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4-6

 静まりかえったリビングは、モデルルームのように清潔で、生活感がなかった。島名は和希たちに、中央にあるソファへ座るよう促した。


「済まなかった」


 向かい合うソファに座った島名はがっくりと肩を落とし、和希たちに頭を下げた。「今回の責任の一端は私にあるんだ」


「島名先生、一体何が起こっているんですか?」


 吉田は困惑した表情で話し始めた。


「始まりは八年前だった。当時私は東都大学での次期総長候補だった。前評判では私が最有力で、私自身もそう思っていたよ。ところがだ。吉田君も知っているとおり、怪文書が学内の教員にばらまかれたんだ。そこには私が元教え子の女性と一年間不倫関係にあり、当時行っていたバイオベンチャーとの共同研究の情報を、相手の女性に漏らしたと書いてあった。女性との関係は事実だった。しかし情報漏洩は断じてない。そう主張したものの、半ばグレイの身に潔白を証明する術はない。結局私は東都大学を追われることとなった。しかし私はこれで学者としてのキャリアを終わらせるつもりはなかった。大きな成果を上げて、私を追い出した連中を見返してやりたかった。そんなとき、声を掛けてきたのが小田川君だった。当時、彼の研究の一つに、ブレイン・マシン・インターフェイス、つまり、人間とコンピューターとの接続があった。これを実現させ、AIと人々を接続し、人と人とのを対立や断絶を解消させることを考えていた。このシステムを実現するために、私と小田川君は経口摂取できるナノマシンを開発した。それは服用すると、最終的に脳へ到達し、脳内の情報を送受信させることが出来るようになる。侵襲型のような脳に外科手術を施して端末を埋め込む方法とは違い、大変スマートで画期的なシステムだった。しかしそれには重大な欠陥があったんだ」




「おい離せっ、離せったら」


 成実は声を張り上げながら運転席を後ろから蹴り上げた。しかし康孝と彩菜は穏やかに微笑んだまま、成実の両腕を掴んで離さない。クラウンは徐々に加速していく。


「フィーチャータワーへ行ったら鎮静剤を打ってもらいましょうね」


「嫌よ……あんなところなんか絶対に行くもんですか」


「どうしてなの? あんた先月スマホを買い換えた時に、データからアカウント、アプリまで、全部新しいスマホに移行したでしょ。待ち受け画面は桃音と澄海のまま。電番号だって全部入っているし、SNSだって普通に使えた。しかも、前のモデルよりサクサク動く。それと同じよ。成実の記憶は新しい成実が全部引き継ぐわ」


「違う、あたしはあたし。あんな化け物なんかじゃない」


「どうしてわかってくれないの?」彩菜が顔を曇らせる。


「仕方がないよ、俺たちもアップグレードする前はそうだったじゃないか」


「そうだったわねえ」


 康孝と彩菜がお互いを見つめながら笑ったときだった。


 ドン、と重い音が車内に響き渡った。


 フロントガラス一面にひびが入っていた。右側に穴が開いている。


 運転席の榎本の妻が助手席側に倒れていく。


「えっ? なになに」


 クラウンが右に逸れ、家のフェンスへぶつかった。ギシギシと金属が擦れる音を立てながら止まる。


 血の臭いが立ちこめてくる。


「どうしちゃったのさ」


 彩菜が訝しげな顔をしながら、前席をのぞき込んだ。


「あらいやだ。佐喜子さん死んじゃってるわ」


「はあ? どういうこと」


「植木鉢が飛び込んできたのよ。顔が半分無くなってるからだめね」


 彩菜が手を伸ばし、半分に割れた植木鉢を持ち上げた。


「誰かかが投げ込んだんだろうな」


「そりゃそうよね。自然に飛んでくるわけないし」


「なによそれ……」


「俺たちに聞かれてもねえ」


 康孝が困った顔で曖昧に微笑む。


「ただでさえ訳がわからないのに……一体どうなってんのよっ」


 成実は絶叫した。


 自分そっくりな女。あたしが殺した女がまた死に、それを冷静に話し合っている彩菜と康孝。あまりに非現実的で、頭がおかしくなる。


「取りあえずここにいてもしょうがないし、外へ出ましょう」


「だよな」


 康孝がドアを開けて外に出た。


「成実もよ」


 彩菜に押し出されるようにして半開きになったドアへ近づいたときだった。どんと音を立てて、康孝の後頭部がサイドウインドウに衝突した。衝撃でドアが勢いよく閉まり、窓の中央へひびが入る。


 康孝の後頭部が、スローモーションでずり落ちていく。


「しょうがないわねえ」


 彩菜がため息をつきながら、手を伸ばし、ドアを押し開いた。


「嫌よっ、出たくないっ」


「そんなこと言ったって、あんたが出なくちゃあたしが出れないじゃないの」


 押し出そうとする彩菜に、成実は助手席のヘッドレストを掴んで抵抗したが、恐ろしいほどの力で押された。たまらず手を離し、頭から車外へ放り出された。


 辛うじて左腕で顔面を保護したが、肘にしびれるような痛みが走った。そのまま一回転する形で仰向けになり、半身を起こす。傍らには、右の目からこめかみにかけて、ぐしゃぐしゃに潰れた康孝が倒れている。大量の血が溢れ出て、右耳も半分ちぎれている。


「ヒイイィッ……」


 喉から絞り出すような悲鳴が出てきた。


 視線を前方に移す。二メートルほど向こうに猿がいた。真っ黒な体毛に真っ黒な顔、焦げ茶色の瞳、長い手足。これ、多摩動物園で見たことがある。


 チンパンジーだ。


 目が合った。


「ギャッ、ギャッ、ギャッ」


 鋭い犬歯をむき出しにしながら、耳の中を引っかき回すような声で鳴いた。


 目に宿るむき出しの憎悪。


 この猿、怒ってる。なんだかわかんないけど怒ってる。


 恐怖で体がすくみ、震えが走った。


「あんた、福田さんでしょ」隣で彩菜が腕を組み、うんざりした表情でチンパンジーを見ていた。「自分の不幸を他人のせいにするのはあんたの悪い癖。こんなになるんだったら先にアップグレードしとけばよかったわ」


「福田さん……? ええっ」


 前に彩菜と話したことがあった。後から入ってきたあたしたちを、嫌そうに見ていたクソジジイだ。


 彩菜は路上に倒れている康孝を見下ろす。「ねえ、早く立って。福田さんを処置しなきゃなんないのよ」


 路上に倒れていた康孝が、頭をゆっくりと左右に振りながら半身を起こす。「ぢょっぼぉぉまぁぁてくれえ……あだまがぁふらづくんだぁぁ」


 成実は悲鳴を上げた。どう考えても死んでいるとしか思えない康孝が喋っている。顔の右側からは大量の血が滴り、シャツを赤黒く染めている。


「福田さん、やっちゃったわねえ。康孝も使い物にならなくなっちゃったじゃない」


「ギャッ、ギャッ、ギャッ、ギャッ」


 クソザル、笑ってるよ。


 突然チンパンジーは身を翻し、向かいの家の柵を軽々と乗り越えていった。再び柵を超えて現れたとき、手には大きな石を持っていた。


 チンパンジーが石を持った手を大きく振り上げた。


 こいつ、あたしに向かって石を投げるつもりだ。


 成実は固まったまま、逃げることもできない。か細い悲鳴が口から漏れてくる。


 石が放たれる。


 成実の頭上をかすめた。


 ドスッ、音がして振り返る。


 クラウンのサイドウインドウが粉々に割れている。その手前で彩菜が倒れていた。薄笑いを浮かべながら起き上がる。


「佐喜子さんと康孝は不意を突かれたからやられたけど、あたしはだめよ。処置を受け入れなさい」


 彩菜が手を広げてぐいっと睨み付け、そろりそろりとチンパンジーへ近づいて行く。


「ギィッッッ、ギィッッッ」


 チンパンジーは大きく口を開き、禍々しい犬歯を見せながら、敵意むき出しの目で鳴く。


 彩菜が走り出した。


 道路を蹴り、ジャンプする。


 右足を突き上げた。


 チンパンジーの頭上へかかとを振り下ろす。


 チンパンジーがのけぞるようにして躱す。


 ドスッと鈍い音を立て、かかとがアスファルトに陥没した。


 チンパンジーの両手が伸び、彩菜の首を掴んだ。


「ぐえぇぇっ……」


 飛び出すような勢いで、目を大きく見開きながら呻いた。


 彩菜は殴ろうとするが、チンパンジーのリーチが圧倒的に長く、拳は空を切るだけだ。足の蹴りも甲の先端が届くだけで、決定的なダメージは与えられない。


 彩菜の顔が赤黒く変色し始めた。


 更にチンパンジーは腕を捻った。


 ゴキッと鈍い音がして、彩菜の首が直角に曲がる。


 もがいていた彩菜の腕がだらんと垂れ下がり、目から生気が消えた。


 それでも興奮しているチンパンジーは彩菜をぼろきれのように振り回した。


 その時、倒れていた康孝が立ち上がり、彩菜たちに向かって走り出した。


 そのままの勢いで、チンパンジーの顔面へ拳をぶち込んだ。


「ギィィィァァッ」


 チンパンジーがのけぞり、彩菜ごと吹き飛んだ。


 フェンスをなぎ倒して止まる。


 彩菜が道路へ投げ出された。うつ伏せに倒れたまま、動かない。


 康孝は右顔面からだらだらと血を流したままチンパンジーにまたがり、機械のようにタコ殴りし始めた。


「ギャッ、ギャッ、ギャッ」


 断続的にチンパンジーの叫び声が聞こえてくる。


 逃げなきゃ。


 成実は弾かれたように走り出した。この町は危険だ。一刻も早く抜け出さないと。街の外れで恵輔のアルファードに乗せてもらおう。


 そこで成実ははっとして気づく。


 スマホがない。家にあるんだ。


 このままだと、恵輔たちがあの家に戻っちゃうわ。心臓がバクバクと鼓動し、体がバカみたいに震えている。山の中で隠れていたい。でも、あのあたしの形をしたバケモノがいる家に、恵輔と澄海と桃音が帰ってきちゃうじゃない。


 警察に電話をしようか。だけどこの町に公衆電話なんかない。誰かの家に行って電話を借りる? でも、その人がバケモノの一味だったらおしまいよ。


 緊張で、浅くて荒い息が繰り返し喉から吐き出されていく。


 それでも成実は歯を食いしばり、前方を睨み付ける。


 恵輔にくすぐられて笑い転げる澄海。腰に抱きついて甘えてくる桃音。愛おしいあたしの家族。


 勇気を出せ。あたしの家族を守れるのは、あたししかいないんだ。


 成実は歩き出した。家に向かって。



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