第八面 踏み出した一歩
「奥様! ここに小石が!」
「奥様! ここは滑りますので!」
「奥様! こちらの段差にお気をつけください!」
奥様と繰り返し響く声に、刀喰は半目で庭園を眺めていた。
正確には、美晴の進む先を注意深く見て回る──玖狐の方をである。
「あれはもう狐ではなく、犬ですね」
まるで忠犬だと呟く刀喰に、苑寿も同意するように頷いた。
庭園を散策する美晴を見守りながら、少し後ろを付いて歩く。初めて会った時よりも笑顔の増えた美晴に、苑寿は表情を緩めると、微かに笑みを浮かべていた。
「美晴」
「あ、神夜くん」
庭園に現れた主に気づき、苑寿と刀喰が礼を取る。
美晴が回復してから、主に二つの変化が起こっていた。
一つは、美晴と眷属たちとの距離が縮まったこと。
もう一つは、食事の時間以外も、神夜が美晴と一緒にいるようになったことだ。
「主様! 本日はまだ、奥様が一度も転びかけておりません!」
得意げに報告する玖狐を、美晴は感謝と恥ずかしさがないまぜになったような、何とも言えない表情で見つめている。
「痕、だいぶ消えてきたね」
美晴の腕を捲った神夜が、滑らかな肌を指でなぞっていく。
くすぐったそうに頬を染めた美晴から手を離すと、神夜は労うように玖狐の頭へ手を乗せた。
喜びで目を輝かせた玖狐が、ぶんぶんと尻尾を振っている。その様子を微笑ましげに見ていた美晴の視線が、ふと腕の方に向けられた。
「どうしたの?」
「その……傷の治りが、早くなっている気がして……」
現世にいた頃は、美晴の治癒速度はごく普通。いわゆる平均的だった。
しかし、領域で暮らすようになってから、小さな傷跡はその日のうちに無くなり、本来なら一生残るような痕も、綺麗に消えてしまうようになった。
傷だらけだった美晴の身体は、今や傷のある箇所を探す方が難しい。不思議そうに首を傾げる美晴に、神夜は「そういえば──」と口を開いた。
「話すの、少しは慣れた?」
「うっ……。けっこう頑張ってるつもりなんだけど、どうかな……?」
「いい感じだよ〜」
謝罪が癖になっている美晴に、神夜は謝ること自体を禁止していた。しかし、直後に体調を崩した美晴は、無意識に謝罪をしてしまっていたのだ。
美晴が回復したのを見計らい、神夜は罰ゲームと称して、美晴に“タメ口”で話すよう要求した。
「夫婦なんだし、こっちの方が自然でしょ」
そう言ってにっこりと笑う神夜に、美晴が拒否などできるはずもなく。結果的に、神夜とのタメ口は今に至るまで継続されていた。
「あ、そうだ。願い事は決まった?」
「……え?」
「美晴のお願いを、何でも聞いてあげるって言ったでしょ」
いつの間にか、玖狐たちは姿を消し、美晴は神夜と二人で庭園を歩いていた。
ふわりと漂う花の香りが、辺りを包み込んでいく。
「あのね……神夜くん。それなら私、現世に行きたい。どうしても、会いたい人がいるの」
美晴の言葉に、神夜の足がぴたりと止まった。
池で跳ねる魚の音が、やけに大きく聞こえる。
「会いたい人?」
「高校の友達なんだけど、急なことで連絡もできなかったから、今頃心配してるかもしれなくて……」
美晴にとっては、唯一の友人だ。
会うたびに擦り切れ、ぽっきりと折れそうな美晴の手を、友人は決して離さないでいてくれた。
地獄のような日々の中で、友人といる時だけは息が吸いやすくなる。豪快で大雑把。けれど情に厚い友人の存在は、天から美晴へと垂らされた蜘蛛の糸のようだった。
「神夜くん、もしかして……怒ってる?」
沈黙する神夜の顔は、お面によって覆われている。
お面が表情を隠すように、掴みどころのない神夜の本心を察するのは至難の業だ。
けれど、美晴にはどことなく──神夜が溶かした鉄のような、怒りにも近い感情を抱えている気がした。
「そんなことないよ〜。少なくとも、美晴には怒ってないから安心して」
ぱっと照明が切り替わるように、神夜の雰囲気も瞬時に飄々としたものへ戻っている。
不安そうな美晴の頭を撫でようと、神夜が手を伸ばした。
しかし、何かを思い出した様子の神夜は、手のひらが頭に触れる直前で動きを止めている。
以前にも、神夜は美晴の頭を撫でようとしたことがあった。
眷属にするように、軽く触れる程度のものだったが、神夜が頭の上に手を翳した瞬間、美晴がびくりと身体を震わせたのだ。
叔父に殴られた時の記憶を思い出したのだろう。
怯える美晴の姿を見て、神夜はそれ以降、美晴に触れる際は殊更気をつけるようにしていた。
ほぼ反射的な行動に、神夜は自らの安直さを内心で嗤いながら、止めていた手を引いていく。
不意に、神夜の手首を美晴が両手で挟んだ。
驚きで反応が遅れた神夜の手のひらへ、美晴が頭を寄せる。
さらりと流れる髪は、見た目よりも柔らかい。
身長差により上目遣いになった瞳が、撫でないのかと問うように神夜を見つめた。
神夜の気配が僅かに揺れる。
まるで、警戒心の強い小動物が、心を開いてくれたかのような光景だ。
淡く色づいた頬と、嬉しそうに閉じられた瞼が、神夜の目に愛らしく映る。
お面をしていて良かったと思う日が来るなんて、昔の自分は想像もしていなかっただろう。
美晴の頭を撫でながら、神夜はふとそんなことを考えていた。