2‐2
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結香が崩れるようにして膝を突き、そのまま床に倒れそうになる。
「結香っ」
和希が肩を掴んで支えようとするが、完全に脱力した体は案外重い。
「そのままゆっくり床へ寝かせてください」
医師の言葉に従い、体をずらせて結香を床に寝かせた。和希と医師がかがみ込み、結香の様子を診た。
「さすがにショックが強すぎたんでしょう。ストレッチャーを持って来てください」
事務局長がナースステーションへ向かおうとしたとき、エレベーターから制服の警官が二人が出てきた。彼らは和希たちのところへ行き、重光の状態を確認した。
「これは……」警官が息を飲むのがわかる。一人の警官が無線で状況を連絡し始める。もう一人が振り返り、廊下にいる人々を見回した。
「これは誰がやったんですか」
「この状態を発見する前、中年女性がここから出ていくのを当院の看護師が目撃しておりまして、恐らくその女性が関わっている可能性が高いかと」
「女性はどこに行きましたか?」
「それが……。看護師たちが声をかけたんですが、無視されまして……。恐ろしくて無理に引き留めることも出来なかったそうです」
事務局長が話を引き継ぐ。「その後、ロビーを横切って出ていきました。私たちが事態を把握したときは、既に女性の姿は確認できませんでした」
「その女性が犯人であるという確証はありますか」
「その女性は血まみれでして、明らかに異常でした」
警官が無線で緊急配備を要請し、更に事務局長へ様々な質問をし始める。その横で看護師が運んできたストレッチャーに結香を乗せた。
「一階の救急センターへ運んでくれ」
結香を乗せたストレッチャーが動き出す中、更に多くの警官が現れ、廊下は物々しい雰囲気に包まれていく。和希と吉田も結香についていこうとしたが、警官に止められ、殺された重光との関係を聞かれた。和希は結香の兄と友人で、関わりはすぐに理解されたが、問題は吉田だった。
「僕はですね、分子生物学及び遺伝子の研究をしておりまして、八田和希さんのDNA発現の様態に大変興味を持っているんです。恐らくエピジェネティクスのシステムに鍵があると考え――」
「要するに、被害者とは関係なく、八田さんに興味があるということなんですね」
「いえ、もしかしたら、亡くなった結香さんのお父さんも同様な特徴があるかも知れないと思いまして、和希さんと一緒に伺った次第です」
「はあ……」
取りあえず犯行には関わっていないと判断されたのか、連絡先を教えて解放された。和希たちは結香が治療を受けている救急センターへ行った。和希はベンチに座って大きく息を吐いた。
「殺した奴はどうして首なんて切ったんだ」
まだ血まみれの病室の光景が、鮮烈に頭の中へこびりついている。結香ほどではないが、強烈なショックが続いていた。
吉田が腕を組みながらポツリと呟く。「首を切ったらさすがに再生できませんねえ」
「え?」
「和希さんは熊に首をえぐられましたが再生しました。しかし、さすがに限度があるでしょう。重光さんが和希さんと同じ力を持っていたとしたら、犯人は確実に重光さんを殺すため、首を切断したんじゃないでしょうか」
「だとすると、殺した奴は俺たちの体のことをわかっていたということか」
「そう思います」
「そういえば、事務局長が血まみれの中年女性が言ってたいってたよな。あれ、嶋本かも知れない。もっともあいつ、シャチに食われちまったんだけど」
待合室へ二人のスーツ姿の男が入ってきた。男たちは和希に近づき、警察手帳を見せた。
「お連れさんが大変なところを申し訳ありません。緊急で防犯カメラの映像を確認していただきたいのですが、同行してもらってよろしいでしょうか」
言葉は丁寧だが、有無を言わせぬ強い圧を発散させながら男の一人が発言した。
「わかりました」
和希は立ち上がり、刑事たちについていった。事務室へ入り、パソコンのある机に座る。
「再生してください」
事務の女性がこわばった表情で、キーボードを操作した。モニターの中で動画が始まった。廊下が映っている。そこへ一人の女性が横切った。カジュアルな服を着ているが、間違いなく嶋本だ。彼女の頬から首にかけて、鮮血がべっとりと付着していた。シャツやジーンズも赤黒く濡れている。凄惨な格好とは裏腹に涼しい表情で、顔を隠す素振りも見せず、まっすぐ前を見つめている。
「この人に見覚えはありますか」
「はい、嶋本という人です」
和希は刑事に嶋本と会った経緯を話した。刑事はメモを取りながら、眉間に皺を寄せる。
「シャチが巴川に現れたということですよね」
「信じられませんが、本当なんです」
「ただ、八田さんの話が本当ですと、嶋本は死んでいるはずですよね」
「そうなんですけど」
「その辺りの真偽は私たちも調べさせていただきます。とにかく今は彼女の所在を突き止めることに注力しなければなりませんので」
和希たちが事務室から解放されて更に一時間が過ぎた頃、結香が救急センターから出てきた。一応歩いているものの、茫洋とした目をしており、足元が少しふらついている。すぐに刑事が来て、結香を事務室へ連れて行った。三十分ほどで解放されたので、和希は彼女をロビーのベンチに座らせた。
結香は大きく息を吐き出したあと、唐突にボロボロと涙を流し始めた。
「お父さん、どうしてあんな風になっちゃったの?」
「わからない。ただ、犯行には嶋本が関わっているらしいのは聞いただろ」
「うん、防犯カメラを見た。あの女がお父さんを殺したの?」
「警察が調べてくれるよ。それよりもう遅いから、取りあえず家に帰ろう」
「うん」
時刻は六時を過ぎていた。和希は事務室にいる刑事に今日は帰ると告げ、結香をつれて外へ出た。辺りはすっかり暗くなっている。
「吉田さん、悪いけど俺たちをマンションまで送ってくれませんか」
「わかりました。その前にちょっと電話をさせてくださいね」
吉田はポケットからスマホを取り出してタップした。
「ああ、母さん、僕だけど、ちょっと遅くなるんで夕ご飯は外で食べるよ。もう作っちゃったって? ごめんごめん、早く言っとけばよかったんだけど、ちょっと忙しくって――」
吉田の会話を上の空で聞きながら、少し肌寒い風を受けながら歩いて行く。あまりにいろいろなことが起きすぎて整理かつかず、頭の中が混乱したまま、ただただ疲労感が肩へのしかかっていく。振り返り、後を付いてくる結香を見た。常夜灯の青白い光に照らされた彼女は、うつろな目で、背中を丸めて歩いている。和希と結香は、吉田の運転するアルトで結香のマンションへ戻った。
「ありがとう、助かったよ」
吉田は家に戻らず、ネットカフェで泊まるつもりだという。携帯番号とメールアドレスを交換して別れた。まだショックから抜けきれないのだろう、ぼんやりとした目をしている結香を連れてマンションの中へ入る。電気を点けると、陥没した壁と破壊された窓が目に入ってくる。
「窓は困ったな。今から不動産屋に電話しても、修理になんか来てくれないだろうし。取りあえず一晩中電気を点けっぱなしにしておけば、泥棒も警戒してこないんじゃ――」
奥のドアがガタリと音を立てた。
「何?」
身構えているとドアが開き、暗い中から小太りの中年女性が一人出てきた。嶋本だ。黒のトレーナーにベージュのパンツを穿いている。うっすらと笑みを浮かべながら和希たちを見ていた。和希が携帯電話を取りだした。
「警察へ電話をするのはやめてください。潤一さんの命はありませんよ」
「お前……」
和希はスマホを握ったまま、嶋本を睨み付けた。
「お父さんを殺したのはあんたなの?」
「そうです。私の活動を邪魔しようとしたからです」
「活動というのは、鳥を捕まえることか? その程度で人を殺すなんて異常だよ」
「おっしゃるとおりです」
「じゃあなぜ」
嶋本は困ったように小首を傾げた。
「ここで私を襲った狼が大浜重光だというのは、皆さんもたちも考えていたのではないですか」
「ああ。あの犬はやはり結香の父さんなのか」
「そのとおりです」
「どうしてそんなことが可能になったんだ。あの鳥との関係は何なんだ」
「残念ですが、お答えするわけにはいきません」
「なぜだ」
「そういうアーキテクチャだからです」
「またアーキテクチャかよ」
怒りの感情がもたげてくると同時に、体の中心で、ろうそくに灯る炎のようなものが、チロチロと輝いているのに気づいた。炎は沸き起こってくる怒りを燃料として、急速に勢いを増していった。
これは一体何?
戸惑い始めた自分をよそに、炎は勢いを増し、全身へ広がっていく。体全体が熱を帯び、頭がくらくらしてくる。
嶋本の視線が結香へ移り、眉間に皺を寄せた。和希が釣られるように結香を見た時、彼女が崩れるように倒れた。
「どうした」
和希はかがみ込んで結香をのぞき込んだ。彼女は細かく体を震わせながら、大きく目を見開き、額から大量の汗をかき始めた。息が荒く、顔が赤い。触れなくても、体温が熱く立ち上ってくるのがわかる。
「体調がわるいのか」
「よく……わからない。体の中が痛いの……ああっ」
結香が顔を歪ませた。
嶋本は腕を組み、冷ややかに結香を見下ろしている。
「お前、結香に何が起きているか知っているのか」
嶋本は問いかけを無視して破れた窓へ視線を移した。眉間に皺が寄り、睨み付けるように見る。
「どうした」
和希も窓を見た。特に変化はないように思える。しかし、窓から吹き込んでくる冷気を帯びた風に乗って、わずかに獣臭が鼻孔に侵入してきた。
ぽっかりと空いた暗闇。
その中に何かいる。
そんな予感がしたとき、真っ黒で巨大な鼻が現れた。続いて、焦げ茶色の毛で覆われた口吻が部屋の中へ侵入してきた。
カッと口を開き、乳白色の鋭い四本の犬歯が露わになる。
「グオォォォッ、グオォォォッ」
野太い鳴き声が吐き出される。明らかに敵意を抱いている声だ。鳴くたびに、壁がミシリミシリと音を立てた。
熊か?
「まずいな」
嶋本が動き出し、奥の部屋へ入ってく。
「おいっ、ちょっと待てよ」
「今は武器を持っていない」
ドア越しに、くぐもった声が聞こえてくる。
「一体、何を言っているんだ」
不意に鳴き声が消えたので振り返る。窓に巨大な鼻面はなく、暗い闇が見えていた。嶋本が逃げたからかなと思い、ほっとする。きっとあの鼻面は嶋本を狙っていたんだ。
それよりも結香だ。体の震えは更に激しくなり、うめき声を上げ始めている。救急車を呼ぼうと思った時、
窓の暗闇から、再び鼻面が現れる。
ドスッと腹に響く音がして、壁が撓んだ。
バキバキッと雷のような音を立て、窓の下にあるキッチンが斜めに傾いだ。
一瞬鼻面が消えたかと思うと、再びドスッと音が響き、鼻面が現れる。
激しい音と共に壁が破れ、キッチンが完全に横倒しになった。
焦げ茶色の毛に覆われた、巨大な腕が伸びてきた。
壁の残骸を振り払い、熊が現れる。
和希よりも二回りは大きい体躯。全身が焦げ茶色の毛で覆われ、背中は山のように盛り上がっていた。丸太のように太い前脚で、倒れた流しを踏みつけている。黒い目が敵意をむき出しにして和希を見つめていた。
間違いない、巨大な熊だ。
「グオォォォッ、グオォォォッ」
牙をむき出しにして吠える。
体を大きく振り、体に付着した流しの欠片を飛ばしながら部屋の中へ入ってきた。
体を起こし、二本足で立った。天井に頭が衝突して鈍い音を立て、石膏がバラバラと落ちていく。
前足から、禍々しいほどに鋭い爪が伸びていた。
「グオォォォッ、グオォォォッ」
怒りがほとばしるような叫びを放った。
「結香っ」
和希は結香の両脇を抱えて引っ張ろうとするが、足をもつれさせて尻餅をついた。熊の迫力に圧倒されて体がパニックを起こしていた。
逃げられない。そう思ったときだ。
結香が和希の手を振り払うように体を起こし、立ち上がる。
熊と対峙した。
「ゲェェオッ、ゲェェオッ」
結香の口から、のこぎりを挽いたような不気味な声が吐き出された。
足が急速に大きくなっていくと同時に、ジーンズの裾から見えるくるぶしが、灰色に変化していく。
ピンク色のショートソックスが破れ、足が露わになる。
それは人間の足ではなかった。全体が灰色で、ワニのような凹凸のある硬質な皮膚に覆われていた。指は三本で、鋭い爪がギシギシと音を立てて伸び出した。
「グオォォォッ」
「ゲェェオッ」
お互い敵意のこもった声で応酬する。和希は尻餅をついたまま、その様子をただ見つめるしかなかった。
「グオォォォ――ッ」
鋭い爪を伸ばした熊の右手が結香の顔に向かって横に払う。
結香が後方にジャンプして和希を飛び越えた。
熊の右手は空を切る。
一瞬、何が起きたのか理解できないように、目に戸惑いを浮かべた熊は足元を見た。
和希と目が合う。熊の目に怒りの色が戻った。
覆い被さるように、熊は体を屈め、右腕を和希に振りかぶる。
殺される。
圧倒されて体が動かない。頭が恐怖で真っ白になる。
視界に灰色の足が現れた。鋭い爪が生えた三本の指。
結香がジャンプして、天井すれすれを飛び上がっている。
熊が気配を察して上を向いた瞬間、
結香の爪が振り下ろされる。
「ウガガガァァッ」
熊が耳に突き刺さる野太い叫びを上げ、手で顔を覆った。
結香の足が和希の腹に落ちる。
「うっ」
強い衝撃を受け、息が止まる。結香は再びジャンプして後ろへ下がった。
再び息をしたとき、頭上から大量の液体が降り注いできた。
真っ赤な鮮血だ。
焼けるように熱く、むせかえるような金臭い湯気を放っている。
顔を、首を、胸を濡らしていく。
「うおぉぉぉっ」
恐怖が体の芯を突き抜け、いつの間にか叫んでいた。
熊が後ずさりして、ようやく血のシャワーから解放された。少しだけ落ち着きを取り戻し、体を起こした。自分の荒い息づかいが、どこか遠いところで響いている気がする。
「ウガガァ、ウガッ、ウガッ」
熊が立ち上がりながら、両手をめちゃくちゃに振り回している。額の皮がペロリと剥け、乳白色の頭蓋骨が露出していた。右の眼窩は鮮血が噴きだし、ピンポン球ほどの眼球が垂れていた。左目も血で真っ赤にまみれている。
椅子が右手に当たり、おもちゃのように一瞬でバラバラに破壊された。
振り返り、結香を見る。
結香の顔から鮮やかな青い毛が生えていた。白目だった部分が黄色くなり、唇が灰色に変色して、硬く突き出している。
「ゲェェオッッ」
叫びながら、足を蹴る。
軽々と和希を飛び越し、熊へ襲いかかる。
「ゲェェッッッ」
熊が叫ぶ。結香は着地した瞬間、後方へ飛びすさる。
熊の肩から胸にかけて、鮮やかなピンク色の筋が出来ていた。
そこから大量の血が噴き出していく。
「ゲオッ、ゲオッ、ゲオッ」
熊が前足を降ろした。攻撃的な圧が消えていき、体が一回り小さくなった気がした。尻を向け、外の闇へ消えていった。
さっきまで存在していた流しはなく、ぽっかりと暗闇が広がっていた。破壊された天井、テーブル。大量に広がる鮮血。思考が現実についていかない。
「うぁぁぁっ……」
声がして振り返った。結香がしゃがみ込んでいた。驚いたように大きく見開いた目は、白目に戻っていた。バタンと横に倒れ、胎児のように体を丸め、目を閉じた。体が小刻みに痙攣している。
「ひえぇぇ……」
外から声か聞こえたので振り返ると、隣の老夫婦が怯えた顔で中をのぞき込んでいた。
「何があったのよ」
「熊が襲ってきたんです」
「は? 熊?」
「そう、熊なんです。まだ近くにいるかも知れませんから、家の中にいた方がいいです」
「て言うか、あんたたち大丈夫なのかい。結香ちゃんはどうなの?」
「疲れているみたいで横になってます。怪我はしていませんから」
和希は結香の足が見えないよう結香の前に立っていた。
「でも、この血はなんなのよ」
「熊の血ですから。俺たちに怪我はありません」
「本当に? でもただ事じゃないから警察を呼ぶわよ」
「はい、お願いします」
老夫婦は不気味そうに和希を見ながら、自分の部屋へ戻っていった。結香は痙攣しながら眉間に皺を寄せていたが、変化が始まるときより苦しげではなかった。唇は元に戻っている。足は相変わらず三本で爪が伸びているが、爪は短くなり始めている。
「ヒクイドリですね」
かがみ込んで結香を見ていると、上から声がした。いつの間にか嶋本が戻っていた。
「なんだよそれ」
「インドネシアからオーストラリアに生息する鳥です。世界一危険な鳥と呼ばれ、鋭い爪で蹴られたら、体に穴が空きます」
「そのヒクイドリがなんで結香になったんだよ」
「お答えできません」
「どうしてだ? そういうアーキテクチャだからとか言うんじゃないだろうな」
嶋本が薄く笑う。「その通りです」
遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきた。
「警察が来るようですので、ここで失礼します」
嶋本は飛び跳ねるようにして熊の血が付着していない場所へ着地しながら玄関へ行き、ドアを開けて外へ出て行った。
「おい、待てよ」
和希は彼女を追いかけて外へ出たが、既に姿はなかった。誰もいない通路は、蛍光灯の光が寒々しく照らしているだけだった。




