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海老名ジャンクションへさしかかった途端、車の流れが悪くなった。そのまま東京までのろのろ運転で進み、都内へ入ったのは昼近くだった。助手席に座っていた和希は振り返って結香を見た。彼女は後部座席でドアにもたれ掛かり、疲れた顔で外を見ている。
「大丈夫か」
結香はチラリと和希を見て、無言で頷いた。
「もうすぐ着きますからね」
アルトを運転している吉田が快活な声で言った。車内にかかっていた曲が変わり、ダンスビートに乗ったKEIKOの伸びやかなボーカルが響き出した。
「やっぱりグローブ最高ですよ。再結成しないんでしょうかねえ」
「はあ」
和希は気のない返事をした。吉田は小室サウンドのファンらしく、清水から出たときからずっとこの手の曲をかけ続けていた。
東名高速を降りてうどん店で昼食を食べた。結香はまだ食べたくないと言ったが、栄養は取った方がいいと和希が主張して、ようやく素うどんを一杯食べた。すると食欲に火が付いたのか、もう一杯食べたいと言い出した。結局五杯のうどんを平らげた。再びアルトに乗って、首都高に乗った。西神田で降り、神田神保町へ入った。コインパーキングに車を止める。
「行きましょう」
白山通りを横切り、路地に入っていくと、五階建ての古ぼけた雑居ビルの前で止まった。
「この三階に事務所があります」
エレベータに乗って三階まで行くと、廊下を歩き右にあるドアをノックした。ドアには「株式会社島名DNA鑑定所」という看板が取り付けられていた。
「こんにちはー」
ドアを開けて中へ入る。消毒剤の匂いがする中、机の上にパソコンや機械がいくつも置いてあった。機材も多く、フロアも小学校の教室ほどあったが、部屋にいるのは白髪の老人一人だった。老人は奥にある机で、背を向けてキーボードを叩いていたが、振り向くと吉田に穏やかな笑顔を見せた。眼鏡を掛けた痩せた男で、白のYシャツにグレイのスラックスを穿いている。吉田が見せた集合写真の中央に座っていた人物だ。
「島名先生、急にお電話して申し訳ありません」
吉田はぺこりと頭を下げた。
「大丈夫。このところ暇なんでね」老人は立ち上がり、和希たちまで歩いてきた。「申し訳ないが、ここは応接室なんてしゃれたものがないんで。適当に座ってくれ」
「はい」
吉田が机から椅子を引っ張ってきて和希と結香を座らせた。老人も椅子に座った。
「こちらは島名正孝さん。元東都大学生物学部教授で、僕の指導教授だった方です」
吉田はこれまでの経緯を話した。
「それで、大浜さんのお父さんを殺害した女性が、中原さんにそっくりだということなんですね」
吉田はスマホから、ニュースで報道された防犯カメラの画像を見せた。
「ほう」島名は目を見張った。「確かに中原さんそっくりですねえ」
「その女性が川でシャチに襲われる前、藤が丘事件の話をしたそうです」
「小田川君ですか。彼が何らかの形で関わっていると思っているのですね」
「はい」
「あの……小田川ってどんな人なんですか」
結香の問いかけに、吉田はスマホの画面を切り替えた。お好み焼き屋での集合写真が再び表示された。
「島名先生の左に写っている人が小田川翔吾君です」
今よりも生き生きとして、白髪もあまり目立っていない島名が映っている。その隣で、精力的な笑顔を見せている若い男がいた。
「彼が小田川君。後に藤が丘シティの最高管理責任者を勤める人物です」
「その小田川っていう人、吉田さんたちと一緒にいたんだから、生物学者なんでしょ。どうしてそんな住宅地の管理人になったの?」
「藤が丘シティの概要はご存じですか」
和希と結香は首を振った。「知らないわ」
「それではご説明しましょう」
「画像がある方がわかりやすいでしょう」
島名がパソコンを操作し、ネットを立ち上げた。「藤が丘シティ」で検索すると、項目がずらずらと並ぶ。島名が席を退くと吉田が座ってホームページを選んだ。
「公式ページがあるといいんですが、もう閉鎖されてしまっているんで」
吉田が選んだページは個人のブログだった。白を基調とした、きれいな住宅が建ち並ぶ画像が映し出されていた。「マニアによる藤が丘シティ紹介ブログ」という表題になっている。
概要
二千XX年、山梨県D市藤が丘の旧原川電気工業工場跡地に造成された新興住宅地に藤が丘シティは造成された。出資したのはニューヨークに本部がある、世界的な投資ファンドのフィーチャーファンドで、六十棟の住宅が建設された。藤が丘シティの最大の特徴は、中央広場地下に設置されているGPUスーパーコンピューター「凌駕」とAI「ウイステリア」だ。AIは藤が丘シティの住宅すべてと繋がっていた。藤が丘シティでは住民の体温や呼吸、表情をAIによって分析していた。その結果はウイステリア公式アカウントから、日々の体調管理情報として送られてくるので、住民はこれを元に自身の健康状態を把握できる。また、ウイステリアは各住民の趣味、性格、好きな音楽やファッション等、様々な情報をファイリングしている。そうした情報を元にして、好きなバンドの新曲や、好みの服や気になっていた家電のバーゲンといった情報を住民へ伝えることができた。無論ネット広告のように特定のスポンサーはいないので、住民が本当に欲しいと思う者や情報を届けてくれ、大変好評だ。
小田川翔吾 プロフィール
国内外の大学で学び、情報工学、遺伝子工学、医学、建築学の博士号を取得。その後大手デベロッパーへ就職後、スマートシティ建設に携わる。
独立し株式会社ビオシスハーモニーを立ち上げる。
フィーチャーファンドと業務提携し、山梨県D市で「藤が丘シティ」の建設を発表。
ブログには様々な藤が丘シティの画像が掲載されていた。白く清潔な家が建ち並び、CMにでも出て来そうなスマートで端正な顔立ちの若い家族が写っていた。吉田が話し出す。
「小田川君は二十一世紀のレオナルド・ダ・ヴィンチと呼ばれていて、ホームページに出ているとおり、四つの博士号を取得しているんです。しかも博士論文の内容が革新的で、各学会で高く評価されています。僕が見せた画像は、彼が東都大学大学院の島名研究室に在籍していた頃に取ったものです。彼がこれからどんな道に進むのか私たちの間でも話題だったんですが、大俵建設へ就職したのは意外でした。でも、それは藤が丘シティを建設するための布石だったんですね。彼はそこで建築についての実務を学び、同時に人脈も作っていきました。それで独立後、藤が丘シティの企画を立ち上げたのです」
「小田川と藤が丘シティの関係はわかりましたけど、それに中原さんがどう関わっているんですか。そもそも、中原さんは亡くなっているんですよね」
「そうなんです。中原さんについて、考えられるとすると」
吉田は深刻な表情で島名を見た。島名が頷く。
「昨日病院に現れた中原さんは、クローンである可能性が高い」
「クローンて……SFとかで出てくる人を複製したものなんだろ。そんなことが実際に出来るのか」
「技術的には充分可能です。実際、動物では何頭も作成されていますし。ただ、倫理的な問題もあり、人間では誰も実験を行っていません」
「それを小田川が中原さんのDNAを使って行ったということなのか」
「その可能性が高いと思います」
「問題はそれだけじゃなありのせん」島名が発言した。「クローンを作るには、まず中原さんの体細胞を培養した上で、卵子に核を移植してさらにそれを母胎へ移植します。これ以降は基本的に人間が自然分娩して子供が生まれ、成人する過程と変わらないのですよ。つまり、防犯カメラの女性の年齢に達するまで、数十年かかる計算です」
「だとすると、中原さんのクローンなんて無理じゃん。中原さんとよく似た体型の人に整形して中原さんと同じ顔にしたとか」
「だけど、中原さんに似た人は一回シャチに食われているんですよね。何人も整形なんてできやしませんよ」
「そうだよな」
「もし、短期間に成人女性の体を作るとしたら、成長を促す遺伝子を制御しているエピジェネティックなメカニズムを改変させるしかないでしょう」
「それって、俺達の体とも関わってくるのか?」
「おそらくは。嶋本さんの驚異的な運動能力も、遺伝子を改変した結果でしょう」
「でも、そんな事が可能なんでしょうか。クローンはともかく、遺伝子を狙ったとおりに改変するなんて、簡単にで出来ることじゃありません」
「小田川君だったらどうだね、彼ならやるかもしれない」
吉田が腕を組み、神妙な顔で頷く。「確かに可能性はあります」
「小田川君は天才だ。十年、いやそれ以上先のレベルで思考する男だ。既にそんな技術を手に入れていたとしても私は驚かない」
「小田川さんはどこにいるの? その人がお兄ちゃんの行方を知っているんじゃないの」
「それが」吉田は顔を曇らせた。「小田川君は行方不明なんですよ」
「どうして? 事件を起こした責任を感じたからなの」
「直接話を聞けないので、なんとも言えません。ただ、彼が失跡したのは事件の半年前なんです。事件を察知して、あらかじめ責任から逃れるため逃げたのかも知れません。でも、それなら私はまず警察に相談します」
「ですよねえ」
「通報すると何か自分にとって都合の悪いことが発覚する恐れがあったのか。あるいは事件とは全く関係ないのか。警察も含めて様々な人が推理していますが、決定的な答えは出ていません」
「当然行方は警察も捜しているんだよね」
「はい」
「そうなんだ。じゃあ、あたしたちが探したって、そう簡単に見つかるわけないわよねえ」
コンコンと、何を叩く音が聞こえてきた。
「あ……」
吉田がぽかんと口を開け、和希の背後を指差した。振り向くと窓があり、外で黒い鳥がホバリングをしながらくちばしで窓を叩いていた。清水で出会ったあの鳥だ。
「お前、どうしてそんなところにいるんだ」
和希は立ち上がり、窓を開けた。湿り気を帯びた風が入り込んできたが、鳥は侵入してこなかった。
「おい、俺たちに用があるんじゃないのか」
そのうち、鳥は反転して下へ向かって飛び去ってしまった。和希は身を乗り出して辺りを見回したが、既に鳥の姿は見えなくなっていた。
「あいつ、なんなんだよ」
和希は窓を閉め、元いた場所へ戻ろうとした時だ。
目の前を焦げ茶色の塊が通り過ぎた。一瞬、何かわからなかったが、すぐにそれがネズミだと気づいた。
天井にある通風パネルが、ガタガタ音を立て始めた。
通風パネルが外れ、音を立てて床に落ちた。続いて、焦げ茶色の塊が、土砂のように通風口からこぼれ落ち始めた。
すべてネズミだ。
「なによこれ、気持ち悪い」
結香は思わず立ち上がり、後ずさりした拍子に椅子へ足を引っかけて転んだ。
「このビルでネズミなんて一度も見たことがないのに……どういうわけだ」
「俺たちを襲ってきた奴が仕向けてきたんじゃないのか? 危険だから逃げよう」
「島名先生、八田さんの言うとおりです。逃げましょう」
吉田が島名の腕を引っ張ったが、島名はネズミを凝視したまま動かない。
「吉田君、ネズミたちをよく見てみなさい」
「え?」吉田が眼鏡を直しながらネズミたちをまじまじと見た。既に四桁にも及びそうな大量のネズミが侵入し、折り重なって山となり始めた。強烈な獣臭が漂い、多数のチュウチュウという鳴き声が部屋に響いている。
「ああっ……なんてことですか」
吉田が叫び、島名の腕を放す。
「吉田さん、逃げようよ」
「ちょっとまってください。今、驚異的な事態が始まっているのですよ」
「なに?」
ネズミは頭を集団の中へ突っ込んでいた。灰色の長い尾尻がいくつも飛び出し、軟体動物のようにクネクネと動いている。やがてネズミは鳴くのを止め、一つの生物のように全体を揺らすように蠢きだした。
吉田かネズミの固まりに近づき、子細に観察し始めた。
「ネズミの境が消失して、一つに融合しています」
吉田の言うとおり、境目が毛に埋没し、個々の境がわからなくなっていた。
「何が起きているの?」
結香も気づき、唖然としてネズミの塊を見つめている。やがて、一体となっていることが誰の目にも明らかになった。
ネズミの塊は和希よりも二回り大きい。焦げ茶色の毛に覆われ、おびただしい数の尾尻を体全体から触手のように蠢かせている。その巨体が、前後左右に激しく動き始めた。
形が変わっていく。
下部から足らしきものができはじめ、左右から腕が伸び始めた。上部がくびれ、頭が形成されていく。頭から口吻が伸び、真っ赤な歯茎と乳白色の牙を持った口が形成され、黒い鼻が露わになる。短い耳が突き出し、太い手足から長いつめが伸びてくる。ネズミの尻尾が毛の中へ引っ込み、つぶらで真っ黒な目を開いた。
巨大な熊が現れた。




