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2‐3

              2‐3

「これ、自動車が突っ込んできた訳じゃ……ないですよねえ」

「ですから熊が現れて暴れたんですよ」

「熊ですか……駅前銀座にも現れたっていうし、信じないわけではないんですがねえ」

 Yシャツ姿の不動産屋がハンカチで額の汗を拭いながら、困惑した表情で、穴の空いた壁をのぞき込んでいる。隣ではマンションのオーナーである老人が腕を組み、いかめしい顔で和希たちを睨み付けていた。

「完全に元に戻るんだろうな」

「大丈夫だと思うんですが、もし構造に亀裂が入っていたらやっかいですねえ。それは業者に調べてもらわないとなんとも言えません」

「ともかく修繕費は全部あんたらで持ってもらうからな」

 老人は結香を見た。

「はい、わかりました」

 結香の体はすっかり元に戻っていた。顔に生えていた青い毛は落ち、足も普通にスニーカーを履いていた。ただ、顔はひどくやつれていた。

 翌日に修理業者が来て、状況を調べてくれることになった。取りあえずの処置で、ブルーシートをガムテープで貼って、不動産屋とオーナーは帰っていった。

「はあ……」

 オーナーたちが見えなくなると、結香はその場にしゃがみ込んだ。

「大丈夫か」

「うん、ちょっと疲れちゃった」

 熊が暴れたあと、警察が来て事情聴取と現場検証を行った。和希は嶋本が現れた後、熊が出て、鳥の足をした人間と戦った話をした。鳥人間が結香だったのを喋るのは危険な気がして黙っていたが、それ以外は事実を話した。駅前銀座に熊が出現したこともあり、警察もその話を嘘だとまでは言わなかった。しかし、明らかに半信半疑な様子だった。

 そんなこともあって、和希と結香は全く眠っていない。加えて結香に関しては、立っているのもつらいほど消耗していた。

「奥で横になっていろよ。俺は部屋の掃除をするから。取りあえず、あの熊の血をなんとかしなきゃ臭くて叶わないや」

「あたしも掃除するわ」

 結香は立ち上がったが、すぐにふらついた。

「バカ、その体で動いたって役に立たないんだから、横になってればいい」

 二人が中に入ろうとしたとき、通路から「おはようございます」と快活な声が聞こえてきた。吉田だった。

「あれ? どうしちゃったんですか」

 ブルーシートを見て、目を丸くしている。

「熊が現れたんだよ」

 和希は昨日の出来事を話した。

「そうなんですねえ」吉田は腕を組んで結香を見た。「僕も昨日からずっとこの件を考えていたんですよ。結香さんとお父さんの体の変化には、二つの要因が関わっているんじゃないかと考えているんです。お父さんと結香さんのDNAには、人間以外の動物のDNAが組み込まれている可能性があります。理由はわかりません。人工的に組み込まれたのか、あるいは自然に入り込んだのかもしれません。もう一つはDNAの発現形態及び、肉体が変化するスピードですね。DNAというのは人体の設計図で、それを元にして手足や目鼻などを形作っているのはご存じかと思います。じゃあそのDNAを発現させる指示は誰がやっているかというのは、まだ諸説があって確定していないところなんです。でも、その過程にエピゲノムが関連しているのは判明しています。恐らく、結香さんのエピゲノムには何らかの変化が生じている可能性があります。今回、何らかの刺激でエピゲノムが、結香さんの中に潜んでいたヒクイドリのDNAを発現するよう指示をしたのだと思います。和希さんの驚異的な再生能力も、結香さんと結香さんのお父さんと同じメカニズムで生じた可能性が高いのではと思います」

「つまり、俺も結香みたいに体が動物になる可能性があるというのか」

「はい、皆さんのDNAを調べなければわかりませんが、和希さんにも同じ能力があると考えた方が自然かと思います」

「でも、どうして急にそんな事が起きたんだろう? 今までこんな体の変化が起きたことなんてなかったんだ」

「そういえば、あの嶋本っておばさん、最初に来たとき『薬を飲む時間なので失礼します』とか言ってアンプルを飲んだのよ。そしたら、あの人からアルコールみたいな臭いがしてきたわ。何これ、薬とか言って、強いお酒でも飲んだんじゃないのって思ったわ。それがあたしの体に影響したのかも」

「和希さんは最初に嶋本さんと会ったとき、そんな臭いを感じましたか?」

「そういえばあったかな。ちょっと刺激の強い香水を付けてるな、ぐらいにしか思っていなかったけど」

「うーん、そうなんですね。でも、刺激臭のある呼気の中に何らかの薬物が含まれていたとしても、恐らく微量でしょう。それが全身のDNAへ急速な変化をもたらすなんてことは考えづらい。ましてや隣の部屋にいたお父さんにまで影響を及ぼすなんてあり得ません。ただし、何らかの薬物が、元々和希さんたちに組み込まれていた特殊な遺伝子を刺激した可能性はあるかもしれません」

 結香が再びしゃがみ込んだ。「ごめん、ちょっと力が入らないの」

「体の構造が変化した影響で、かなりのカロリーを消費したのでしょう。すぐに栄養を摂らないといけません」

 結香は力なく首を振った。「食欲がないわ」

「無理しても何か食べておかないと。取りあえず糖分を取った方がいいです。チョコレートとかキャンディーはありますか」

「みんな吹っ飛んじゃったわ」

「俺、隣のおばさんからもらってくるよ」

 和希は結香を家の中へ連れて行き、隣の部屋へ行ってチャイムを鳴らした。僅かにドアが開き、おばさんが顔を覗かせた。チョコレートを欲しいと言うと、すぐに中へ入り、板チョコを持って戻ってきた。和希に渡すと、すぐにドアを閉めてしまった。内側から鍵がかかる音がする。もう和希たちに関わりたくないという雰囲気がありありだった。仕方がないと思いながら戻り、結香にチョコレートを渡した。少しずつ食べ始めたのを確認すると、吉田が熱心にスマホをいじっているのに気づいた。

「どうかしたの?」

「今、病院の事件のニュースを見ていたんですけど、防犯カメラの映像がアップされていまして」

「嶋本が映っているやつですか」

「そうなんですよ」吉田は画面を睨み付けるようにして操作している。「その件でちょっと見ていただきたい画像があるんです。確か僕のクラウドストレージにファイルしてあったはずなんですけど……あった」

 吉田がスマホの画面を見せた。十人の男女が映っている集合写真が表示されていて、左上の人物は吉田だった。赤ら顔で、今の吉田より若い。背後にお品書きらしき張り紙が貼ってあるので、飲食店のようだ。その中の左端の人物に、和希ははっとした。ピンク色のエプロンに白い三角巾を被り、穏やかに微笑んでいる中年女性がいた。

「この女……」

 吉田は画像を広げ、中年女性の顔をアップした。

「似ているでしょう」

「似ているなんてものじゃない。結香、ちょっと見てくれよ」

 吉田がしゃがみ込み、結香にも画像を見せた。

「何よこの人」結香は画面に目を見張った。「嶋本じゃないの」

 和希ももう一度画面を見る。間違いない、ここに写っている人物は嶋本だ。

「やっぱり同一人物ですか」

「俺が会った嶋本はもう少し険しい顔をしていたけど、同じ顔だ。この人はいったい誰なんだ」

「上野で『お好み焼き中原』という店を経営していた中原というおばさんですよ。僕が東都大学の大学院生だった頃、研究室の人たちとよく食べに行っていたんです」

「じゃあ、この人がどこにいるか知っているよね。行ってみよう」

 吉田は深刻そうな目で首を振る。「無理です」

「どうしてなんだよ」

「中原さんは、五年前に亡くなっているんですよ」

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