第七面 拝啓、過去の自分へ
ひとしきり泣いた後、我に返った美晴は恥ずかしそうに顔を伏せている。
そんな美晴の様子に顔を見合わせた苑寿と刀喰は、「主様に知らせて参ります」と話し、二人同時に部屋を出ていった。
相変わらず気遣いの細やかな苑寿たちに、美晴はありがたさと、自分に対する情けなさを感じていた。
二人が出ていった襖の反対側には、縁側に続く障子がある。
窓の部分からちらちらと覗く影に、美晴は思わず笑みをこぼすと、「良かったら入ってきませんか?」と声をかけた。
「……少しは見る目があるようですね」
どうやら、気づかれていないと思っていたらしい。
障子の隙間から入ってきた玖狐は、どこか不貞腐れたような顔をしている。
「素敵なお花をありがとう。後で部屋に飾らせてもらうね」
苑寿に花瓶を頼んでおいたため、次の機会に持ってきてくれるはずだ。
机の上に置かれた花は、どれも鮮やかな色彩を放っている。
嬉しそうに微笑む美晴の姿に、玖狐は照れ臭くなったのか、ふいっと顔を背けていた。
「そんなに気に入ったなら、また持ってきてあげないこともないですよ」
そう言いつつ、玖狐は横目でちらちらと美晴の反応を窺っている。
「本当に? ありがとう、こんちゃん!」
「こっ……!」
そこらの狐のような呼び方に抗議しかけた玖狐だったが、お礼を口にした美晴の顔を見て、自然と口を噤んでいる。
そこには、玖狐に向けられた──満開の笑みが咲いていた。
玖狐はずっと、人間と仲良くしたかった。
しかし、とある妖狐が美女に化け、人々に災厄をもたらしてから──尾の分かれた狐は忌み嫌われる存在となっていた。
玖狐も例に漏れず、石を投げられたり、火縄銃で撃たれたりと散々な目に遭ってきた。
それでも、いつか自分と仲良くしてくれる人間が現れると、その時の玖狐は信じて疑わなかったのだ。
尾を隠し、体を小さくし、ただの狐のように振る舞ってもみたが、漏れ出す妖気までは消すことができず。結局、玖狐は陰陽師によって傷を負わされ、命からがら逃げ延びた先の山で力尽きようとしていた。
人間などと関わらなければ。
そう思ったところで、何もかもが手遅れだった。
瞼が重くなっていく中、視界の端に黒い着物が映り込む。
そうして玖狐は、神夜によって拾われた。
「……特別に、こんちゃんと呼ぶことを許してあげます。奥様は、主様の伴侶ですからね。特別に、ですよ!」
あくまで主のためであり、美晴は神夜の伴侶だから許されているのだ。そう言いたげな玖狐の態度にも、美晴はただ嬉しそうに微笑んでいた。
「ねぇ、こんちゃん。神夜くんって、どんな人なの?」
「主様ですか? それはもう、筆舌に尽くしがたいほど素晴らしい御方です!」
神夜の話になった途端、玖狐は鼻高々に喋り始める。
美晴は相槌を打ちながら、時折質問を挟んでは、玖狐と過ごす時間を心から楽しんでいた。
「ふふ。こんちゃんは、神夜くんのことが大好きなんだね」
「当たり前です! ……ですが、今回のことで主様は大層お怒りでした。きっと、わたくしに失望されたに違いありません……」
明るかった表情を一転させ、玖狐はぺたりと耳を垂らしている。そんな玖狐の姿が、かつての自分と重なって──。
美晴は玖狐に、同情心と、仄かな親近感を覚えていた。
都合のいい居候。お手軽な召使い。
叔父夫婦にとって美晴は、必要がなくなればいつでも捨てられる、他人にも満たない存在だった。
お前は愚図だ。役立たずの出来損ないだと言われ続けた結果、初めは期待に応えようと努力していた美晴の心は擦り切れ、いつしか殻に閉じ籠るようになっていった。
家では常に気を張って過ごしている反動か、学校では生傷が絶えず。いつも何処かしらに怪我をしている美晴を嘲笑いながら、叔父夫婦はこれ幸いと暴力まで振るい始めた。
一度だけ、友人に「その怪我って、家の人のせい?」と聞かれたことがある。しかし、友人に事実を打ち明ける勇気のなかった美晴は、全て自分のせいで負ったものだと否定した。
友人はそんな美晴を見て眉を顰めていたが、それ以上何かを聞いてくることはなかった。
玖狐は神夜のことが好きで、役に立ちたいと望んでいる。
失望されたくないと嘆くのも、神夜のことを心から慕っているからだ。
これまでの美晴は、誰かに必要とされたくて、失望されたくなくて──ただひたすらに足掻いていた。
けれどそれは、相手のことが好きだったからではない。
美晴と玖狐の境遇には似ている部分もあるが、殻に閉じ籠ったままの美晴と違い、玖狐は今この瞬間も前に進み続けている。
雛は、殻を破って外へ出なければ死ぬ。
外を恐れ、逃げ続け、殻という鳥籠からでなくなった今の美晴は──生きながらにして死んでいるようなものだった。
「……こんちゃんは凄いね。神夜くんのことが大切だから、失望されたくないって思ってる。私は……これ以上嫌われないように、痛くならないようにって、そればっかり考えてた。相手のことが好きだから、頑張ってたんじゃない。自分が傷つかないように……諦めてただけ」
声が震える。
唇を噛み締めた美晴は、浮かんだ涙を手の甲で拭った。
「こんちゃんが神夜くんを大好きなこと、ちゃんと伝わってるよ。だから、きっと大丈夫」
失望なんてしてないよ。
そう言って笑った美晴の姿は、まるで晴れ渡る空のように眩しくて。玖狐の脳裏に、過去の記憶が蘇ってきた。
生まれた時から、独りぼっちだった。
長い時間を独りで生きてきた玖狐は、暇つぶしに村の近くまで行っては、草むらの陰からこっそり人間たちを観察していた。
人間は愚かだ。そうかと思えば、傷だらけになりながら、誰かを救うために手を伸ばす者もいる。
私利私欲に走り、他者を平気で傷つける人間たちの傍らで、真っ直ぐに生きる眩しい者たち。向日葵のような笑顔や、温かいその手に、玖狐はいつしか憧れを抱いていた。
彼らのような人間なら、玖狐とも仲良くしてくれるかもしれない。そう信じて疑わなかった過去の自分を、玖狐は馬鹿だと嘲笑ってきた。
玖狐は妖怪だ。どんなに綺麗で心の優しい人間でも、玖狐を前にすると怯えた表情を浮かべる。
そんなことも露知らず、玖狐は懸命に擬態を練習しては、普通の狐のように振る舞おうとした。
本当に、馬鹿だったのだ。
長く生きていても、人間の常識など、玖狐はほとんど知らなかったのだから──。
「……奥様も、わたくしを許してくださるのですか……?」
それでも、玖狐は今──馬鹿だと笑った過去の自分に戻ろうとしている。
ぺたりと下がった耳と尻尾は、玖狐の不安の表れだ。
ぱちりと目を瞬いた美晴が、不思議そうに首を傾げる。
「私はこんちゃんに、許さなきゃいけないようなことはされてないよ……? むしろ、何かお礼をしたいくらい」
──ああ。過去の自分は、馬鹿ではなかった。
花を見て笑う美晴の膝元に、玖狐は勢いよく飛び込んだ。
「おぐざまあああ。一生おまもりじまずううう」
驚いた様子で玖狐を見つめる美晴だったが、やがて顔を綻ばせると、玖狐の背を優しく撫でている。
憧れていた人間の手は、想像以上に温かいものだった。