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3-5

                     3‐5

 シャチが向かってくる。

 潤一が股を開いて腰を落とす。前に手を伸ばし、両手でシャチの上顎を掴んだ。

 弾き飛ばされると思ったが、潤一の体はぶれることもなく、がっしりと掴んでいる。

「おおい、早く来てくれ」

 怒鳴る潤一。いったい誰に言っているんだと思っていると、背後から、小太りの中年女性が現れ、和希の隣に立った。

 嶋本だ。銀色に鈍く輝く棒を持っている。先端には両刃の剣が付いている。

 膝を曲げて屈んだかと思うと、跳ねるようにジャンプした。

 槍を逆手に持ち替えながら潤一を飛び越え、シャチに向かって突き降ろす。

「キュウィィーン」

 シャチが甲高い音でなき、激しく身をくねらす。潤一が耐えきれず、横に飛ばされた。ひしゃげた欄干を掴み、川に落ちるのは免れる。

 嶋本はシャチの上で槍を掴みながら必死に耐えていた。

 槍を引き抜く。同時に飛び上がり、再び刃を突き降ろそうとした。

 黒いものか一直線に飛んできて、嶋本の顔に直撃した。

「ぎゃっ」

 叫びながら嶋本がバランスを崩し、シャチの頭にぶつかって転げ落ちた。

 立ち上がったところをシャチが大口を開けて、嶋本の腹にかみつく。

「ぐうぁぁっ」

 絞り出すような声を上げる。

 潤一が立ち上がり、落ちていた槍を手に取った。突き刺そうと、体をのけぞらせた。

 シャチが嶋本を咥えたまま、体を反転させた。そのまま川に落ちていく。巨大な水しぶきが上がった。

 和希は這いずりながら恐る恐る川面を覗いたが、水面が波打つだけで、シャチがいた痕跡はなかった。

「くそっ、逃げられたよ」隣で立っていた潤一が空に向かって呟く。「お前のせいだ」

 空には一羽の黒い鳥がホバリングをしていた。嶋本の顔面に衝突したのはあの鳥だ。潤一が鳥に向かって槍を構えると、鳥は西へ向かって飛んでいってしまった。

 和希はまだ恐怖で体が震えていたが、どうにか立ち上がった。「結香はどこにいる」

「あそこに隠したよ」

 潤一は橋のたもとにある小さな神社を指差した。境内から結香が不安な目でこちらを見ていた。和希は立ち上がり、足がふらつくのを意識しながらも、結香の元へ行った。

「大丈夫か」

「うん。ありがとう」

 結香が視線を和希の背後に向け、怯えた表情を浮かべた。「あんた……お兄ちゃんじゃないよね」

「ははっ、なんでそんなこと言うんだよ」

 潤一の快活な笑顔も、今は嘘くさくしか見えない。

「おれは間違いなくお前の兄貴。ま、多少バージョンは変わってるけどね」

「少なくとも、肉体は今までの潤一じゃないよな」

「まあな。前の潤一なら、シャチを押さえようとしたって、弾き飛ばされてたぜ」

「じゃああんたは別人よ」

「肉体は強化してあるが、それ以外のゲノムはほぼ一緒だ。記憶だって移植してあるんだぜ。それでどう違うのか言ってみろよ」

「ええっ……」

「お前だって、ほとんどの細胞が日々新しい細胞に入れ替わっているんだぜ。分子レベルなら百パーセントだ。十年もすれば、全部入れ替わっているよ」

 結香は反論が出てこないのだろう、押し黙ったままヘラヘラと笑う潤一を睨んでいた。

「それより」潤一が真顔に戻る。「お前ら、誰かにここへ来るのを知らせていたか?」

「いや? 誰にも話してないよ」

「そんなわけないだろ。あのシャチは明らかにお前らを待ち伏せしていたんだ。事前にここを通ってくるのを知っていたんだよ」

「もしかして……吉田さんかも」結香が呟く。「あの人にマンションの修理を見に行くって、言ってたでしょ」

「でも、それはあり得ないだろ。仮に吉田さんだったら、俺たちを襲うタイミングはいくらでもあったんだ。例えば吉田さんの実家とか東京への移動中とか」

「吉田さんが別の人に情報を漏らした可能性は?」

「島名さんは?」結香が呟く。「吉田さんが今日会いに行くから一緒に行こうって言われたんでしょ。だけど、これからマンションの修理に立ち会わなければいけないって言うんで断った」

「うん、そうかも知れない」

「東京で熊に襲われたときも島名さんの事務所だったわ。かなり怪しいと思う」

「決まりだな」

 マンションの方向から、一台の白いミニバンが橋に入ってきた。脇に避けた和希たちの横で停車する。スライドドアが開き、運転席の窓が開いて白髪交じりの男が出て来た。年は六十過ぎだろうか。穏やかな顔をしている。

「潤一さん、その槍を車にしまってください。そのうち警察が来ますから、面倒なことになります」

「佐山さん、あのシャチに情報を教えた奴がわかったよ。島名って人なんだって」

「佐山さん?」和希は結香と顔を見合わせる。

 佐山。八田が和希の後見人になるとき、病院を訪れていた男と同じ名前だ。

「ほう、島名さんですか。怪しいとは思っていたんですが、やはりそうだったんですね」

 佐山は呆気にとられている和希と結香を気にすることもなく、淡々とした口調で潤一に話しかけていた。

 潤一は槍を車の中にしまうと、振り返りながら躊躇せず、右の拳で結香の腹を殴った。

 結香は「ぐえっ」と呻き、前屈みに倒れかける。潤一は薄笑いを浮かべたまま、結香の肩を掴み、軽々と持ち上げてミニバンの後部座席へ放り込んだ。

「おいっ、お前何するんだ」

 潤一は掴みかかろうとした和希の右腕を逆に掴む。

 和希の腕に圧がかかり、骨が潰されそうなほどの強烈な痛みが走る。

「うあああっ」

 崩れ落ちそうになったところを潤一が空いた手で脇を掴んで引き上げた。

「お前らは殺さないから安心しろ」

 潤一は和希の腕を掴んだまま、後部座席に入っていく。

「お前も乗れよ」

「野郎……」

 抵抗したかったが、腕の痛みが激しく、全身から冷や汗がにじみ出てくる。

「早くしろ、警察がきたら面倒だ」

 潤一に従うしかなかった。和希は後部座席へ乗り込んだ。スライドドアが閉まり、ミニバンが動き出した。ちらほらと現れた見物人たちが怪訝な顔をしながらミニバンを見ている。中にはスマホで撮影している者もいるが、潤一と佐山は気にもとめていない。

 ミニバンは清水銀座を横切り、東へ進んだ。五分ほど走ったところで一旦停車し、助手席のバッグからナンバープレートと電動ドライバーを取りだした。

「ちょっと待っててくださいね。すぐに交換してきますから」

 まるでコンビニでコーヒーでも買ってくるような顔をして外へ出ていき、三十秒ほどで戻ってきた。交換したナンバープレートをバッグに詰めてシートベルトを嵌める。

「さあ行きましょう」

 再びミニバンが動き出す。

「お前ら、誰から指示を受けているんだ」

「指示だって?」潤一が不思議そうな顔をする。「俺たちは誰からの指示も受けていないよ。ねえ佐山さん」

「その通りですよ」

 佐山がゆったりした声で答える。

「そんなわけないでしょ」まだ腹を押さえて顔をしかめている結香が言う。「だったらなんであんたはシャチと戦ったのよ」

「ええっと……なんて言ったらいいのかな、ともかくそういう風になってるんだよ。ほら、お前らだって、腹が減ったら飯を食うだろ。それとおんなじさ。シャチが来た。こいつを倒さなきゃってね」

「だったら、実の妹の腹を殴ったのも『そういう設定になってるから』なのかよ」

「まあな」

「前のお前はそんな奴じゃなかった」

「だからさ、前の俺とはバージョンが変わっているんだって」

 事もなげに言う潤一に怒りが突き上げてくる。

「お前……」

 無意識のうちに手が動いた瞬間、潤一の手が伸びて押さえ込まれた。

「二人とも暴れないでくれよ。殺しはしないけど、ある程度ダメージを加えるのは問題ないんだ」

 潤一の腕は鉄の塊のように硬く、力を込めても微動だにしない。

 和希を見ている潤一の背後で、結香が動いた。両手が潤一の首に伸びた瞬間、潤一が振り向きながら、右手の甲で顔を払うように叩いた。

「ぎゃっ」と叫び声を上げながら、結香がシートへ叩き付けられた。眉間に皺を寄せながら鼻を手で押さえる。

「結香、大丈夫か」

「痛い……」

 鮮血が結香の手首を伝って流れ始めた。

「結香さん、もう少し、ゆったりした気持ちでいていただけませんか。そうでないと体が持たないですよ」

 こんな状況だというのに、佐山はバックミラー越しから穏やかな眼差しを向けていた。

「そうそう、落ち着いて落ち着いて」

 うれしそうに笑顔を浮かべる潤一に怒りがこみ上げ、体の芯が熱くなってきた。クラクラと、目眩がしてくる。


 D駅を降り立った永松は、近くにあったレンタカー会社でヤリスを借りた。エンジンを掛け、自分のスマホを接続させた。カーナビが起動し、画面にルートが表示される。山梨県D市藤が丘。昨日の夜、八回目の電話でようやく出た平本から聞き出した佐山の住所だ。

 まさか藤が丘シティの住人とはね。永松は画面を見ながら笑みがこぼれてくる。フルネームは佐山彰一。更に平本を脅しつけたが、わかっている情報はこれだけしかないという。ネットやSNSで佐山彰一を検索したが、それらしい情報は得られなかった。取りあえず、現地へ行って調べるのが一番だろうと思い、朝一番の電車に乗り込んだ。

 ナビに従って北へ向かう。住宅地を抜けて、ゆるいカーブが続く山道を進んだ。五分ほどで土地が開け、白いきれいな住宅が建ち並ぶ町並みが現れた。スピードを落とし、周囲を見回しながら道を進んだ。

「ここか」

 永松は地図が指示した家の前を徐行しながら通り過ぎた。そこは周囲の家と同じ形をした白い家だ。駐車スペースにはトヨタの古いワゴン車が駐めてあった。人気はなく、外からの生活感は皆無だ。直接会って話を聞く前に、まずは周囲から攻めてみようと思う。永松は佐山の家から一ブロック離れた場所へ移動し、「売物件」と看板が出ている家の前に車を止めて外へ出た。ぶらぶらと歩いている風を装いながら、適当な家を選んでインターホンを押してみるが反応はない。仕方がないので範囲を広めてみる。しばらく歩いているとN‐BOXが駐めてある家を見つけた。インターホンを押すと反応があった。

「おはようございます。私、永松探偵事務所の永松と申します。ある方の信用調査でお聞きしたくて伺いました」

 はいと返事が返ってきて、ドアが開いた。年は三十代前半だろうか、主婦らしき女が出て来た。ひどく疲れた顔で、警戒心を隠すこともなく永松を見ている。永松は彼女の視線に気づかないふりをして、最大限の爽やかな笑顔を作って見せた。

「お忙しいところ申し訳ありません。私、永松探偵事務所の永松と申します。実は一丁目に佐山さんという――」

「そんな人は知りません」

 永松の言葉を遮るように言い、ドアを閉めようとする。

 佐山と言った途端、目に怯えが走った。この女、何か知っていると思う。

 永松はドアを掴んで押さえた。

「離してくださいっ」

「いやいや、ちょっと待ってください。佐山という人を直接知らなくても、小さい街ですから、道ですれ違ったり、会合で会ったりとかしているかもしれないじゃないですか」

「知らないったら知らないんです。警察を呼びますよ」

「私は全然構いませんよ」

 正直警察を呼ばれると面倒だか、カマをかけてみる。ドアを引くからが弱まり、目が泳ぎ始める。ビンゴ。永松はいやらしい笑みがこぼれそうになるのを押さえる。

「小さな事でもいいんですよ。知りませんか」

「知らないんです……本当に」

 この女と佐山はどんな関係なんだろうか。

「失礼しました」永松は足を伸ばして靴でドアの隙間に押し込み、ジャケットの内ポケットから名刺を取りだして女に渡す。

「もし、何か知っていることがありましたら、ここへお電話をいただけるとありがたいです」

「はあ……」

 永松は足を引っ込めた。女は受け取った名刺に目を落とし、不安で震える目でもう一度永松を見ると、何も言わずドアを閉めた。ガチャリと鍵がかかる音がした。

 あの女、これから佐山に連絡を取るのだろうか。それなら渡りに船だ。こっちが何かネタを掴んでいると思わせた方がいい。疑心暗鬼になった相手から、思わぬ情報を得られるかもしれない。永松はメモ帳を取り出して、表札に刻まれた小関という名字を書き込み、家を離れた。

 再び歩き出すと、筋向かいに年季の入った青いワゴンRが止めてある家が目に入ってくる。ここへも行ってみようか。永松は玄関の前に立つと、「榎本」表示されている表札の下にあるインターホンのボタンを押した。

「おはようございます。私、永松探偵事務所の永松と申します。ある方の信用調査でお聞きしたくて伺いました」

 スピーカーから「はあい」という高齢女性の声が聞こえてきた。しばらくすると解錠する音がしてドアが開く。中から白髪の、品の良さそうな老人女性が出て来た。

「お忙しいところ申し訳ありません。私、永松探偵事務所の永松と申します。実は一丁目に佐山さんという方の身辺調査をさせていただいております。榎本さんは佐山さんをご存じでしょうか」

「はいはい、佐山さんはここの自治会長をしておりまして、いろいろとお世話になっているんです。先日も、佐山さんの自宅で開いた会合にお招きさせていただきまして」

「ほう。会合ではどのような話をされているのでしょうか」

「瓶と缶の回収当番とか決めるぐらいで、あとは単なる飲み会ですねえ」

「佐山さんのご職業はご存じですか」

「何でも昔、お医者様をされていたと聞いていますが……もしよろしければ、立ち話も何ですので、奥で座ってお話をさせてもらえると助かるんですが。最近腰が痛くて」

「お邪魔でなければ、そうしていただけると私もありがたいです」

 渡りに船だった。上手くやれば、この家から小関の家を観察できるかもしれない。

「ではどうぞ」

 永松はドアの中に吸い込まれて行く。


 成実は二階に上がって桃音の部屋からカーテンを少しだけ開き、そっと道を覗いていた。さっきの探偵が、榎本の家の玄関に立っているのが見える。ああやって、一軒一軒調べていくんだ。あのこと気づいて調べに来たんじゃないんだ。そう言い聞かせると、ほっとして肩の力が抜けてくる。

 しかし、次の予想だにしなかった展開に、口からヒィッ、という短い悲鳴が上がる。頬を窓ガラスに押しつけ、榎本の玄関を凝視した。体が自分ではない思えるほど、ガタガタと震えているのがわかった。

 榎本の家のドアが開き、出て来たのは白髪の老婆。自分が殺した榎本の妻。

 目をかっと大きく見開き、黒みがかった紫色に変色した顔。親指が喉仏にめり込んだ感覚はまだ鮮明だ。五日前、あの婆さんは間違いなく死んだはずだ。

――生きてる生きてる生きてる生きてる生きてる生きてる生きてる生きてる生きてる――

 言葉が脳内を駆け巡り、パニックを起こし始めた。


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