3-6
3‐6
ミニバンは清水インターチェンジを抜けて、東名高速を東へ進んでいた。スピーカーからは桑田佳祐のしゃがれた声のバラードが流れていた。それに合わせて、潤一が少し調子の外れた音程で歌っていた。両隣に座っている和希と結香はこわばった顔でじっと前を見ていた。佐山は右手でハンドルを持ち、アームレストに左肘を載せて、ゆったりした姿勢で車を運転している。とても人を拉致して走っている様子ではない。
「佐川、あんた八田理事長と知り合いなんだろ。俺を八田理事長の後見人にした経緯を知っているんじゃないのか」
「八田理事長」佐山は小首を傾げる。「申し訳ありませんが、そのような方は記憶にありません」
「嘘をつくな。俺は佐山っていう人が、八田理事長のところへ訪問しているのを知っているんだ」
「和希、この人たちは嶋本と同じクローンよ。ここにいる佐山と八田理事長のところへ行った佐山は別の佐山かもしれないわ」
「ああ、きっとそうかもしれませんねえ」
佐山はまるで他人事のように呑気だ。
曲が変わり、激しくて猥雑なイントロが始まる。エレキギターとドラムの音が、和希の頭の中で反響し、呼応するように怒りが増幅していく。桑田佳祐の猥雑なボーカルが体にまとわりついていく。
ひどい頭痛して、和希は両手で頭を抱えた。
熱い。体の芯から沸々と発散する熱が、指先まで浸透していく。
「よせ……。曲を止めろ……。何がマンピーだ……。ふざけてる……」
「おい、どうかしたか。気持ち悪くなったのか? 車の中でゲロは吐くなよ」
「ううあぁぁ……」
結香が呻き始めた。気になったがそれどころではない。全身に痛みが走り出した。細胞が沸騰し、ギシギシと骨が軋む。
「和希、お前指が変な形になってるぞ。毛も生えてきてるし」
「あああっ」
気が遠くなりそうなほどの痛みだ。体が痙攣し始める。口の中に何かがあるのに気づいて吐き出した。
腹から太ももにかけて鮮血がぶち撒かれる。服に血がしみて、白い固形物が残された。
歯だ。
ボロボロと、歯が抜け落ちたのだ。
「和希、お前顔が変だぞ。毛がいっぱい生えてるし、口が突き出てる。もう人間の顔してないぞ。犬みたいだ。結香は何だ……くちばしか。その顔、鷲みたいだぜ」
「潤一さん、彼らはスイッチが入ってしまったようです。大変まずい事態ですねえ」
言葉の内容とは裏腹に、佐山は相変わらずゆったりと喋る。
「どうすりゃいいんだよ」
「彼らを抑えられますか」
「やってみる」
潤一が和希の肩を、めり込むほどの力でシートに押しつける。力は強く、動こうとしてもびくともしない。
「和希、落ち着けよ。これ以上変身するなよ。なっ」
笑顔を浮かべる潤一が憎らしい。その首を噛みちぎりたい衝動に駆られる。
肩を押さえる腕が目に入る。これなら首を伸ばしてかめる。そう思った瞬間、首が伸びていた。
潤一の腕にかみつく。
口の中で、ゴムのような弾力のある感触があった。
力を込めて噛みちぎる。
「痛てぇぇっ」
潤一の腕から鮮血が噴きだし、和希に降りかかる。
肩にかかった力が弱まった。
和希は躊躇することなく潤一の首にかみついた。
首を振り、肉を引きちぎった。
あっと叫ぶ寸前で時が止まったかのように、目と口を見開きながら、潤一の首から信じられないほどの血が噴き出す。
和希は、その姿を唖然と見ている自分を意識した。
「弱りましたねえ」
バックミラー越しに見える佐山は困惑した目をしていたが、相変わらず左手はアームレストに置いたまま。緊張した様子はみじんもない。
血を噴きだしている潤一の向こうで、鷲が動き出す。
鋭い目が佐山の後ろ姿を凝視していた。黄色くて鋭いくちばしは、先端に向かって鉤型に湾曲している。
ヘッドレストとサイドウインドウの間にくちばしを突っ込んだ。
運転席から血しぶきが上がる。
コントロールを失ったミニバンがぐいと右に逸れる。中央分離帯ガードレールが迫ってくる。
「うぉぉっーん」
叫んだつもりが、狼の遠吠えになって響いた。
強い衝撃と共に、中央分離帯に激突する。一回転しながらガードレールを乗り越えた。横倒しで着地すると、対向車線を横切って、路肩のガードレールに衝突して止まった。
頭が真っ白になって、思考が飛んでいた。ぼんやり前を見る。フロントガラスはぐしゃぐしゃに割れ、その向こうにある薄汚れた白いガードレールが目に入った。ガソリンの刺激臭と血の臭いが立ちこめている。
俺は何をしているんだ。そう思っていると、下にある柔らかい物が動いた。和希を押しのけるようにして、フロントガラスから飛び出していった。出て行く瞬間、それが巨大な鳥だとわかった。
鳥が視界から消えていくのを見ていると、どこかでボンッという鈍い音が聞こえた。
焦げた臭いが漂い始める。視線を前に向けると、ガードレールが見えていた部分は真っ黒な煙で充満していた。
黒煙が迫ってきて、たちまち和希を包み込んでいく。目が痛くなり、肺に煙が侵入して、息が出来なくなる。
危険だ。そう思った時、体が勝手に動き出した。上に向かって飛び上がる。ひびの入ったサイドウインドウを突き破り、窓枠を蹴って地面に着地した。目の前に黒煙を上げて横倒しになっているミニバンがあった。横を高速で車が駆け抜けていく。
一台のセダンが路肩へ止まった。中から三人の中年男性が現れた。一人は携帯電話を耳に押しつけて話をしている。
「派手にやっちまったなあ」
「こんなんじゃあ、中の人はもうだめだろうな」
「おいおい、爆発するかもしれないから、あんまり近づくなよ」
話をしながら近づいてきた男たちが、ふと和希を見た。
「この犬、事故った車に乗っていたのかな」
「でも、首輪は嵌めてないぞ」
「車内だから外していたのかも知れないぜ」
こいつら何を言っているんだと思ったが、ふと下を見下ろすと、自分が四つの脚で立っているのに気づいた。腕に毛が生えている、て言うか、これって人間の腕じゃないよ。
犬の脚だ。
びっしりと毛が生え、黒くて鋭い爪が伸びたコンパクトな指。車の中で、自分の歯がぼろぼろと落ちていく姿を思い出す。結香の父親と同じだ。自分が狼に変わっていく姿を想像する。
「こいつ、口に血が付いてんじゃねえの?」
男たちが屈んで和希をのぞき込む。
「犬って言うより、なんだか狼みたいだな」
「アホか。日本に狼なんかいないんだぞ」
「動物園ならいるんじゃね」
「動物園から逃げてきたとか。首輪がないのもそのせいかもしれないよ」
「やべえかも」
男たちが後ずさる。
危険だと思ったとき、またしても体が勝手に動き出した。和希はガードレールを軽々と乗り越え、草木が密生する中へ入った。びっしりと生えた雑草をすり抜け、斜面を登っていく。
どれくらい山を彷徨ったのだろうか。時間の感覚がわからなくなってくる。やがて日が暮れて、辺りが真っ暗になっていった。ひどく腹が減っていた。脚に力が入らない。そもそも、俺はどうして前に進まなきゃならないんだと思い、立ち止まり、空を見上げた。黒い木々の間から星が瞬く夜空が見えた。辺りは音が存在しないかのように静かだ。
右後方で、わずかに草が揺れる音がする。反射的に音がした方向を見た。真っ暗な闇の中、わずかに小さな影が現れ、動いているのが見えた。考えるよりも先に体が動き、ジャンプしていた。前足が影を押し潰しながら着地する。
ギィッッッという耳障りな鳴き声がした。足の裏で、蠢き、熱を帯びた柔らかな肉を感じる。肉に喰らいつき、引きちぎる。ひときわ大きな鳴き声がして、肉の動きが止まった。口の中にある熱を帯びた血と肉の味が食欲を刺激し、そのまま飲み込む。粗方食い尽くすと、再び歩き出した。やがて東の空が白み始め、木々の間から太陽の光が見えてきた。
体がひどく熱を帯びていた。疲労感も半端ない。歩くのも困難になってきた和希は、木の陰に潜り込み、手足を縮めて目を閉じた。意識が飛んでいき、眠りにつく。
夢を見た。白い部屋。掃き出し窓からは朝の瑞々しい光が差し込んでいた。カーペットの上では、広げた服を女性が畳んでいた。後から中学生くらいの少女が入ってきて、女性と一緒に服をたたみ始めた。女の子が何か言って、女性が笑い転げる。
やがて夢は闇の中へ沈んでいく。泥に埋まったような息苦しさを覚え、もがくが抜け出せない。やがて力尽き、ろうそくの灯火のように揺らめいていたわずかな意識は、フッと消えていく。
目を開く。立ち上がると、いつの間にか辺りは暗くなっているのに気づいた。ひどく腹が空いていた。思考は冴え冴えとして、どんな変化も見逃さないよう周囲に注意を払いながら歩き出す。口の中で血と肉の味を思い出し、よだれが顎から滴った。食いたいと思う欲望が、脚を動かしていく。
平本は食い入るようにその画像を見ていた。橋の上でミニバンから顔を覗かせている男。それは三年前に八田理事長の下を訪れた佐山に間違いなかった。
あの日、佐山はアポ無しで八田の下を訪れた。当時、八田は理事長室で執務中だったが、原則事予定にない面会は受け付けない。このため、佐山には理事長は不在だと伝えていた。しかし佐山はそんなはずがないから会わせて欲しいと粘っていた。要件を教えてくれれば後で理事長に伝えると話したが、当人にしか伝えられないとして拒否された。こんな奴らは定期的に現れるが、大概ぶち切れて警察を呼んで排除してもらう事になる。しかし佐山はあくまでも穏やかで、その手も通じない。弱り果てた平本は、根負けして佐山という男が面会に着ている旨を八田に伝えた。八田は防犯カメラの画像を見ると、即座に通せと言った。
訳がわからないまま理事長室に佐山を通すと、一時間近く二人は話し合っていた。一応来客名簿に記載された佐山のフルネームと住所を陽公会のデータベースで検索したが、一致する物はなかった。佐山はその後、二回八田の下を訪れた。そして和希に関する資料を渡され、彼の後見人になるから弁護士を手配するようにという指示を受けた。
平本はスマホで永松の番号を呼び出し、発信する。
――ただいま、電話に出ることができません。ピーッという――
電話を切った。おとといの午後、平本に佐山の住所を連絡したところ、早速行ってみると言っていた。進展を聞くため昨日の午後から電話をしていたが、留守電のままだ。あんな男なので、情報を渡したくないからスマホの電源を切っているんだろうと思っていた。しかし、この写真を見ると急に不安になってくる。永松が佐山に捕まって、誰から住所を聞いたかゲロしたら、自分に害が及ぶ。心臓が不規則に鼓動するのを意識しながら、奴の正体を明かす手がかりがないか必死に考える。
三年前、理事長室に佐山を連れて行ったとき、廊下ですれ違った女。黒木夕子。あのとき、黒木は佐山の顔をじっと見ていた。理事長の客を見つめるなんて配慮のない奴だと思っていたが、彼女が佐山を知っていたならつじつまが合う。
そう思うといても立ってもいられなくなった。佐山の画像を印刷して秘書室を出ると、下の階にある総務部へ行った。机を見回し、黒いカーディガン姿の中年女を見つけた。
「黒木さん」
女の横に立った平本は、最大限の優しい声で話しかける。
黒木は眉間に皺を寄せ、あからさまに汚いものでも見るような目で平本を見上げる。「何かご用ですか」
使い込みが発覚して以来、この女は自分をこんな顔でしか見ない。一ミリでも近づきたくない相手だが、そんなことを言っている余裕はない。
「黒木さん、この人に見覚えがないかな」
印刷した佐山の顔写真を見せる。黒木は顔を近づけたが、小首を傾げただけだ。
「ほら、三年前、理事長室へ僕がこの人を案内したときに、すれ違ったじゃないか」
「はあ……ちょっと覚えていませんけど」
「佐山さんていうんだけど」
「知りません」
黒木は素っ気なく言うと、パソコンモニターに視線を戻してしまった。怒鳴り散らしたくなる衝動に駆られたが、妙な噂が立つのはまずい。平本は大きく息を吐き、総務部を後にした。秘書室へ戻り、改めて探偵が撮影した画像を見る。そこにいるのは間違いなく巨大なシャチだった。それに対してあり得ない跳躍力でシャチに槍を突き立てる中年女。潤一は巨大なシャチの面を押さえている。もはや人間のレベルを超えていた。しかも奴らのバックアップに佐山がいるなんて。
何が起こっているんだと考え込んでいると、不意にスマホの着信音が響いた。画面を見ると、登録されていない電話番号が表示されていた。誰だと思いながら電話に出る。
「平本さんですね。黒木です」
「ああ……」
想定外の人物に一瞬困惑したが、佐山の事だと確信して、黒木の言葉に集中した。
「先ほどは失礼しました。見せていただいた画像に写っていた人ですが、もしかしたら知っている人かもしれません」
「へえ」平本ははやる気持ちを抑え、平静を装いながら話した。「どんなご関係でしょうか」
「実は……その……ここへ来る前に勤めていた病院にいた方とそっくりなんです。秋川さんという内科の医師です」
「ほう。その方は今どこにいらっしゃるんですか?」
「それが……行方不明でして」
「何か問題でも起こしたんですか」
「あの人、三人の女性と同時に交際していたんです。程なくそれが三人にバレまして、トラブルになったんです。その中でも一人の女性が一緒に死ぬとか言い出して、大変だったんですよ。ところがその女性、両親や友人に何も言わず、行方不明になっちゃったんです。それで、秋川さんが殺したんじゃないかって、噂が流れました。もちろん当人は否定したんですけね。警察も動いたらしいんですけど、死体も見つからないし、一応事件性がないって結論が出たそうです。でも、結局病院に居づらくなって、辞めちゃったんですよ」
「そんなことがあったんですか」
「あの人、今は何をしているんですか」
「僕もわからないんです。それで黒木さんが何か知っているんじゃないかと思って聞いたんですけど」
「実は私もずっとあの人を探していまして……いえ、ちょっとあの人にお金を貸していまして……返してもらえないまま消えちゃったんで」
「だったら三年前に聞けばよかったのに」
「あのときは……その……。平本さんが案内していましたから、騒ぐのも病院に迷惑をかけるでしょ」
「そうだったんですねえ。もし、秋川さんの消息がわかったら、黒木さんに連絡しますよ」
「よろしくお願いします」
平本は電話を切った。口元には笑みが浮かんでいる。金を貸しているなんて見え見えの嘘をつきやがって。この女も昔秋川の愛人だったんだろう。そう考えれば、三年前に意味ありげな顔で佐山を見ていたのも納得がいく。しかし佐山という男は、終始穏やかな顔で、女を騙すようなクズ男には見えなかったが。
まあいい、ともかくいい情報を得た。平本はパソコンにパスワードを入力して、陽公会職員の個人情報ファイルにアクセスした。その中から黒木の情報を引き出す。前職欄にワンプラス病院とあった。
平本の背中に、ぞろりと鳥肌が走る。
ワンプラス病院、旧名は藤が丘病院。かつて、藤が丘シティと提携していた病院だ。藤が丘事件の後、提携は解消し、イメージを変えるために病院名を変更していた。
外科部長のレポートをチェックしていた八田は、パソコンからアラートが出ているのに気づいた。ログ監視アプリを開き、内容を表示させた。
社員番号B2377 平本俊文 警告内容 「ワンプラス病院」
「平本か」八田はモニターを見ながら、口元にうっすらと笑いを浮かべ、目を細める。しかし、まぶたの隙間から覗く瞳孔は、ガラスのように無機質で冷ややかだ。「なんであいつがワンプラス病院を検索したんだろうな」




