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4-4

                      4‐4

 日曜日の午後。今日は本当なら朝からサンリオピューロランドへ行く予定だったが、成実の体調が悪いと言う理由で、取りやめになっていた。そのせいで桃音と澄海はずっと機嫌が悪い。さっきも任天堂スイッチの取り合いで一悶着あったばかりだ。今、澄海ふて寝して、桃音は一人であつ森に熱中している。恵輔は運転手の苦役から逃れられたせいもあってか、朝から浮き浮きした様子で、スマホを熱心に見ている。きっとこれから始まる競馬の馬券を買っているんだろう。桃音と澄海はかわいそうだったが、正直成実は榎本の妻を見たときから、何も手につかない状態だった。人を殺したというだけでとんでもない話なのに、更に殺した女が生き返っているなんて。

 あり得ない。

 目撃してから一時間ほど榎本の家を観察していたが、あの永松とかいう私立探偵が出てくる様子はなかった。散歩のふりをして家の前を通ったが、窓から明かりは漏れていなかった。無論、インターホンを押して、誰かいるか尋ねる勇気などない。永松の名刺には携帯電話の番号があったが、あれこれ詮索されるのが怖くて電話する気にはなれない。

 インターホンのチャイムが鳴った。顔を上げて旦那と二人の子供を見る。誰もチャイムに反応していない。みんな他人事かよと思いながら、重い腰を上げ、インターホンまで言って、通話ボタンを押した。

 画面に二人の男女が映し出される。康孝と彩菜だ。まさか浮気がばれたんじゃないか。一瞬、内臓をギュッと締め付けられるような感覚が襲う。しかし、画面の向こうの二人は穏やかな笑顔を浮かべていた。少なくとも厄介ごとを持ちかける雰囲気ではない。

「こんにちは、今暇してる?」

「うん、ちょっと待って」

 成実は玄関へ行き、ドアを開けた。微笑みながら二人の様子――とりわけ康孝の様子をじっくり見た。落ち着いていて、おかしな挙動は一切なかった。

「親戚から牛肉をいっぱいもらったんだ。みんなで焼き肉パーティーしない?」

 手に提げたレジ袋を持ち上げてニコッと笑う。

「いいねえ。やろうやろう」

 本当はそんな気になれないが、不審に思われるのは絶対避けなければならないから、無理矢理明るい顔をして見せた。しかし、声がうわずっている気がして不安になる。康孝はあの事件などなかったかのように、爽やかなな笑顔を浮かべている。心なしか肌つやの色がいい。いつも二三本は生えている顎の剃り残しもなかった。

 お前、ここで爺さんを殴り殺しただろ。そんな言葉が出かかるのを、唾を飲み込むように腹の中へ収める。

「入って」

 二人が靴を脱いで、家に上がるのを見ながらドアを閉めた。二人は自分の家のように躊躇することなくリビングへ入っていく。

「彩菜ちゃんっ」

 桃音の声が聞こえてきた。成実もリビングへ入ると、彩菜の腰に抱きついている桃音の姿があった。彩菜は今のところ子供がいないが、女の子が欲しいと常々語っていた。それもあって、家に来ると、ずっと桃音と遊んでいる。桃音もそんな彩菜になついていた。

「おっ、それってクイーンステークスだろ」

 康孝が恵輔のスマホをのぞき込む。

「なんだよ。勝手に決めつけんなって」

「この時間にお前ががっつりスマホ見てんなんてそれしかないだろ」

「へへへ。まあな」

「どこにかけてんだ」

「単勝ライジングハート。十一番人気」

「おう、攻めるねえ」

 康孝の様子はいつもと変わりないが、それが逆に強烈な違和感となって、成実の内側をざわつかせた。一週間前に人を殺し、しかも殺した現場で平気な顔でいられるのか。いつも虚勢を張ってるような男がそんな度胸を持っているとはとても思えない。

「あら、これ代えたのね」

 彩菜が真新しいローテーブルを見て呟く。

「ママが尻餅突いてつぶしちゃったんだ。昨日ニトリで買ってきたんだよ」

 桃音が笑いながら答える。

「そうそう。こけちゃったんだ」

 成実も笑っていたが、左の頬がぴくぴくと痙攣している。

「ふうん。怪我はなかったの?」

「うん、大丈夫」

「よかったわ。でも、痛い出費になっちゃったわねえ」

 いつもと変わりない彩菜。でも、何かが違うような気がする。成実はそんな顔をまじまじと見ながら、今までと決定的に違うものを発見する。

 あんた、高校時代にタイマンで喧嘩して、相手の鼻をへし折ったわよね。妊娠した途端に行方をくらませた男を覚えてるでしょ。泣きながら罵りながら、中絶したでしょ。そんな経験をするたび、あんたの顔に泥のような濁りが浮かんでいった。

 でも、今はそれがない。澄んだスープのように透明で、つるりとした顔。

「どうかした? あたしの顔になんか付いてるの」

 不思議そうに見返す彩菜に、成実は曖昧な笑顔をして見せた。「ううん、何でもない」

 死んだはずの榎本の妻。あの婆さんが生き返るはずがない。だとしたら、そっくりな違う人間じゃないのか?

 目の前にいるこの二人も。

 心臓が激しく鼓動し始め、体が震えてくる。

「ねえパパ、焼き肉と一緒に食べる野菜を買ってきてちょうだい」

 成実はスマホを片手にソファでだべっている恵輔に声をかける。

「何だよ。これからレースが始まるんだぜ」

 恵輔があからさまに面倒くさそうな顔をした。

「いいから、チビも二人連れて行って」

「ええー? あたし、彩菜ちゃんと遊ぶんだもん」

 桃音も不満そうに口を尖らせる。

「あたしも頭が痛いんだから、たまには買い物行ってきてよ。桃音も今日はずっと家にこもってるんじゃない。外に出た方がいいわ」

「ったく、何買ってきたらいいんだよ」

「ちょっと待って」

 成実は恵輔の隣へ座った。桃音がさっきまで漢字ドリルで使っていた鉛筆を手に取り、捨てようと思っていたガン保険のダイレクトメールのチラシを広げて裏にする。折り目を左手で押さえ、リストを書き始める。手が震えて上手く書けない。「たまねぎ」と書いたものの、字がぐしゃぐしゃになってとても読めなかった。大きく息を吐いて線を引き、もう一度書く。どうにか読める字で書き終わると、恵輔へ突き出すようにして渡す。

「金は」

「ちょっと待って」

 キッチンへ行って、椅子にかけてあるトートバッグから財布を取り出した。千円札はあったが、敢えて一万円札を取り出し、恵輔に渡した。

「これでチビたちのお菓子も買ってきて」

「わかった」

 恵輔の不機嫌だった顔が、急ににやけてくる。きっとレシートも出さずに、全部使い切ったとか白々しい嘘をつくつもりだろう。ちゃんと出ていってくれればそれでいい。

「澄海、起きて。パパとお買い物に行ってきてちょうだい」

 肩を揺らすと、澄海は不機嫌そうに薄く目を開けた。

「ガリガリ君、食べてきな」

「えっ、ガリガリ君?」

 澄海の顔がぱっと輝く。

「桃音は何が食べたいの?」

「チョコパイ」

「じゃあ、パパに買ってもらいなさい」

「うん」

 桃音が彩菜から離れる。

「じゃあ行ってくるか」

 恵輔が立ち上がり、欠伸をしなから大きく伸びをした。三人とも外行きの服に着替えさせて送り出す。スーパーへの往復で二十分ずつ、買い物で二十分、戻ってくるのに約一時間はかかるだろう。窓越しにアルファードが出ていくのを見て、彩菜と康孝に向き直る。二人は冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出し、コップに注いでいた。成実はゴクリと唾を飲み込もうとしたが、口の中がカラカラに乾いているのに気づいた。

「成実、あんたも飲む? 喉が渇いているんでしょ」

「いらない」成実は小さく首を振った。「ねえ、あんたたち、ちょっとおかしくない?」

「どこがさ」康孝が薄く笑う。

「なんとなく」

 成実は意を決して康孝へ歩み寄り、Tシャツの裾を両手で掴んでたくし上げた。うっすらと毛が生えた胸が露わになる。しかし、そこには斜めに走る傷跡はない。

 先週は間違いなくあった傷跡。

 成実は声にならない悲鳴を上げ、手を離し、後ずさりした。

「ない……傷がない」

「ああ、これか」

 康孝は笑みを浮かべたまま、自らTシャツをたくし上げる。「きれいになっただろ」

「あたしたち、アップグレードしたのよ」

「アップ……グレード? あんたたち、何言っちゃってんの」

「彩菜、ちゃんと説明しないと成実もわかんないだろ。俺たち、新しい体になったんだよ」

「はあ? ますますわかんないんだけど」

 玄関のチャイムが鳴る。彩菜がインターホンの前に行き、通話ボタンを押した。

「はーい、ちょっと待ってね」成実を見てニコリと笑う。「来たわよ」

 彩菜が玄関へ向かった。解錠する音が聞こえ、戻ってくる。

 彩菜の後から、ピンクのTシャツにジーンズを穿いた女性が入ってきた。

「ひぃぃぃ……」喉の奥から、か細い悲鳴が聞こえてくる。頭の中が真っ白になり、気づくとその場へ座り込んでいた。

 少し枝毛になった髪の毛、やや浅黒い肌、黒い瞳。毎日鏡の前で見る女。

 入ってきた女性は成実そのものだった。

「わかるわね。彼女がアップグレードした成実」彩菜は穏やかな笑みを浮かべている。「あなたの遺伝子をエピゲノムレベルまで引き継いでいるわ。もちろんアップグレードだから、あなたのだめなところは修正している。わがままで浮気性なあなたはもういない。あなた以上にあなたらしいあなたがここにいるの」

「何だよその顔は」康孝が爽やかに笑いかける。「これからアップグレードした成実はお前のすべての記憶を引き継ぐんだ。心配する必要なんかないんだよ」

「そう」もう一人の成実が口を開いた。「あたしはあなた以上のあなたになるのよ」

 康孝と彩菜が成実の横に立ち、彼女の両脇を抱えるようにして引き上げた。

「さあ、フィーチャータワーへ行って処置を受けましょう」

「嫌よ……嫌だったたら」

 フィーチャータワーに行くのは嫌だ。逃げようともがくが、二人の腕は微動だにしない。

「離せっ」

 首を伸ばし、目の前にある康孝の腕を噛む。

 柔らかな肌の下。鋼のように硬い感触があった。

「だめだめ、あたしたちの筋肉は同年代の平均より、二倍の強度を持たせてあるの。そのまま噛み続けてたら歯が欠けるわよ」

 歯が痛くなり始め、耐えられずに離した。腕にくっきりと血の滲んだ歯形が付いていたが、康孝は涼しい顔をしている。

「あんた、痛くないの?」

「俺たちにはもう、痛みみたいな原始的な感覚はないんだよ。痛みっていうのはさ、体が危険を伝える電気信号だろ。俺たちはそれを痛みではなく、論理的な信号として大脳に届けているんだ」

「やっぱりあんたらおかしいよ」

 成実は再び逃げようとして暴れた。

「お前はどうしてそんなに抵抗するのかな? 今見たとおり、新しい成実が出来るんじゃないか。何の問題もないだろ」

 康孝は戸惑った表情を浮かべていた。そこには冷笑や嫌みもない。純粋に困惑しているようだった。

「恵輔たちが戻ってきても大丈夫。アップグレードした成実が対応してくれるわ」

「そう、そのために彼女を呼んだのさ。まだ記憶は不完全だけど、今夜お前の記憶を移植するから、明日までには完璧な成実になるよ」

 二人に引っ張られるようにして外へ出た。家の前には、康孝が乗っている角張った黒いクラウンのバンが駐車してあった。まるで霊柩車だ。

「誰か助けてっ」

 周囲を見回すが、道には誰もいない。康孝が後部座席のドアを開け、車内に入っていく。成実は為す術もなく中へ押し込まれていった。

 運転席に人がいる。一縷の望みを託して「助けて」と声をかけた。

 運転手が振り向く。成実は悲鳴を上げた。

 運転手は榎本の妻だった。

「成実さん、先日はお世話になりました」榎本の妻は柔和な笑みを浮かべ、小さくお辞儀をした。「おかげでいいデータがとれました」

「そう、殺人を描いた何万ものドラマより、現実の犯罪の方が、比べものにならないくらい良質のデータが採取出来るんだよ。俺たちはデータの不足から、深刻なトラブルを経験した。そんな事がないよう、犯罪のデータも取得していかなければならなかったのさ」

「何言ってんの? 意味がわかんないんだけど」

「大丈夫。アップグレードした成実はよく理解しているよ」

「さあ、いきましょうかね」

 榎本の妻はシートベルトを嵌め、イグニッションキーを捻った。エンジンが低く唸り始め、クラウンが動き出す。


 夏風邪でも引いたのだろうか、先週からずっと微熱が続き、体がひどく重かった。早田には、早々に休ませてもらうと電話をしてあった。

「ウチも人がいないから困るんだよね」と文句と愚痴が入り交じったような話をし始めたのを思い出す。延々と喋っていそうなので、一方的に切ってしまったが。まあいい。もうあんな奴と一緒に仕事をするなんてごめんだ。

 福田は喉が渇いたので、ベッドから抜けだし、冷蔵庫からポカリスエットを取り出して飲んだ。コップに注いだ時点でペットボトルが空になった。買ってこなくてはならないが、体がだるい。ネットスーパーという手もあるが、手数料が馬鹿にならないし、すぐに来てくれるとは限らない。スーパーへ行くしかないだろう。

 スーパーを思い出すと、連鎖的に榎本夫妻を思い出した。いつも疲れた表情で野菜の品出しをしていた夫、レジでポテチの上に大根を置くなと若い主婦に怒鳴られ、頭を下げていた妻。そんな姿をちらりと横目で見ながら、大変だなと哀れんでいたが、その実優越感を抱いていたのも確かだ。だからこそ、あの夫婦が妬ましい。俺だってこの藤が丘シティで妻と二人、優雅な老後を過ごせるはずだったんだ。それなのに妻は出奔し、管理人がクソみたいな事件を起こして、この町はゴーストタウンになってしまった。そして俺はここに縛り付けられたまま。安い賃金で、底辺の奴らと働くしかない。

 サメのような目をして俺をなじる早田。蔑んだ目で俺を見つめる元妻。心血を注いで育てたはずなのに、CDを踏みつけた自分に向かい、血走った目で怒声を上げる息子。どうして俺にはろくでもない奴ばかり関わってくるんだ。

 突然目眩が襲い、意識が飛んだ。気がつくと床に倒れていた。

――大丈夫ですか。助けが必要なら、おっしゃってください――

 AIの声も、遠くから聞こえるような気がする。

 体の芯が熱かった。熱がぶり返してきたのだろうか。考えてみれば、そもそも熱が出始めたのは榎本夫妻が大金をせしめたと知った時からだ。今も榎本夫妻を思い出した途端、目眩がした。あの夫婦とは相性が悪い。起き上がろうとしたとき、右頬に痛みがあるのに気づいた。左手でさすると、ねっとりとした液体の感触があった。手を離し、指先を見る。

 真っ赤な血が付着している。首を巡らすと、床に割れたガラスコップと、ポカリスエットが広がっているのが目に入った。床に倒れたとき、割れコップの破片が頬を傷つけたに違いない。どの程度の傷なんだ。縫わなきゃならないのだろうか。もう一度右頬に触れた。

 血が手の平にまで広がっていた。出血の予想外の多さに驚き、心臓が激しく鼓動し始めた。怖くなって、手を視界から外したが、血の鮮やかな赤の記憶は網膜に焼き付いたままだ。体の芯が熱い。血が沸騰してしまうかのようだ。全身から汗が噴き出る。吐く息も炎のように熱い。

 俺をこんなにしてしまったのは誰だ。

 榎本夫婦。

 朦朧とした中、榎本夫婦の人を馬鹿にしたような笑顔が浮かび、怒りが全身を苛む。

 あいつらが悪い……あいつらが俺をこんな体にしたんだ。

 体がギシギシと音を立てる。

「うあぁぁぁっ……痛い、痛い」

 全身の骨格がねじ曲げられるような激痛が噴出した。

 福田は瞳孔が開ききった目で宙を睨みながら、体を痙攣させ始めた。


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