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3-4

                     3‐4

 福田は朝から強い日差しが頭上から照りつける中、フィーチャータワーを回り込んで自宅へ戻ることにした。タワーが作る日陰で立ち止まり、タオルで汗が滲んだ首筋を拭う。ナイロンのボディバッグからペットボトルのポカリスエットを取り出して、四分の一ほど飲んだ。液体が胃に収まって落ち着くの待ってから歩き出す。

 日差しが目に入るのを避けるため、帽子を目深に被り、少しうつむき加減で住宅街に入っていくと「福田さん」と声をかけられた。

 顔を起こして右を向くと、河田の姿が目に入った。黒のTシャツとカーキの短パンを穿いていて、右手にはプラスチックのバケツを提げている。きっとお気に入りのあれを洗おうと出て来たに違いない。福田はカーポートに置いてあるブルーのBRZに視線を移した。

「おはようございます」

「ウォーキングですか。精が出ますね。僕も歩かなきゃとは思うんですが、すぐ膝が痛くなりましてね。ところで」

 河田はバケツを置いて道路へ出てくると、そっとささやきかけた。「最近、榎田さんの姿を見かけませんか?」

「えっ」唐突な問いかけに、思考の奥から榎本夫妻の情報を引き出す。「そういえば、このところ見ていませんねえ」

「でしょ。よくあの青いワゴンRで仕事に行くのを見かけたんですけど、最近は走っているところを見ていないんですよ」

「そうですねえ、私も最近見ていません」

「さっき家の前を見てきたんですけどね、ここしばらく車を動かした形跡がないんです」

「旅行に行ったとか」

「あの人たちにそんな余裕があると思いますか?」

 河田が馬鹿にしたような笑いを浮かべた。福田も釣られて笑う。借金で首が回らないのに、旅行なんか行けるはずがない。

「もしかしたら、将来を悲観して、家で心中とかしているんじゃないかって心配なんですよ」

「まさか」

 この間の飲み会で、ニコニコ微笑みながら、余った食事をタッパーに収めていく二人の姿を思い出す。あれだけの図々しさがあれば、しぶとく生きていくのではと思う。

「元気そうでも、あの年になると病気や怪我で一転しますからね。働けなくなったら完全に人生詰んじゃいますから」

「確かに」

「榎本さんの家まで付き合ってくれませんか。私だけだとちょっと怖くて」

「はあ」

 榎本夫妻とは特に親しくしているわけではなかったので、別に心中しても心は動かない。ただ、近くに死体が放置されているのはいい気分ではない。孤独死した老人が放置されてウジ虫に食われていたなんて話もあることだし。

 福田は河田と一緒に榎本の家へ行くことにした。元来た道を戻り、広場を横切って反対側のエリアに入る。しばらく歩いていくと、黒のアルファードが置いてある家が目に入った。通り過ぎると、小学生らしき子供の笑い声が奥から聞こえてきた。

「ここですね」

 河田が左手にある家を指差した。カーポートに青いワゴンRが置いてある。河田が道路から身を乗り出すようにしてワゴンRをのぞき込んだ。

「やっぱり動いていませんねえ」河田が敷地を指差す。「ほら、あのコンクリートにタイルが縦に敷いてあるでしょ」

 駐車線にするためだろう、コンクリートの目地へタイルが一直線に敷いてある。

「右の前輪があの線に半分かかっていますけど、後輪は線から外れていますよね。木曜日からずっと同じなんですよ。同じ位置に止めるなんて、相当意識してなきゃ出来ません」

「つまり、木曜日から車は動いていないという事ですね」

「ええ。榎本さんが働いているスーパーは車で二十分ぐらいです。ここはバスも止まっちゃったし、歩いて通うなんて、あの年じゃあ不可能ですよ」

「家のチャイムは押しましたか」

「ええ。木曜日と土曜日に来たんですが、誰も出て来ません。今日もやってみますか」

 玄関へ行き、チャイムを押すと、インターホンから「本日榎本は不在にしております」と女性の合成音が聞こえてきた。

「AIっていうのは、死んだ人を人として認識しないんでしょうかねえ」

「さあ」河田が首を捻る。

 一応ノブを引いたが、鍵がかかって開かない。

「こんにちは」

 声を張り上げてみたが、返事はない。

「失礼しまーす」

 河田は言いながら、家の右側へ入り込んでいった。福田も付いていく。

 掃き出し窓があったが、カーテンが閉まっている。隙間からのぞき込んでみるが、暗くて何も見えない。

「榎本さーん」

 窓に向かって声をかけても反応はなかった。

「どうしちゃったんでしょうか。榎本さんの携帯の番号とか知りませんよねえ」

 河田が首を振る。そもそも、知っているなら真っ先に電話しているだろう。

「あっ」河田がはっとした顔をする。「電話といえば、佐山さんなら知っているんじゃないですか? 毎月飲み会を開いていますから、榎本さんとも連絡を取っているはずです」

「そうでしたよねえ。私も佐山さんとは電話番号を交換していますし」

 福田はそう言いながらスマホを取りだした。画面をタップし、佐山の番号を呼び出す。

 二度の呼び出し音で、声が聞こえてきた。

「佐山さん、福田ですが。今よろしいですか?」

「はい。どうぞどうぞ」

「実は今、河田さんと一緒に榎本さんの家の前にいるんですよ。と言うのも、このところ榎本さんの姿を見かけませんで、どうしちゃったのかと思っていまして。もし夫婦で家の中に倒れていたら大変じゃないですか」

「ああ、榎本さんですねえ。あの人たちなら、旦那さんの弟が亡くなって、先週の水曜日に埼玉へ行ったそうですよ」。

「へえ、そうだったんですか」

「しかもその人、独り者の上に、商売で一財産作っていたみたいで、相続できれば借金も完済出来そうなんです。現金なもので、葬式だというのに浮き浮きした顔をしてましてね。きっと当分帰ってこないと思いますよ」

 福田は礼を言って電話を切った。佐山の話を福田に伝えた。

「そうなんですか。そりゃよかった」

 河田は言葉とは裏腹につまらなさそうな顔をしてみせる。今まで抱いていた榎本夫妻に対する優越感が、羨望へ変わってしまったのが気に入らないのだ。一言で言えば、妬ましい。口にすれば否定するだろうが、間違いない。なぜなら、福田自身も腹の奥でじくじくとしたわだかまりを感じているからだ。

 妬ましい。

 こんな因縁のある土地から脱出して、埼玉の弟が住んでいた家に入って、働きもせず、悠々自適な老後を送るのだろう。

「全く。心配して損しましたよ。行きましょう」

 河田が吐き捨てるように呟いて歩き出す。福田も一緒に歩き出した。

 もしこの家で倒れている榎本夫妻を発見したら、河田はどう思っただろうか。深刻な顔で大騒ぎしながらも、自分よりひどい境遇の人たちがいることを認識して、満足するのではないだろうか。しかし、それは逆転した。

  妬ましい。

 ポリープががん細胞へと変化し、広がっていくように、わだかまりは発散しようのない憎悪と怒りに変化し、全身へ広がっていった。頬が火照り、体の芯が熱くなっていく。一瞬目眩がして、目の前の風景がグラリと歪んだ気がした。


 結香から、今日もマンション修理の打ち合わせに立ち会ってくれと言われていた。今のところ、平本や吉田からの連絡もない。時間だけはあったので、和希は了解して待ち合わせ場所の波止場踏切へ向かっていた。

「あっ……」

 踏切の向かいにあるアイスクリーム屋の前で、カップを手に、アイスクリームを食べている男がいた。

 潤一だ。失跡する前と同じ服を着て、呑気な顔をしている。

「潤一、お前そんなところで何やってんだよ」

 和希が叫ぶと潤一が顔を上げ、笑顔を浮かべて手を振りながら「おーい」と返事をしてきた。駅前銀座から結香が歩いてくるのが見えた。すぐに潤一の姿を見つけ、目を丸くしてかけ出してきた。

「お兄ちゃん」結香は荒い息をしながら潤一を睨む。「今までどこに行ってたのよ。大変だったんだから」

「ああ、知ってるよ。さっきマンションへ行ったら壁がボコボコに壊れてたよな」

「それだけじゃない。お父さんが殺されちゃったのよ」

「ええっ、マジか」

 結香が今までの経緯を話した。潤一は驚きの表情で話を聞いていた。

「そんなことがあったんだ」

 潤一から笑みが消え、肩を落とす。

「次はお前の話だ。今までどこにいたんだ」

「それが……よくわかんないんだ」潤一は困惑げに眉根を寄せた。「お前が熊に襲われた時、急におばさんが現れて熊を刀で切りつけたんだ。それで熊が逃げていって、やれやれって思ってたらさ、今度はそのおばさんが俺のところに来てさ、いきなりテンプルを殴りやがって、頭が真っ白になったんだ。で、気がついたらマンションの前で倒れてたって訳。壁は壊れてるし、誰もいないし、隣のおばちゃんはなんだかよそよそしいし、どうなってんだって感じ。取りあえず、汗もかいたし、冷たい物が食べたかったんで、ここでアイスクリームを買って食ってたのさ。そしたらお前らがきたんだ」

「全然覚えていないのか」

「うん」

 潤一が困惑した顔で頷く。

「全然話になんねえな。体調はどうだ?」

「この通り、ピンピンさ」

 潤一はバタバタと上下に足を動かしてみせた。

「痛いところもないし、疲れもないし。敢えて言えば、腹が空いてるところぐらいかな」

 そう言ってゲラゲラ笑った。

「お前、頭の中も変わってねえな」

「だろ」

「取りあえず、マンションへ戻ろうぜ。これから修理が始まるんだ」

「わかった」

 三人は歩き出した。空はどんより曇っていて、雨が近いのか、湿った風が吹き付けて頬を嬲った。

「でも、親父が死んだなんて、全然実感が湧かないよ」

 信号を左曲がり、橋にさしかかったところで、潤一がポツリとつぶやいた。

「あたしもよ」結香が潤一を見た。しかしその目は冷ややかだった。「お父さんが死んだ実感がない。お兄ちゃんもいる実感もない」

「ええっ、俺もか?」

 潤一は歩きながら結香に笑いかけるが、結香は笑い返さない。

「ふざけた顔しないで。あたしは真剣に思ってるの」

「そんなこと言ったってな……俺たちは親父の会社が倒産して、東京の家を売り払い、ここへ引っ越して来た。会社が潰れた理由は――」

「お母さんが会社のお金を持ち出して、男と夜逃げした」

「そうだよな」

「でもね、あたしこの間お父さんの部屋を整理していたら、貯金通帳を見つけたの。名義はあたし。金額が五千万あった」

「ご、五千万?」

「本当か?」

 前を歩いていた和希が思わず振り返った。結香は頷く。ふざけている様子は一切ない。

「それって、借金取りから逃れるための隠し資産かなんかじゃないのか」

「そうかもしれない。だけど、お父さんの会社って、社員が五人の零細企業なのよ。五千万あれば、夜逃げまでする必要はなかったんじゃないの?」

「俺も会社のことはよくわかんないけど、そうなんだろうな」

「それに、東京にいた頃のあたしの記憶が薄れてきてるのよ。お母さんの顔も思い出せない……これって異常でしょ」

 突然結香は眉間に皺を寄せ、ギュッと強く目を閉じ、こめかみを押さえ始めた。

「どうした」

「頭が痛い」

 結香は橋の上でしゃがみ込んだ。

「あと少し歩けばマンションだから横になれるよ。歩けないなら肩を担ぐぞ」

「ありがとう、一人で立てるわ。急に痛くなったから、足元がふらついたの」

 結香がゆっくり立ち上がり、歩き出そうとしたときだ。ふと視線を落とした和希は、川面が僅かに膨れ上がっているように見えた。

「あ……」

 青緑の水の中に巨大な黒い影が映ったと思った瞬間、水面が弾けた。

 黒く濡れ、テカテカと光沢を放つ口吻が見えたかと思うと、ぱっくりと開いた口が現れる。上顎は黒、下顎は白。細かくて鋭い歯が生え、ピンク色の舌がはっきりと見えた。

 シャチだ。

 そう思ったときには、もうシャチが飛び上がり、和希めがけて飛びかかっていた。

 迫ってくる。だが、恐怖で体がすくんで動かない。

 食われる。そう思ったとき、衝撃を受けて突き飛ばされ、横に飛んだ。何が起きたのかわからないまま、歩道に肩から倒れる。

 足のすぐ先に、シャチが突っ込んできた。スチールの欄干が紙のようにひしゃげ、ドンという鈍い音と共に橋が大きく揺れる。

 シャチは橋の上に乗り上げていた。体長は十メーター近くあるだろう。頭と尾びれが橋から突き出ている。黒く、滑らかな肌が目の前にあった。

「和希、逃げろっ」

 どこからか潤一の声が聞こえて我に返る。立ち上がろうとするが、腰が抜けて立ち上がれない。四つん這いで這うようにして動き出した。

 再び橋が揺れて、ミシミシと音を立てる。後ろを見ると、シャチが身をくねらせていた。何が起きるんだと思っていると、更に欄干を押し潰しながら、くるりと反転した。

 白いアイパッチの斜め下にある、つぶらで真っ黒な目が、和希を見ている。

 大きく口を開く。ギザギザの歯が露わになる。

 体を左右にくねらせ、和希に向かってきた。

 揺れてギシギシと音を立てる橋。間合いを詰める巨大なシャチ。

 逃げようとするが、その体躯に圧倒され、体がすくんで動かない。

 食われる。そう思ったとき、シャチの背後から飛び上がる人影が見えた。

 人影はきりもみしながら一回転して和希の前に着地した。

 その後ろ姿。

 潤一だ。


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