えて言うことを聞かない。それでも立ち上がり、また転倒した。這うようにして廊下へ出て、玄関へたどり着いた。ドアを押し開けて、靴下のまま転がるようにして外へ出る。
誰かに警察へ連絡してもらわなきゃ。普段、交流はないけれど、人が住んでいる家は知っている。成実は落ち着きを取り戻し、立ちがると、はやる気持ちを抑えて家に向かう。
猿に襲われた場所を避け、大回りしてたどり着いたのは、河田という表札がある家だった。チャイムを押したが返事はない。ドアは鍵がかかっていなかった。成実はドアを少し引き開け、恐る恐る中をのぞき込んだ。
「こんにちは」
嫌な臭いが鼻孔に貼り付いてくる。
今日、散々吸った、ねっとりするような血の臭い。
「うぅぅ……」
足元からうなり声が聞こえて、下を見る。
老人が横になって倒れていた。口元は血で汚れ、頭の下には真っ赤な血だまりが広がっている。
老人と目が合った。
「助けて……」
ゲボッ、ゲボッ、と音がして、口から鮮血が溢れてくる。
ドア口からどろりと血が垂れ、成実の足を濡らしそうになった。
「ひぃぃぃっ、何よ……何何」
成実はドアを離し、後ずさりした。アプローチの段差でよろけて尻餅をついた。
半開きになったドアが押し広げられ、白髪頭が現れる。左のこめかみから肩にかけてべっとりと血が付き、瞳孔が開ききった目で成実を見つめていた。
「嫌あぁっ……」
成実はあえぎ、躓きながら走り出した。
もうここにいる奴らは誰も信頼できない……この町から逃げなくちゃ……どこへ行けばいい? 道は……そう……一つしかないんだっけ。成実は藤が丘シティから出る道を思い出し、よろけるようにして方向転換した。町に出るまで車で五分。走ったらどれだけかかるんだろうかと、上の空で考えながら町の中を走った。普段運動をしていないせいで、すぐに息が上がってくる。それでも突き上げる恐怖は走れと叫び続けていた。
ようやく町の外れに来たときだ。市街地へ通じる道に、全身真っ白な服を着た人たちが立っていた。足はもちろん、頭まで白いフードをすっぽり被っている。コロナ禍のときによく見た防護服だと気づいた。一旦立ち止まり、息を整えながら近づいて行く。目にはゴーグルが付いているし、マスクもドラッグストアの安売りしているような物じゃない。この人たちは一体何者なんだろう。
「すいません。これからどちらへ行かれますか」
ゴーグル越しでは表情がよくわからない。震える声で返答する。「町へ出ようと思って」
「申し訳ありませんが、藤が丘シティからの出入りが制限されているんです。現在藤が丘シティで、未知のウイルス感染症が発見されたとの報告が入っています。このため、町全体を隔離処置しているのです」
「なによそれ……あたし、聞いてないわ」
「何しろ急なことですので、少々連絡が滞っていたかもしれません」
「ともかくあたしはこんなところに居たくないの。どいてちょうだい」
「申し訳ありませんが、未感染が確認できるまで、お待ちいただけますか」
「待てないって」
成実は防護服の男たちの間をすり抜けようとしたが、腕を掴まれた。
「離してよっ」
「申し訳ありませんが、ここを通すことは出来ません」
「なんの権利があってあたしを止めるんだよ」
「厚労省は承知しているんです」
「役所なんか関係ねえっ。そもそもあんたたちは誰なのよ」
「私どもはパンデミック災害派遣医療チームです。このたび厚労省DMAT事務局から派遣要請を受けて活動しています」
「冗談じゃない、厚労省なんかに人の動きなんか制限されるかよ。だったら警察呼べ」
「しかし、今あなたにここを出て行かれると、日本中にウイルスが広がる可能性があるのです。このウイルスの致死率は九十パーセントで、パンデミックともなれば、日本はもちろん、人類が滅亡する可能性さえあるのです」
「嫌よ。そんなウイルスの近くにいるなら、なおさら逃げなくちゃ」
「あなたは今のところ症状は出ていないようだ。それならワクチンが効くでしょう。今井君、この人にワクチンを注射してやりなさい」
奥にいた嗄れた男が声を掛けた。
「はい、承知しました」
今井と呼ばれた男が小走りにドクターカーと書いてある車に向かっていった。
「ワクチンを打てば大丈夫。あなたは感染することはありません」
男は微笑みながら成実を見ていたが、しかし、ゴーグル越しに見える目は冷ややかだ。
こいつら、信頼できるんだろうか。
そう思い始めると、緊張している顔、微笑んでいる顔、みんなどれも嘘くさく感じてくる。
今井が戻ってきて、ドクターカーを指差した。「準備が出来ました。あの車の中へ入ってください」
今井の目を見た。笑みを浮かべていたが、その目はガラス玉のように冷たい。
心臓が激しく鼓動し始める。この人たち、嘘をついているんじゃないの?
別の男が二人、そっと近づいてくるのに気づいた。成実へ向かって手を伸ばしてきた。
「嫌だっ」
成実は男たちが触れる寸前、走り出した。




