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2‐5

             2‐5

「グオォォォッ」

 室内に、熊の叫びが響く。

 幸い和希たちがいる場所はドアに近い。しかし後ろを向いた途端襲われるかもしれない。和希は結香の腕を掴み、じりじりと機材の後ろに回り込む。熊の姿が隠れた。

「逃げよう」

 叫び、ドアへ走り出した。

「グオォォォッ」

 熊が機材を押し倒し、乗り越えてくる。

 最初にドアへたどり着いたのは吉田だ。しかし、慌てているのかドアが開かない。

「ヤバいヤバい」

 つんのめるようにして立ち止まった和希の背中に結香がぶつかる。衝撃を受け、前に突き飛ばされた。玉突きで吉田の背中にぶつかる。

 吉田がドアと和希に挟まれた。

「フガァッ」

 次の瞬間、ドアが開き、吉田と和希は押し倒されるように廊下へ出た。続いて結香と島名も廊下へ出た。

「ドアは引くんじゃなくて、押すんでしたね」

 吉田の声を上の空で聞きながら、部屋の中を見た。熊は機材の横で倒れて、足をバタバタと動かしていた。

「熊に変わったばかりだから、まだ体の感覚が掴めていないんじゃないか」

「命拾いしましたね」

 熊が体を反転し、四つの脚で立ち上がった。和希と目が合う。

「グオォォォッ」

 雄叫びを上げ、ドアへ殺到する。

 とっさにドアを閉めて後ずさった。

 ガンッと音がして、スチールドアが段ボール紙のように簡単にくの字へ折れ曲がり、廊下へ吹き飛んだ。

 熊はドア枠に引っかかり、首だけ廊下へ突き出しながら「グオォォォッ」と雄叫びを上げた。

「逃げろっ」

 和希が結香の腕を掴んで走り出す。エレベーターを待っている時間が惜しいので、廊下を降りた。慌ててつんのめりそうになるのを、手すりを掴んでどうにか止めながら下へ降り、道路へ出た。荒い息で出口を見ていると、吉田と島名も遅れて出てきた。

「全員無事ですね。よかった。ここも危険かも知れませんから、取りあえず広い通りへ逃げましょう」

 四人は白山通りへ出た。とりわけ荒い息をしている島名がしゃがみ込み、ガードレールにもたれ掛かった。

「すまないね、年のせいでちょっと息切れが激しいんだよ」

 吉田は携帯電話を取りだして警察へ電話をしはじめた。

「ええ。熊が出たんですよ。場所は神田神保町のクサカベビル三階の島名DNA鑑定所です。えっ……。いやいや嘘じゃないですよ。僕たちはちゃんと見たんですから。もしかしたらビルから出てきて人を襲うかも知れないんです」

「あの熊、ドアを抜けられるかしら」

「体の向きを変えれば出られるだろう。あるいはネズミに戻ればどこへでも行けるし」

「そうよねえ」

 和希たちが出てきた道から悲鳴が上がった。二人の男女が転がるように走り出てきた。男が足をもつれさせて転倒した。

 大量のネズミが走り出てきて、男の横を通り過ぎていく。和希たちに向かってきた。

 歩道一杯に広がり、悲鳴を上げる人々の横をすり抜けていく。

「ヤバいぞっ、島名さん、逃げましょう」

「私はだめだ。君たちだけで逃げてくれ」

「そんなこと言わないでください。さあ」

 吉田が島名の腕を掴んで引き上げる。そうしている間にネズミは和希たちの前にたどり着き、どんどんと巨大な塊となっていく。

 二度目のせいか、ビルの中より巨大化するペースは遙かに速かった。たちまち手足と頭が形作られていく。

 島名がどうにか立ち上がり、走り出そうとしたとき、既にネズミの尻尾が消えようとしていた。

「道路を渡りましょう」

 車道に出て、クラクションを鳴らされながらも通り過ぎる車を躱し、反対側にたどり着いた。振り返ると、熊が軽々とガードレールを乗り越え、車道に出てくるところだった。

 クラクションが鳴り、急ブレーキでタイヤを鳴らしながらセダンが熊に衝突した。

「やった」

 激しい音を立てて、熊が倒れた。

 ぶつかったドライバーには申し訳なかったが、和希はこれを狙っていた。

 熊は横に倒れ、セダンのボンネットは半分ひしゃげて前輪もねじ曲がっていた。運転席から呆然とした顔をした中年男性が出てきて熊をのぞき込んだ。

「ひゃぁぁぁ」

 男性が情けない悲鳴を上げ、足をもつれさせるようにして逃げ出した。

 熊の首が動き、むっくりと起き上がった。

「グオッ、グオッ、グオォォォォォッ」

 乳白色の牙をむき出しにして二本足で立ち上がり、街中に鳴り響くような雄叫びを上げた。

 目が合う。怒りで大きく見開かれた目。

 熊が前脚を突いて、和希へ向かって走り出した。

 対向車線を走ってきた軽のミニバンが前を横切ろうとした。熊は側面に衝突し、ミニバンははじけ飛ぶようにして横倒しになった。

 熊がミニバンを乗り越え、こちらへ向かってくる。

「ヤバいヤバい」

 和希は結香の手を握って走り出した。吉田と島名も後に続いた。

 熊がガードレールを乗り越え、歩道に侵入してきた。和希との距離は三十メートルほど。

 熊が和希たちを見据え、猛然と走り出す。

 島名が転倒し道路に倒れた。

 熊が島名を押し潰そうとするかのような勢いで駆けよろうとしたとき、

「グオァォォォォッ」

 熊が立ち上がり、のけぞらせながら苦しげな叫びを上げた。反転し、和希たちに背を向ける。

「グオッッ、グオッッ」

 怒りの雄叫びを上げながら、何かに向かって右手を振り下ろした。

「グァァァッ……」

 苦悶の鳴き声を上げたとき、何かが熊の巨体を軽々と飛び越え、背後に着地した。

 嶋本だ。

 手には銀色に鈍く光る刀を持っている。刀身は一メートルほど、日本刀のように湾曲している。鍔はなく、柄も銀色で刀身と一体になっている。

 嶋本は自身より遙かに巨大な熊に対して仁王立ちとなり、刀を上段に構えている。

 熊が全身から殺気を発散させながら振り向いた。両腕を振り上げたが、右腕だけ妙に短くアンバランスだ。何が違うかすぐにわかった。右手がなく、手首から真っ赤な血が溢れ出て、焦げ茶の毛を濡らしていた。

 熊が嶋本に向かって左手を振り下ろす。

 嶋本が飛び上がりながら、刀を振り下ろした。

「グアオォォォッ」

 熊の顔が苦悶に歪む。

 左腕の肘から先が、一太刀で切断された。

 それでも熊は嶋本に向かって一歩踏み出した。

 腰を沈め、バネを使って勢いよく跳び上がった。

 自身の身長を軽々と超え、ビルの二階に手が届く高さだ。

 嶋本の頭上に落ちてくる。

 嶋本が飛びすさる。

 歩道のタイルを跳ね飛ばしながら、熊が着地した。

 間髪入れず、嶋本が刀を横に払う。

 刃先が首に食い込む。

「死ねえっっ」

 嶋本が腰を落とし、渾身の力を込めて、刃を引こうとした。

 熊の腕が伸び、嶋本を手首だけで払った。嶋本はゴムボールのように跳ね飛び、街路樹へ衝突した。

 ドスッという鈍い音共に、木が撓みながら葉を揺らす。嶋本の体が根元に落ちた。

 首に刃が刺さったまま、熊は和希を見据えた。その目は冷ややかだが、体全体から、殺気が立ち上っているような熱を感じる。

 熊が動き出す。

 和希は逃げようとしたが、風圧のように襲う殺気に圧倒されて、脚をもつれさせた。

 食われる。

 そう思った瞬間、目の隅で何かが動いた。

 嶋本だ。

 嶋本が立っている。

 木に投げつけられてまだ立てるなんて、あり得ない。一般人なら、軽くても骨の何本か折れているはずだ。

 嶋本は額から大量の血を流しながらも、熊の前に立ちはだかる。

 熊が再び手首だけで嶋本をなぎ払おうとした。

 手首が嶋本に触れようとした刹那、嶋本は腰を落とし、熊を躱した。

 手首が宙を切る中、嶋本は熊の胸元に飛び込み、首に刺さった刀の柄を掴む。

 間合いが近く、熊は嶋本を振り払えない。

 柄を逆手に持ち、刃を首の奥へ押し込もうとする。

 熊が刀を握る嶋本の手を両手首の傷口で挟み込んだ。

 熊が腕を捻った瞬間、ゴキッと音がして、嶋本の手が奇妙な咆哮へねじ曲がる。

「ウァァッッッ」

 苦しげに顔を歪める嶋本を引き寄せ、熊が口を開いて乳白色の凶暴な牙を近づけてくる。

 嶋本の足が浮き上がった瞬間、彼女の体が左右に振れた。振れが激しくなり、熊の腕から嶋本がすっぽりと抜け落ちた。

 手は付いていたが、ぶら下がるように不自然に垂れ下がっていた。刃は熊に突き刺さったままだ。

 嶋本は荒い息をしながらも、熊を睨み付けていた。熊も嶋本を見下ろしながら睨み付けている。刀の柄を伝って、大量の血が流れ落ちていた。

 遠くからパトカーのサイレンが響いてきた。

「残念だ。あと一息だったが」

 突然嶋本が走り出し、和希の横をすり抜けていく。和希はその後ろ姿を呆気にとられて見つめるしかなかった。

 振り返ると、熊の口吻が縮まり始めていた。やがて顔そのものが毛の中に埋まり、ネズミの尻尾が全身に生え始めた。バラバラと体が崩れていくようにしてネズミが次々と飛びだし、側溝や店の中へ消えていく。首に刺さった刀が歩道に落ちた。壊滅は加速度的に強まり、十秒もすると、熊もネズミも消えていた。残されたのは、歩道に広がった生臭い匂いを漂わせる鮮血と、血に汚れた合間から無機質な輝きを放つ刀だけだった。

 数分後、道はおびただしい数の警察車両で溢れかえっていた。規制線が張られ、和希たちはパトカーの中で事情聴取を受けた。すべて事実を話したが、想像していたとおり、警察官は和希の話を信じようとしなかった。しかし、他の目撃者の話や、防犯カメラの映像で、都心に熊が出現して、中年女性とバトルを繰り広げたと認めざるを得なくなった。

 解放されたのは午後六時。和希たち四人は神田警察署から出てきた。島名は、破壊された事務所を確認すると言ってビルへ戻っていった。

「駅前銀座とマンションに熊が突然現れて、消えた理由がわかったな」

 和希か呟く。

「ネズミから熊になるなんて、一体どういうことなのよ?」

「個体同士がくっついて、新たな個体を作るなんて初めて見ましたよ。恐らく細胞と細胞が幹細胞レベルまで変化して、結合したのだと思います。これもエピゲノムが関わっている可能性が高いと思います」

「つまり、俺達の変化と関わりがあるのか」

「そう考えるのが自然かと」

「そりゃそうと」結香がしゃがみ込む「あたし、疲れちゃったわ。歩くのも億劫」

「さて、どうしましょうか」

「どうするって」和希と結香は困ったように顔を見合わせた。清水へ戻るとしても、電車賃はバカにならない。「どうしたらいいんだろう」

「取りあえず、僕の家に泊まったらどうですか」

「えっ?」結香が不安げに和希を見た。

「安心してください」吉田が朗らかに笑う。「僕、親と同居していますんで。家も広いですから、二部屋使えますし」

 ニコニコ微笑む吉田に、和希と結香は再び顔を見合わせた。


 福田はソースが染みこんで水気が多くなっている棒々鶏を、半ば気が抜けたビールと一緒に流し込んだ。

「福田さん、さあ、どうぞ」

 斜め向かいにいた河田が空になった紙コップをめざとく見つけ、缶ビールを差し出した。

「いえ、僕はもうお腹いっぱいですんで」

「それなら焼酎ですか、ウイスキーのロックもありますが」

「ありがとうございます。でももう年のせいか、あんまり飲むと翌日に残りますんで。ウーロン茶をいただけますか」

「それは失礼しました」河田はニコニコ微笑みながら、ペットボトルのウーロン茶を手に取り、新しい紙コップに注いで福田に渡す。

「ありがとうございます」

 一口飲んで、小さく息を吐いた。河田はとある機械メーカーで営業職をしていた。藤が丘シティに転居してきた当初は夫婦二人暮らしだったが、程なく妻の姿が見えなくなった。当人の話によると、河田は部下の女性と不倫関係になり、妻が出て行ったということだった。優秀な営業マンで、将来取締役という話も出ていたらしいが、妻が会社へ乗り込んで一悶着あったこともあり、すっかり評価を落としてしまったらしい。周囲からちやほやされて調子に乗った挙げ句、俺なら大丈夫と道を外して足元を掬われる。ありがちなパターンだった。

「あの……これはよろしいですか」

 少し震えるような声が背後から聞こえてきた。振り向くと、榎本の妻、佐喜子が表情の乏しい顔をして福田を見ていた。一体この人は何を言いたいんだと思っていると、細くてシミが所々浮き出た腕を伸ばし、テーブルに残った棒々鶏を指差した。

「これ、よろしいでしょうか」

「ああ、どうぞどうぞ。気がつきませんで申し訳ありません」

「失礼します」

 妙に間延びした声だった。背中を丸めながら、福田の横に入ってくると、箸を伸ばし、すっかり水分を含んだ棒々鶏の残りを取り皿でなく、タッパーに詰めていく。時刻は九時を過ぎていた。そろそろお開きになる頃で、料理に手を付ける人はもうほとんどいない。それでも、宴会が終わっていないうちからタッパーに詰めるというのは違うんじゃないかと思う。文句を言いたくなるが、気まずい思いをするのが嫌で押さえた。

 向かいでは夫の武雄が穏やかな浮かべて、この持ち主で貝の主催者である佐山に何か小声で話しかけていた。左手には妻と同じくタッパーを持っていて、右手に持った箸でソーセージをつまんで中へ詰めていた。この夫婦は食べ残しを翌日食べるんだろう。意地汚いのもさることながら、衛生面でも問題があるんじゃないのか? まあいいか。人が腹を壊そうがどうだっていいことだ。それにあの夫婦、なにかと大変らしいし。口元に半笑いが浮かびそうになったので、慌てて目を逸らした。

「それでは九時を回りましたので、宴たけなわですが、これで中締めとさせていただきます」

 佐山がよく通る声で発言し、参加者からパラパラと拍手が上がる。福田は料理が載っていた目の前の大皿を持ち上げ、台所へ持って行った。既に佐山は流しへ移動して食器を洗い始めていた。

「いつもご苦労様です」

「いえいえ、私も時間だけはたっぷりありますから、この会がないと日々の生活に張りがなくなってしまうんですよ。食材のお代は皆さんからいただいておりますんで、金銭的な負担はありませんから」

 佐山は朗らかな笑顔を浮かべた。月に一回、事件前から住んでいる藤が丘シティの住人で構成される「藤の会」という食事会が開催されていた。主催者は佐山彰一で、佐山の自宅で行われていた。現在事件前からの住人は十戸、十五人が住んでいたが「藤の会」へ毎回参加するのは主催者を除いて六名ほどだった。福田も常連の一人だ。佐山は福田や河田と違って、入居当初から単身だった。当人によると、何年か前に妻を亡くし、それ以来独り者だという。それなのにこんな広い家を購入したのは、将来息子夫婦と同居するためだった。ところが事件で息子夫婦が同居に難色を示したそうで、ずっと独りで住んでいる。

「転居も考えたんですけどねえ。六十過ぎて環境を変えるのも億劫ですし」

 前に話したとき、そう言って笑った。もっとも福田は、自分と同じように、転居するにも金がないんだろうと睨んでいた。

 食器を流しへ運び終えた。飲みかけのペットボトルの飲み物は、例によって榎本夫妻が持っている。前に飲みかけのウイスキーと焼酎まで持って帰ろうとしたが、さすがにこれはボトルキープ用ですからと、佐川にやんわり断られていた。参加者が帰ろうとすると、佐山が玄関まで来て見送ってくれた。

 酔いでほてった肌に、昼間よりひんやりした夜風が当たって心地よい。榎本夫妻が交差点で「それではおやすみなさい」と言って別れていった。福田と河田が一緒に歩く。

「榎本さん、まだ借金が二千万あるそうですよ」目に笑みを浮かべながら河田が口を開いた。「生きている間に支払い終えるなんて不可能でしょうね」

「大変ですねえ」

「今のところ月に十万払っているから家を取られないみたいですけど、あの人たちが働けなくなったらアウトですよ」

 榎本夫妻はほぼフルタイムでこの近くにあるスーパーで働いていた。時給が多少いいらしく、土日は必ず出ているようで、姿を見かけるのは平日だけだ。

「悠々自適な生活を送るはずだったのに、株の信用買いに手を出して大やけどした挙げ句、事件で不動産も担保割れ。あの人たちもつくづく運がないですよ。その点、我々はまだましかも知れません」

 福田は曖昧に頷く。

「お互い独身同士。気楽に行きましょう。それではおやすみなさい」

 河田は手を振って闇の中へ消えていくと、福田はフンと鼻を鳴らした。あの男は私を嫁から逃げられた仲間のように思っているらしいが、一緒にしないでもらいたいと思う。あいつは自分の愚かさで妻が去って行ったが、私は違う。

 世間知らずで、いつも配慮が足りない女だった。愚にも付かないカルチャースクールへ通うのは黙認した。しかし、決定的だったのは、息子がいつの間にか勤めていた銀行を退職して、ミュージシャンになったときだった。妻はずっとその事実を知っていて私に隠していた。

「だってお父さん、その話を知ったら怒るでしょ」

 当たり前だ。

 誰もが羨むメガバンクの行員という立場を捨て、ヤクザな稼業に自ら落ちるなんてあり得ない。多額の教育費を捻出して、一流大学を卒業させた俺の立場はどうなるんだ。息子がチャラチャラした服を着て、にやけているCDを渡されたときは目眩がした。あれを踏み潰したことは今でも後悔していない。

 怒りに震えた息子の目。以来、一度も口をきいていない。息子をあんな風にしてしまったのは全部あの女のせいだ。そう思うと、再び怒りが沸き起こってくる。私の見る目がなかったと言えばそれまでだが、あいつと過ごした二十六年の歳月が無駄だったと考えると、あまりに虚しい。しかもDVがあったなどと言って、高額の慰謝料を請求しやがって。確かに何度か頬を張ったことはある。しかしあんなもの、暴力のうちに入りやしない。

 怒りが堆積した泥のようになり、腹の底へ沈んでいく気がして足取りが重くなる。立ち止まり、大きく深呼吸をして気持ちを整えた。

 いけない、すべて過ぎたことじゃないか。あの女のことを考えるのは止めにしよう。また眠れなくなる。再び歩き出し、自宅へたどり着いた。玄関ドアの前に立ちと、ピピッと音が鳴り、顔認証でドアが開く。中へ入るとセンサーが反応して、明かりが点灯した。リビングへ入ると廊下の照明が消灯し、代わりにリビングのLEDライトが点灯する。ソファに体を預け、ほっと息を吐く。

――徹男さん、お帰りなさいませ――若い女性の合成音が響いた。――会合はいかがでしたか――

「面倒くさい奴が多くて疲れたよ」

――それは大変でしたね。お風呂の湯張りをいたしましょうか――

「ああ。頼むよ」

 奥の部屋から、カチャリと機械が動く音がした。

――テレビは点けた方がよろしいでしょうか――

「今はどんな番組を放送しているんだ?」

――『世界で一番美しい彼女』『白昼夢』『アゴキングのお悩みスッキリ――

「ちょっと待て、『ニュース・テンポイント』は放送していないのか」

――放送しております――

「だったら先に言えよ。俺がドラマやバラエティなんか見ないのは知っているだろ」

――はい、申し訳ありません。それでは『ニュース・テンポイント』にチャンネルを合わせてテレビをおつけします――

「ああ」

 福田は不機嫌に頷き、テレビのスイッチが入った。先日地震で土砂崩れが起きた山が映し出された。無意識のうちに苛立ちが口を突いて出てきた。

「なんでお前はこうもバカなんだ。ウィステリアはもっと堅かったぞ」

――それは仕様による問題です。ウイステリアは福田様の表情や体温、脳波等、言語以外の要素を情報として取り込み、福田様の無意識なレベルまで想定しながらご奉仕できたからです――

「だとしても、俺のテレビの好みぐらい覚えていたらどうだ」

――もちろん福田様の好みは承知しております。しかし福田様はその時の気分により、求めている情報が大きく異なる傾向がございます――

「わかった。もいいからテレビに集中させろ」

――失礼しました――

 福田は憮然とした表情で、テレビを睨めつけながら、改めてウイステリアが優秀だったことを痛感した。今、福田とやりとりしているAIは、某大手IT大手が開発したものをネット経由で使用している。ウイステリアはフィーチャーファンドがこの町の管理から撤退したので、復活することはない。

 ウイステリアをここの住人で買い取って復活できないだろうか? 幸い設備はまだ解体していないし。そんな考えがふと頭に浮かんだが、すぐに首を振る。どだい無理な話だった。まず住人の中にAIを管理運営できるものなど一人もいないし、AIを中心としたこの街のシステムには、およそ一兆円の開発費がかかっているのだ。とてもこの住人に負担できるレベルではない。無論当時入居していた百五十人弱の人々が使っても、開発費分を回収できるはずがない。フィーチャーファンドはここ藤が丘シティをモデルとして、全世界に同様の街を造成する計画だった。そのための先行投資だったのだが、結局頓挫した。

 フィーチャーライフの狂った二人のおかげで。

 澤村と朝比奈。思い出すたびに怒りが沸き起こってくる。俺の人生を台無しにした第一の戦犯が元妻だとしたら、あいつらは第二の戦犯だ。フィーチャーライフのなかでもとりわけ誠実で受けのよかった二人。それが日本の犯罪史上まれに見る大量殺人を行ったなんて。いったいどうしてあんなことをしでかしたんだ。

 パンという破裂音と悲鳴。最初は誰かが爆竹でも鳴らしたのかと思った。しかしタワー付近にいた人々から「銃だ」「殺される」といった声が聞こえ、血走った目で走り去っていくのを見て危険を感じ、半信半疑ながらもその場から離れたのが幸いだった。直後、福田がいた場所はパニックを起こした人々が押し寄せ、将棋倒しになったのだ。動けなくなった人々を、奴らは冷酷に撃ち殺した。

 澤村と朝比奈は藤が丘シティの、言わば住み込み管理人だった。もっとも、一般のマンションのように、定年退職した老人が低賃金で雑務をこなすといった業務ではない。彼らの業務は、ウイステリアを中心としたこの町のシステムの維持管理だった。不具合が起これば本部と連絡を取りながら、バグを見つけ出して修正し、住人のニーズをくみ取りながら、アップデートにも関与していた。街の外れではあったが、福田たちと同じ家に家族とともに住んでいたし、恐らく現役時代の福田より、高い給与を受け取っていただろう。

――湯張りが終了しました――

 合成音が聞こえて我に返る。立ち上がり、タンスの引き出しを開けたが、下着は入っていなかった。

――着替えなら、おととい乾燥機から出したものが洗面所のカゴに入ったままになっています――

「わかってるよ、いちいちうるさい」

――失礼しました――

 怒気を含んだ声に、AIは冷静に答える。福田は大きくため息をついた。


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