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「ねえ、こんなんで本当に和希は現れるの?」
結香は腕を組み、アルトのドアに背中をもたれかけていた。口をへの字に曲げて、冷ややかな目で吉田を見ている。
「百パーセントとは言えませんが、犬が和希さんなら、現れる可能性はかなり高いと思っています」
吉田は道路を挟んだ、藪と路肩の境目で所在なげに立っている。アルトが止まっている道は、乗用車がようやくすれ違い出来る程の幅で、左右には木々が生い茂っていた。周囲は暗く、建物らしきものはない。五十メートルほど先にある街灯が、わずかに二人を照らし出しているだけだ。
「心配しないでください。僕はこれ以上結香さんに近づきませんから」
「わかってるわよ」
風はなく、熱と湿り気を帯びた空気が体にまとわりついていた。汗がしたたり落ちてくる。首筋に違和感を覚えて、手の平で叩くと、虫が潰れる感触がした。きっと明日の朝にはいくつも虫刺されの後が出来ているんだろうと思う。結香は喉の渇きを覚え、手に持っていたペットボトルのお茶を一口飲んだ。ここは沼津市の井出地区。野犬が目撃されているところだ。到着したのは午後七時で、既に一時間ほど経過していた。
結香の背後で、草が擦れる音がした。振り向いてみるが、林の奥は暗くて何も見えない。
「どうかしましたか」
「うん、ちょっと音がした気がしたけど、気のせいかも知れない」
そう言ったとき、今度はバサリとはっきり木がすれる音がした。
「どこからですか」
吉田が左右を見ながら道路の中央へ出て来た。
「あれよ」
結香は真剣な眼差しをして前方を指差した。暗い道路の真ん中に、わずかに影のようなものが見えている。体長は一メートルほどだろうか。大型の犬に間違いない。
「ねえ、あなたは和希なの?」
影の動きが止まった。結香は犬に向かってゆっくりと歩き出した。
この女が匂いの主だ。
「ねえ、あなたは和希なの?」
和希って誰だ? 凄く懐かしい響きがする。でも、それは俺じゃない。
だったら俺は一体誰なんだ。
ああ……頭が痛くなってきた。
近づくな……止めてくれ。
「和希、和希なんでしょ。あたしのことを忘れちゃったの?」
「ウォォォッッ……。ウォォォッッ……」
その姿は既にはっきりと見える。豊かな灰色の毛並みとピンと立った耳。普通の犬よりも顔つきが鋭い。和希がミニバンの中で潤一の首にかみついた時と同じ姿。間違いない。この犬、いや狼は和希だ。結香は腰をかがめて狼に視線を合わせ、ゆっくりとづいて行く。
狼の息が荒くなり、禍々しい牙をむき出しにして鋭い視線を投げかけている。結香は恐怖で膝が震えてくるが、一方で大丈夫という思いもあった。手を伸ばせば触れられる位置まで来た。それは同時に、噛みつかれたら防ぐ手立てが一つもないことを意味している。狼の息づかいがはっきりと聞こえ、獣の臭いが鼻を刺激する。
ゆっくりと手を伸ばし、首筋に触れる。案外柔らかい毛を手の平で感じた。
「和希、大丈夫。結香よ。あたしはあなたの味方。わかっているでしょ」
狼の息が落ち着いてきた。顔つきも柔らかくなった気がする。
「そう、やっぱりあなたは和希」
ゆっくりと両手を背中に回し、狼の首を抱きしめた。
「ウォォォ……」
か細い遠吠えのような声を上げた。結香は狼の首筋に頬を埋めた。強い獣の臭いの中で、懐かしい、かつて嗅いだことのある匂いが混じっている。
「和希……あなたは和希なのよ。元に戻って」
「ウゥゥゥ」
狼の体が小刻みに震え、体温が上がっていくのを感じた。背中をさすると、体毛がボロボロと大量に落ち始めた。
「そうよ。和希、頑張って」
俺はこの女を知っている。
結香。美月。
ああ……靄が邪魔して見えてこない。
「結香さん」背後から吉田が話しかけた。「警察がこの辺りを巡回しています。彼らに見られたら説明するのにやっかいです。和希さんを車に乗せて、別の場所へ移動しましょう」
「わかったわ」結香は頷き、狼を見た。「和希、吉田さんの言っていることがわかる? 車へ移動するわよ」
「クゥゥゥ……」
結香が手を離すと、狼は低く唸り、おぼつかない足取りで歩き出した。体は目でわかるくらいにはっきりと震えていた。吉田がアルトの後部座席のドアを開ける。
「さあ、乗ってちょうだい」
狼が右の前足をドアフレームにかけた。しかし震えがひどすぎるのか、あるいは躊躇しているのか、それ以上動こうとしない。
「さあ、入って」
結香が狼の胴体を抱えるようにして押し込もうとした。途中から吉田も加わり、ようやく体全体を後部座席に収める。ドアを閉め、二人はアルトに乗り込んだ。
「ここから南へ下っていきましょう。海岸に着きますから、きっと人気のない場所があるかと思います」
アルトがゆっくりと動き出した。後部座席からは低いうなり声と共に、シートを叩く音が聞こえてくる。途中、コンビニへ寄ってポカリスエットとカロリーメイトのゼリーを大量に買い込んだ。二十分ほど走ったところで松林に突き当たった。吉田は松林の中に通じる道を見つけ、中に入る。車一台を止められるスペースがあったので、アルトを突っ込み、エンジンを止めた。開け放たれた窓から潮の匂いを感じ、遠くから波の音が聞こえてきた。結香は一旦外へ出ると、後部座席のドアを開けた。車内灯の弱い光の中、呻きながら体をのたうち回らせている生物の姿があった。
それはもはや狼の形をしていなかった。前足の指は人間のように五本の長い指が生えている。胴体は大きく波打ち、扁平な胸が出現し始めていた。顔はまだ狼のままだったが、口吻が不規則に伸び縮みしている。
「和希」
体毛が抜け落ち、地肌が見え始めた肩をさすると、毛がごっそりと抜け落ち、ピンク色の肌が露わになった。結香は不安げに振り向き、吉田を見た。
「和希、このまま人間に戻れるのかしら」
「僕たちは待つしかないですね。結香さんが話してくれた状況ですと、恐らく体の変化が始まるのには、自律神経が関わっているんじゃないかと思います。強いストレスと、それに伴う恐怖や怒りがスイッチになって、結香さんは鳥になったんじゃないでしょうか。
人間て、交感神経が働くときは急じゃないですか。いきなり心臓がバクバク鼓動して、口の中がカラカラに乾く。それに対して副交感神経が働き始めるのはゆっくりですよね。それと同じで、結香さんたちが動物になるときは一気に起こるけど、元に戻るのはゆっくりなんだと思います」
「ふうん」
このあと変化は二時間ほど続いた。体毛もあらかた抜け落ち、ひどく痩せた人間の姿になっていった。
「和希、あたしの声が聞こえる?」
和希は首をゆっくりと動かし、まぶしそうに薄めを開けて、結香を見た。
「ああ……結香か。ここは……どこなんだ」
「詳しい話は後。取りあえず、栄養補給をしましょう。まずは体を起こして」
吉田が反対側に回り、二人で和希の体を起こした。吉田が体を支え、結香がペットボトルの蓋を開けた。
「少しずつ、ゆっくり飲むのよ」
和希は口に付けたペットボトルから、言われたとおり、少しずつ飲み始める。痩せ細ったその横顔は、老人に見えた。
途中で咽せながらも、十分かけて五百ミリリットルのペットボトルをすべて飲み干した。次にカロリーメイトゼリーを食べさせる。これも十分かけて食べきった。体力が回復し始めたのだろう。吉田が手を離しても、すぐに倒れるようなことはなくなっていた。
「少しずつよくなっているようですね。次はお風呂に入れた方がいい。家に戻りましょう」
吉田が運転席に回り、アルトを松林から出した。途中、コンビニで服を買って和希に着させた。沼津インターから東名高速に乗り、東京向かった。吉田の実家へ着いたのは午前二時過ぎだった。走っている間、結香は後部座席に座り、ずっと和希にドリンクやゼリーを飲ませた。そのせいか、心なしか頬に膨らみができたような気がする。吉田が風呂場へ連れて行き、シャワーで汚れた体を洗った。新しい服を着せて、ようやく布団に寝かせた時は既に午前四時を過ぎていた。
「吉田さん……結香……。ありがとう。よく俺を見つけてくれたね」
「僕たち、和希さんが来るよう仕掛けをしたんですよ。これで僕が変態じゃないってわかったでしょ」
「あたしは吉田さんが変態だなんて一言も言ってませんから」
「いやいや、和希さんが現れるまで、ずっと僕を蔑みの目で見ていましたから」
ニコニコに微笑む吉田に、結香はフンと鼻を鳴らして横を向く。
「いったい、どんな仕掛けをしたんだよ」
結香が小さな声で何か言った。
「え? 聞こえないよ」
「おしっこ」結香がむっとした顔で言う。「草むらにあたしのおしっこをかけておいたの」
「狼は嗅覚が鋭いですから、きっと結香さんの匂いを感じて来ると考えたんです。ビンゴでした」
吉田があははと声を上げて笑った。
平本は有給休暇を取り、スバルのワゴン車に乗って中央道を西に向かって走っていた。休みを申請すると、必ず文句を言う八田だが、今回は拍子抜けするほどあっさり許可してくれた。せっかく入院した義父の見舞い話を細部まででっち上げてきたのに、ほとんど説明する必要がなかった。大月インターチェンジで降り、ナビに従って桂川沿いにある病院へ到着した。ワンプラス病院。旧名藤が丘病院だ。平本は駐車場にスバルを駐め、建物に入った。受付で事務長の竹下を呼び出す。応接室に通されて待っていると、グレイのスーツを着た中年男性が入ってきた。
「初めまして。ワンプラス病院の竹下と申します」
名刺交換をして座る。
「わざわざ当院へご足労いただきまして恐縮です」
大病院の秘書が、こんな地方の一病院に来てやっているんだからありがいだろうという思いはおくびにも出さず、「こちらこそ、貴重なお時間をいただいてありがたいです」と返し、出された薄いお茶を一口飲んだ。
「早速ですが、今日お伺いしたのは、御院に在籍していた秋川さんという医師についてなんです」
秋川と発言した瞬間、竹下の眉がピクリと動いた。
「ある人から秋川さんを紹介されまして、当院で使っていただけないかというんですね。紹介した方は問題ないというんですが、私どもでも独自に確認したいと思いまして、履歴書に記載されていた御院で、秋川さんの評判を伺いたくてお邪魔したわけです」
「秋川さんですか」竹下は視線を外し、軽く下唇を噛んだ。「正直な事を言わせていただくと、あの方にはあまりいい印象はないんです」
「と、いいますと」
「女性関係でトラブルを起こしましてね。あの人は結婚していて子供もいたんですが、複数の女性と付き合っていまして、それがみんなにバレてしまったんです。相手の一人がここの看護師をしていまして、院内でも騒ぎを起こしましてね。私どもも大変迷惑した次第です。更にその後、当事者の女性が行方不明になりまして。彼女の親御さんまで押しかけて、挙げ句の果てには秋川さんが殺したんじゃないかと騒ぎ出したのですよ」
「それは大変でした」
「はい、あのときは神経性の胃炎になりまして、私自身が当院へ入院しそうになりました」
苦笑いを浮かべる竹下に、平本は同情するように笑みを浮かべて頷いた。
「それで、秋川さんには辞めていただいたと」
「それもひと悶着ありまして」竹下がうんざりした顔で息を吐いた。「秋川さんが三日ほど休みを取ったんですが、出勤日になっても出てこなくなりまして。出勤日以降に予約していた患者さんはカンカンで、俺を殺す気かと騒がれまして。他のお医者さんも自分の患者さんを担当していますので、おいそれと引き継ぐことも出来ませんし。急遽別の病院を紹介して急場をしのぎました。その後郵送で辞表が提出されまして、同封されていた便箋には、トラブルの責任を取って当院を退職すると書いてありました。住んでいたマンションへ行きましたが、家族全員引っ越した後で、管理人もどこへ引っ越したのかもわからないという事でした。秋川さんとはそれきりです」
「秋川さんは御院で内科を担当されていたとお聞きしましたが、それ以外には何かご担当されていた業務はございますか」
わずかに竹下の目が泳いだ。視線を上に向け、首を捻る。
「さて……何かありましたか」
「御院は昔、藤が丘シティと提携していたとお聞きしていますが、その関係で秋川さんが関わっていませんでしたか」
「ああ……藤が丘シティですね」
声が少し上ずっていた。微笑みを浮かべていたが、明らかに探るような目で平本を見つめている。
「そう言えば……週に一回、健康飲料の研究で藤が丘シティへ派遣していました」
「健康飲料といいますと、どのような飲み物ですか」
「たしか……」女性関係の時とは一転して、一言一言かみしめるように話し始める。「コイオスとかいう飲料だったかと思います」
竹下が慎重になるのは想定内だった。藤が丘事件の当時、藤が丘シティと関係していたところには軒並み抗議電話が殺到し、SNSで炎上した。この病院も相当な被害を受け、事件当時は通院者が激減し、経営危機に陥ったと聞く。
「ほう、あんなところに研究機関があったなんて知りませんでした」
「事件が起きたフィーチャータワーはご存じですね。あそこの地下に研究施設があったんです」
「地下というのも珍しいですね」
「藤が丘シティはあくまでも住宅地ですから、研究施設は極力目立たないようにしたいというのが理由のようです」
「藤が丘シティについては、報道機関を中心にかなり記事になりましたが、そんな事はどこにも出ていませんでしたねえ」
「小田川翔吾の個人研究室だそうでからね。私も実際見たことはなかったんですが、きっと小さくて記事にもならなかったんでしょう」
「コイオスについて、もう少し詳しく教えてください。どんな飲み物なんでしょうか」
「さあ、私も詳しいことは知らないんです。藤が丘シティの住民限定で発売されたらしくて、私も飲んだことはありません」
「資料か何かございませんか」
「あるかもしれませんけど」竹下は困惑気味に平本を見た。「院内の情報ですのでおいそれと外部には出せません。それに、平本さんは秋川さんの素性を確認に来たのでは?」
平本は曖昧に微笑む。「ちょっと興味が湧きまして。失礼しました」
平本は丁重に礼を言い、病院を後にした。佐山と名乗る男が秋川で、藤が丘シティと関わりがあったことはわかった。平本はスバルに乗り込んでエンジンをかけると、スマホからブラウザを開いてコイオスを検索した。いくつかサイトを閲覧したが、竹下が話した情報以上のものは出てこなかった。
車で二十分ほど走れば藤が丘シティに着くだろう。そんな考えが頭をよぎる。しかし、行ってどうする。永松なんか知らないと言われればそれまで。いや、それだけならまだいい。シャチや熊なんかに襲われたらひとたまりもない。要は俺に火の粉が降りかからなければいいだけだ。佐山の事も、永松の事ももう忘れよう。
ガチャリと助手席のドアが開く音がして、スマホから視線を左に向ける。
「えっ……」
ベージュのスーツを着た小太りの中年女が助手席に座っていた。柔らかい笑みを浮かべて平本を見ながら、ドアを閉める。
病院の防犯カメラ、神田の路上、そして先日のシャチとの戦い。画像で何度も見たことのある顔だ。嶋本とかいう女だ。平本の心臓が爆発するように激しく鼓動し始める。
「お、お前……勝手に人の車に乗ってくるなよ」
「少々あなたに用がありましてね。お付き合いしていただきたいのですよ」
ジャケットの内ポケットから、鈍い銀色に光るものを取りだした。鞘を引き抜くと、刃渡り十センチはある刃が現れた。柔らかな笑みはそのままに、刃先を平本へ突き刺す。
「うっ」
脇腹に痛みが走り、思わず身を捻る。刃はあっさりと服を貫通していた。
「私の指示に従わなければ、腸をぐちゃぐちゃに切り裂きます。よろしいですね」
「はい……」
この女なら、躊躇しないだろう。
「それでは私の指示に従って車を運転してください」
女は左手で刃を構えながら、右手で、シートベルトを嵌めた。
「平本さんもシートベルトをしてください」
「はいっ……」
スマホを取り落とし、シートとコンソールの隙間に落ちた。拾おうか……いや変に女を刺激したくないと思っているうちに、一瞬どこにシーベルトがあるかわからなくなり、パニックを起こす。
「落ち着いてください。事故を起こしますよ」
穏やかな声とは裏腹に、銀色の刃先は平本の脇腹を刺激していた。
大きく深呼吸をしながら、落ち着けと言い聞かせ、シートベルトを嵌めた。
「病院から出てたら、右に曲がってください」
平本はスバルを発進させ、病院を出た。震える手でハンドルを切り、右に曲がった。女の指示に従って進んでいくと、やがてスバルは北方面へ向かっていた。ナビの画面をチラリと見ると、現在地の先に藤が丘シティがあった。




