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「俺が誰かって?……」
あまりに唐突な問いかけに、和希は戸惑いながら答えた。
「そう」永松は胡乱げな目つきで頷いた。「あんたのこと、調べさせてもらったんだ。そうしたら、いろいろと妙なことが出てきてね。まず、あんたの両親について知っていることを教えてくれよ」
「俺の両親は交通事故で亡くなったよ。俺が中三の頃だ」
「四年前の十一月、鹿児島市だそうだね。家族で山道を走っていて単独事故を起こし、崖から落ちた。生き残ったのはあんた一人。両親に兄弟はなく、二人の父母も他界していた。結局、父方のいとこである八田義高に引き取られ、東京に来た。そうだね」
「ああ」
「鹿児島で調べたんだがね、その頃、山道で死亡事故が起きた事例は見つからなかったよ」
「そんな馬鹿な。確かに俺の両親は死んでるよ」
香の匂いが充満した葬儀場のホール。喪服を着た参列者たち、僧侶の唸るような読経。そして、祭壇に飾られた。二人の男女の遺影。それは間違いなく自分の父と母だった。今でもはっきりと思い出せる。
「じゃあ、俺の両親は交通事故以外の理由で死んだのか?」
「わからん」永松は肩をすくめる。「問題はそれだけじゃないんだ。あんた、鹿児島市立伊予台中学校を卒業しているんだよな」
「ああ」
「卒アル持ってるか?」
和希は嫌な予感を意識しながら首を振る。「引っ越しの時、なくしちゃったんだ」
「そうか。俺は現物を見させてもらったぞ。名簿にあんたの名前は載っていなかった」
「ばかな……あり得ない。俺が卒業したのは間違いなく伊予台中だ」
「更に面倒な話をしようか」
永松はポケットからスマホを取り出して画面を操作して和希に見せる。
「あんまりいいことじゃないんだがな、あんたの戸籍謄本を入手したんだ」
そこには和希の名前と両親の名前が記載されていた。両親は除籍となっている。
「次は戸籍の附票」
そこには静岡市と東京、それに鹿児島市の住所が記載されていた。
「問題は鹿児島市の住所だ」
永松はスマホを操作し、画像を表示させた。そこには木造の民家が写っていた。壁が錆び付いたトタンで、雨戸は雨風に晒されていたためか、ひどく黒ずんでいた。周囲は雑草が生い茂り、よく見ると、屋根の瓦からも雑草が伸びていた。
「あんたの附票に載っていた鹿児島の住所だ。見ての通り荒れ果てた空き家だよ。近くの人に聞いたら、三十年前からずっと空き家だそうだ」
「そんな馬鹿な」
「間違いない。ここの家主ともコンタクト出来たんだ。三十年前に引っ越して以来、誰にも家を貸したこともないし、八田なんて人は聞いたこともないとさ。あんたはここに住んでいない」
「俺が住んでいた家はもっともっと新しかったよ。白い家でさ……雑草なんかも生えていないよ。隣には大きな車があったんだ」
当時の記憶がまざまざと甦ってくる。夕日が差し込むダイニングテーブルには、とんかつとキャベツが載った皿、小鉢にはネギを散らした冷や奴。お椀には湯気を立てているわかめの味噌汁。もちろんご飯だってある。
父と母、和希の三人が座り、手を合わせて「いただきます」と言っては食べ始めた。サクサクとした衣の食感、溢れてくる肉の味。間違いなく思い出せる。
「嘘だ。あり得ない」
「だったら自分で調べてみたらどうだ。結果は同じだぞ」
「でも、それって役所が発行した書類でしょ。間違っているなんて事があるの?」
結香の疑問に永松は真顔で頷いた。「俺が気になっているもそこなんだ。戸籍ってのは国が管理している。昔みたいに地方の役所が紙で管理していたんなら、ひょっとしたらっていう事もあるが、今はセキュリティも最強だし、書き換えなんて不可能だ」
「じゃあどうして……」
「それがわからないからお前らに会いに来たんだよ」永松は苛立たしげに呟き、和希の目をのぞき込むように見た。「お前、本当に知らないのか」
和希は視線をはねつけるように見返す。「ああ。間違いない。こんな家なんか知らないよ」
「これまで俺は真顔で嘘をつく奴に何人も出会ってきた。だからお前のことを全面的に信じるわけじゃない。ただしそんなことを言っていたら話が進まない。当面お前が真実を言っていると仮定して話を進める。戸籍制度は国の根幹だからな、その内容と実態が違っているってのはでかい問題だ。バグにしろ意図的にしろ、これが公表されたら騒ぎになる」
「役所に通報するのか?」
「それはしない。だいたい、他人の戸籍を俺が持っているか問い詰められたらまずいだろ。お前らも話はするなよ。まずは俺が経緯を調べる」
「どうやって調べるのさ」
「平本に聞いてみよう。あいつなら、お前のことを全部調べ上げているはずだ。この件について、事情を知っている可能性が高い」
「だけど、あの平本が簡単に俺たちの質問に答えてくれるだろうか。あの男ならボスの利益にならないような話なんて答えてくれるとは思えないけど」
平本の慇懃無礼な態度を思い出す。
「いろいろやり方ってものがあるんだよ」永松はニタリと嫌らしい笑みを浮かべる。「あんた、平本から東京へ戻れって言われているんだろ。相談したいからこっちに来てくれって言ってくれ。奴が来たら、後は俺が話を引き出す」
和希は言われたとおり平本に電話をかけ、東京へ戻りたいと言った。これから新幹線に乗るので、夕方には清水へ行けるという。永松が満足そうな笑みを浮かべ、奴がいつ来るかわかったら電話するようにと、自分の電話番号を教えた。
監視の目をそらしてもらうため、和希たちに一旦出て行ってもらい、後で永松が出ていくことにした。永松は改めて破壊されたキッチンを見る。壁の断面を見ると、パネル材がむき出しになっていた。重機でも使わない限り、短時間でここまで破壊するのは難しい。
熊が破壊したのは眉唾だと思っていたが、神田神保町で起きた事件で考えを改めた。SNSでは路上で熊が暴れ回っている動画が数多くアップされていた。熊は突然現れ、結香の父親殺しの容疑者とバトルを繰り広げた後、現れたときと同じように突然消えていった。永松の想像を超える事態が起きているのは間違いない。真相がどうなっているにしろ、上手く立ち回れば、でかいの儲けが待っているに違いない。戸籍のからくりを裏家業の人間に売るだけでも、いい金が入るはずだ。
三分後にマンションを出て、喫茶店へ行って遅い昼食を注文した。待っていると和希から連絡があった。今日の午後五時、駅前の個室居酒屋で待ち合わせするとのことだった。出て来た脂っこいスパゲッティナポリタンを頬張りながら、アドレナリンが脳にぶち撒かれていくのを意識した。
午後五時、和希と結香は清水駅近くにある個室居酒屋の一室にいた。混み合う時間からは少し早いようで、外は静かで空調の音が響いているだけだ。二人押し黙って平本を待っていた。
「失礼します」と声が聞こえ、若い店員が顔を覗かせた。「お連れ様がおいでです」
店員の顔が引っ込み、紺のスーツ姿で眼鏡を掛けたのっぺりとした顔の男が現れる。平本だ。結香が立ち上がって和希の隣へ座った。平本が和希たちの向かいへ座った。
「和希さん、よく決断してくださいました。理事長もお喜びです」
平本はにこやかな笑みを浮かべながら、黒いビジネスバッグからノートパソコンを取りだした。和希は座布団の横に置いてあったスマホの画面を操作した。平本は気づかない。
「まずは東京へ戻ってからの進路です。もちろん仕事はご紹介できるのですが、理事長としてはまず予備校に通っていただき、大学の医学部へ進学してもらうことが良いかと考えておりまして」
突然ふすまが開き、グレイのスーツをきた永松が入ってきた。「平本、久しぶりだな」
平本が「えっ」と声を出しながら振り向き、目を大きく見開く。「お前……なんでこんなところにいるんだ」
「ちょっと理由があってさ」
永松は粘るような笑み浮かべ、平本と和希たちの間に座った。
「いったいどういうことですか?」
平本は和希に不審の目を向けた。
「永松があんたにいろいろ聞きたいことがあるんだ。俺も興味があるから協力したのさ」
「永松とはもう契約解除した。もうこの件とは関わりない」
「そんなことは百も承知さ。俺は個人的にこの件に関心があってね、ちょっと調べさせてもらったんだ。そしたらいろいろ変な点が出て来てさ、あんたに聞いてみたくなったんだ」
「ふん」平本は鼻で笑う。「私が質問に答えると思っているのか」
「俺の話を聞けば、積極的に答えてくれるんじゃないの?」
怪訝な表情の平本を無視して、永松は電子タバコを取り出して、旨そうに一服吸った。
「いろいろネタはあるんだ」笑みを浮かべた永松の目に、いつの間にか冷ややかな光が宿っていた。「例えばさ、ここにいる和希が嵌められた件」
「俺が?」
唐突に話を振られて、今度は和希が怪訝な顔をする。
「あんた、スーパーの動画で炎上しただろ。あれ、平本が雇った探偵に指示して仕組んだのさ。お前に八田理事長を頼って欲しくてさ、収入を絶とうとしたんだ。焚きつけた奴らに金を掴ませてさ」
平本は腕を組み、永松を睨み付ける。「適当なことを言いやがって。本当なら証拠を出してみろ」
「生憎証拠はない。情報提供者も名前は出さないでくれって言われているんでね」
「じゃあしょうがない。和希様、こいつが言っていることは全部嘘ですからね」
それでも永松は冷ややかな笑みを絶やさない。
「今のは軽いジャブさ。あんた、叩けば息もできないくらい埃がバンバン出てくる人間だっていう自覚はあるか? 例えば横領の件」
平本の頬がピクリと痙攣する。「何を言っているんだ」
「あんたが経理課長時代、病院の金で買ったマンションに、愛人を住まわせていただろ。二人で行ったハワイ旅行も、誕生日に贈ったバーキンも病院の経費」
「でたらめなことを言うんじゃない。名誉毀損で訴えるぞ」
「そうなのか? 陽公会じゃあ有名な話だぞ。何であんな奴が病院に残っているんだと怒っている関係者がたくさんいるんだ」
「嘘だ……全部でたらめだ」
顔を真っ赤にして睨み付ける平本を、永松がだらしなく緩めた唇で笑っていた。
「百歩譲って今のが全部デマだとしよう。だが、現在進行形はどうだ」
永松はスマホを取り出して操作すると、画面を平本に向ける。
「お前……」
平本の顔がこわばり、赤い顔から一転して、蒼白に変わる。
「ほら、この人が平本さんの現在の愛人」
永松が画面を和希たちに向ける。そこにはグッチのショルダーバッグを手に提げた、二十代とおぼしき美しい女性が映し出されていた。
「今の彼女さんは前の人より若いし、金遣いも荒くないから、コスパはいいんじゃないの?」
睨み付ける平本の頬がピクピク小刻みに震えていた。
「ちなみにこのスマホを壊したって無駄だぜ。俺のクラウドストレージには、もうちょっと生々しい画像も入っているんだ。沖縄へ行ったからって、はしゃぎ過ぎるのはよくないよ。外でキスするのは止めた方がいい。あの画像を見たら、あんたの気の強い奥さんはどんな反応をするかな」
「俺の家庭を壊す気か」
「それはあんた次第。俺の質問に答えてくれれば、画像はクラウドに眠ったままさ」
「いったい……何を知りたいんだ」
「これさ」永松はスマホを操作して、和希の戸籍謄本を見せた。「鹿児島の住所には三十年間誰も住んでいない。つまり、和希とその家族は別の場所で生活してきたんだ。お前、事情を知っているだろ」
平本は画像をのぞき込む。一瞬眉毛がピクリと動いたが、表情を消して永松を見た。「知らないな」
「お前が知らないはずないだろ。八田理事長が和希の後見人になるに当たって、徹底的に和希の身辺を調べているはずだ」
「もし、理事長の指示があればそうしていたね。でも、それはなかった。必要書類をそろえたのはすべて理事長ですよ。当時、突然和希さんを紹介されて、正直びっくりしたんだ。今までほとんど会ったこともない、いとこの子供だって言うし」
平本はじろりと和希を見た。もはや慇懃な態度はかなぐり捨てていた。
「もちろんこの戸籍謄本は私も見ています。でも、そのまま弁護士に渡しただけですよ」
「理事長が和希の後見人になった経緯は知らないのか」
「和希さんの方が知っているんじゃないですか。当事者なんだし。私はあくまでも弁護士に依頼をしただけですから」
永松が和希を見る。「どうなんだ」
和希は八田理事長と初めて会った日を思い出す。
目覚めた場所は確か病院だったと思う。白い壁に白い天井。清潔だが無機質な部屋のベッドで一人横たわっていた。体がいろんな管やコードと繋がっていた。目の端でドアが動くのを感じ、首を動かすと、ストライプが入った紺のスーツを着た八田が入ってきた。物を見るような酷薄な視線で見下ろしてきた。
――君が和希君だね――
――はい……――
和希はその時の状況を永松たちに話した。
「その前の状況は覚えているか? 両親が亡くなった時から病院に来るまでのことを」
和希は困惑しながら首を振った。「あんまりよく覚えていないんだ。葬式の時の記憶はあるけど、その前後とかもわからない。俺も不思議に思って医者に聞いたんだけど、ショックで記憶が飛んでいるんじゃないかって言ってた」
「それじゃあしょうがない、手詰まりだ。私は忙しいんで帰らせてもらいますよ」
平本が腰を上げかける。
「待てよ、まだ話は終わっちゃいない」
「なんですか」平本が警戒心を露わにした目付きで睨んだ。「金でもせびろうって言うじゃないだろうね」
「そうじゃない。まだ聞きたいことがあるんだ。理事長が和希の後見人になるにあたって、相談したした奴がいるだろ」
「さあ、私は知りませんね。和希さんの件に関しては、理事長からの指示しかなかったし」
「あんた理事長の秘書だろ。それらしき人物が面会に来たことぐらい、知っているんじゃないのか」
「全然記憶がありませんねえ」
永松が黙ってスマホの画面を平田に向けた。平本が怯む。
「正直に話してくれれば波風は立たない。家庭は円満、若い彼女とも付き合っていける」
「でも、和希さんと同じで記憶にないんですからしょうがないですよ」
「和希は嘘をつく理由がない。対してお前は組織の情報をなるべく出したくない。それに四年前とはいえ、妙な依頼を受けた前後の状況をそうそう忘れる訳がない」
平本は押し黙っていたが、永松の冷ややかな視線に耐えかねたのか、大きくため息をつくいた。
「あの当時、佐山という男が頻繁に理事長の下へ訪れていましたよ」
「その佐山っていう男のプロフィールを教えてくれ」
「私は取り次いでいるだけですから、佐山の素性まで知りませんよ」
「その理論だと、理事長個人がいいと言えば、反社でも詐欺師でも会い放題だぞ。全国に系列病院が四十三もある巨大組織のガバナンスはその程度なんだな」
平本はすねるような目つきで永松を睨む。
「どうなんだ」
「面会記録に所属と電話番号が載っている。ただし自己申告だし、調査もネットで所属の組織が存在しているか確認するだけだ」
「いいだろう、戻ったら俺に教えてくれ」
「わかったよ」
平本が立ち上がる。
「和希さん、一応聞くけど、東京へ戻るというのは嘘っぱちだね」
「残念だけど、その通り」
平本は肩を落として背中を向け、黙って部屋を出ていった。
「それじゃあ俺は自分の部屋で時間を潰しておくから先に出て行ってくれ」
そう言って永松も出ていった。和希と結香は会計を済ませて店の外へ出た。太陽はオレンジ色に変わり、日差しは若干弱くなっていた。それでもむせかえるように熱く湿った空気は辺りに充満していた。
「しかしいったいどうなっているんだ。よくわからなくなってきたよ」
結香を見ると、深刻そうに顔をうつむかせていた。
「どうした? そういえば、さっきからずっと黙っていたけど」
「ねえ」結香が眉間へ皺を寄せながら和希を見る。「さっき、昔の記憶が出てこないって言ったでしょ」
「ああ。それがどうかしたか?」
「あたしもなのよ」結香の声がわずかに震えていた。「昔の記憶が途切れ途切れにしか出てこないの」




