第九面 縁と現世
庭園での散策を終え、願いを取り消そうか悩んでいた美晴に、神夜は「いつにする?」と聞いてきた。
「え……いいの?」
「うん。その代わり、僕も一緒に行くけどね」
美晴が領域を出れば、“縛り”が発動する。そのため、離れすぎないよう、神夜も現世に同行する必要があった。
「ありがとう、神夜くん……!」
喜ぶ美晴の姿に、神夜の雰囲気が和らぐ。
「デート、楽しみだね」
「でっ……!?」
一瞬で真っ赤になった美晴を見て、神夜はお面の下で笑みを深めていた。
◆ ◆ ◇ ◇
和の空気が漂う領域や、自然豊かな田舎とは異なり、美晴がこれから向かう場所は、様々な国の文化が入り混じる都会だ。
いつの間にか着物に慣れていた美晴だが、都会では目立つため、服装を合わせておく必要がある。
「奥様! 現世へ行かれるのですか!?」
部屋に飛び込んできた玖狐を見た途端、刀喰は「騒々しい犬が来た」と呟いている。傍に立つ苑寿には聞こえたようで、着物の袖で緩んだ口元を隠していた。
「なるべく早く戻ってくるから、屋敷のことをお願いね、こんちゃん」
「お任せください!」
胸を張る玖狐に、美晴が花のように笑う。
玖狐の態度ががらりと変わったことで、初めは驚いていた他の眷属たちも、徐々に美晴との距離を詰めるようになった。
甘いものを好む美晴のために、料理長がおやつを作ったり、書庫を整理していた使用人が、お勧めの本を持ってきたり。
いつしか、美晴の部屋には頻繁に贈り物が届くようになっていた。
机の上には、玖狐のくれた花が生けてある。
鮮やかな彩りを眺める美晴に気づき、髪を結っていた苑寿は、仕上げに花の飾りを選んでいた。
「よくお似合いです」
淡い色のワンピースには、透明なレースがあしらわれている。美晴の髪と目が映える色合いに、着替えを担当していた刀喰は満足げな表情だ。
「準備できた?」
部屋まで迎えにきた神夜の姿を目にして、美晴が息を呑む。
シンプルな白と黒の組み合わせが、神夜のスタイルの良さを際立たせている。着物ではなくズボンなのが新鮮に感じるが、美晴が何より驚いた点は服装ではなかった。
「神夜くん、顔が……」
お面を被っていない。その事実が、美晴の脳内を混乱させていく。
「あ、これ? 素顔じゃないから大丈夫だよ〜」
「……え?」
神夜の言葉に、美晴はまじまじと顔を見つめた。
笑い方や纏う雰囲気は似ているものの、確かに顔は別人だ。
桔梗のようだった瞳は、髪と同じ漆黒に染まっている。今の顔も充分に整っているが、あの恐ろしいほど綺麗な容貌に比べれば、だいぶ落ち着いているように思えた。
「面妖が作れるのは、お面だけじゃないからね」
自らの正体を隠し、別の人格を演じるためのお面。
面とはすなわち、顔のことでもある。
数多の面を持つ面妖は、どんな人間であろうと自在に演じることができた。善人も悪人も、男も女も。身体の年齢を変えれば、子供や老人にさえなることができる。
面妖が現世との繋がりを断たないのは、人間を観察するためだ。そっくりそのまま写し取れる面妖の中には、稀に人間に紛れて暮らす者もいた。
「じゃあ、行こうか」
「……うん」
合わさった手のひらから、高速で脈打つ鼓動が伝わってしまいそうで。美晴は仄かに赤い顔を伏せたまま、神夜と共に部屋を後にした。
◆ ◇ ◇ ◇
古くから、日本には多くの妖たちがいた。
神や妖怪の存在を認知していた政府は、いつしか祓うことよりも、棲み分けることを重視するようになった。
触らぬ神に祟りなし。科学では説明のつかない存在と争うより、上手く共存した方がいいと考えたのだ。
政府の有する情報の中で、面妖の重要度は最も高いレベルに位置していた。面妖が守護する場所には、一切の手出しが禁じられている。現在では神秘の杜と呼ばれる裏山の奥地も、麓に広がる村のありようも。他者の手が入らなかったからこそ、何百年も変わることのない景色が維持されているのだ。
人間と似た姿で、不可思議な力を使い──時に神として祀られるほどの存在である面妖。
しかし、そんな面妖には政府も知らない、大きな秘密があった。
神夜の領域と裏山は、境界線のようなもので繋がっている。普段は閉じられている空間を潜ると、見覚えのある裏山へと出た。
ひと月以上も領域で過ごしていた美晴だが、鈴世はまだ美晴のことを探しているのだろうか。
不安げな顔で麓を見下ろす美晴の身体を、神夜が優しく引き寄せた。
「そんな所にいると、また落ちちゃうよ」
「ごっ、ごめんなさい……あ」
初めて出会った時のことを言っているのだろう。
全ては、足を滑らせた美晴が、神夜の上に落ちたことから始まった。
もしもあの時、裏山に逃げ込まなければ。
もしもあの時、神夜が受け止めてくれなければ。
挙げれば切りがないが、美晴はあの時ほど、自らの選択に感謝した日はない。たとえ終わりが定められていようと、心から幸せだと思える居場所を見つけられたのだから──。
過去を振り返っていたこともあり、美晴は思わず謝罪の言葉を口にしていた。
咄嗟に手で塞ぐも、いい笑顔を浮かべた神夜は「罰ゲーム、何にしようかな〜」と呟いている。
へにょりと眉を下げた美晴に、神夜がくすりと笑った。
いつの間にか、神夜の手には白い狐のお面が乗っている。
桜の花が描かれたお面を見て、美晴は現世の季節が春だったことを思い出した。
不意に、美晴の視界をお面が塞いだ。
ぶわりと吹いた風が、美晴たちの横を通り抜けていく。
花びらが散るように消えたお面と、開けた視界に映る賑やかな通り。
瞬きの直後、美晴の前には都会の光景が広がっていた。