最終局面 比翼連理
かつて、裏山を含む一帯は小鳥遊家の領地だった。
大地主として名を馳せていた小鳥遊家だったが、豊かな富は狙われるもので。昼夜を問わぬ人間の愚行や、人ならざるものたちの起こす被害に、当時の家長は辟易していた。
そんな折だった。
家長の元に、面妖と呼ばれる存在が訪ねてきたのだ。
狐のお面を被った青年は、裏山に居を構えることにしたと話してきた。
面妖について詳しくない家長でも、目の前の存在に抗う術がないことは察していた。そのため、裏山を差し出す代わりに、家の安泰を望んだのだ。
もともと、面妖は領域と繋がる一帯を守護してくれる存在として知られていた。青年は裏山に立ち入らないことを条件に、小鳥遊家の家長と縛りを結んでいった。
そして、今もなお──この縛りは代々の当主へと受け継がれている。
◆ ◆ ◆ ◆
悲惨な死に方だった。
恐怖に腰を抜かす者、怯えて頭を抱える者、苦悶の表情を浮かべる者。どれも目立った外傷はなく、まるで世にも恐ろしい幻でも視ていたかのように、生前とは変わり果てた人相で息絶えていた。
「やっと姿を見せる気になったのね」
黒い狐の面が、鈴世の方へと向けられる。
薄暗い山中で向き合った神夜は、ぞっとする空気を纏っていた。もし鈴世に恨みという感情がなければ、話すことさえままならなかったかもしれない。
「自分から縛りを破るなんて、愚かだね」
想像よりも、随分と若い声だった。
飄々とした態度は、人間に対する無関心さを表しているようで、鈴世の気分を酷く害していく。
「だったら、夫と同じように殺せばいいわ」
家が途絶えようが、村が滅びようが、今の鈴世にはもうどうでもよかった。ただ、心の奥底で燃える恨みの炎だけが、鈴世の足を山中まで向かわせたのだ。
「勘違いしてるみたいだけど、君の夫が死んだのは、僕が殺したからじゃないよ。縛りを破った代償で、勝手に死んだだけ」
淡々と事実を口にした神夜の目には、鈴世にまとわりつく呪いが視えている。
縛りは故意に破ろうとするほど、代償も重くなっていく。
おそらく鈴世も、夫と同じくまともな死に方はしないだろう。
「──ずっと考えていたの。あの娘が、どうして無事に戻って来れたのか。初めは幼いからだと思ってたわ。いくら化け物でも、子供には情けをかけたのかもしれないとね。けれど、二度目が起こった」
あの娘が誰を指しているのか分かり、神夜の目から温度が消えていく。
「裏山に逃げたと聞いた時、今度こそ死んだと思ったわ。それでも、家のためにはあの娘が不可欠だった。だから、何としても見つけ出そうとしていたのに……まさか、元いた場所に戻っていたなんて……!」
叔父夫婦からの連絡に、鈴世は耳を疑った。
死んだと思った娘が生きていただけでなく、平然と暮らしていたのだから。
「夫を殺しておきながら、あの娘のことは見逃すなんて……! そんなのおかしいわ! 許せるわけがない! だから決めたの。……道連れにしてやろうとね」
ざわざわと揺れる木々が、不協和音のように響く。
穢れと呪いにまみれた鈴世は、まるで化け物のような禍々しさを放っていた。
「私がここに来たのは、知らせてあげるためよ。今頃あの娘は──屋敷と共に灰になっているでしょうからね」
神夜に向かってそれを投げると、鈴世は辺りに嘲笑を響かせている。
地面を転がった花の飾りは、美晴が髪に付けていた物だった。
ぷつり──と、何かが千切れる音がした。
◆ ◆ ◆ ◆
「……さ……おく……ま……」
どこからか、美晴を呼ぶ声がする。
薄らと目を開けた美晴の視界に、ふわふわと揺れる金色の毛並みが映った。
「……こん、ちゃん?」
「おぐざまーーー! よくぞご無事でえええ!」
美晴の胸元にしがみつき、大泣きする玖狐の姿に、美晴はぱちぱちと瞬きしている。
「こんちゃん……心配かけてごめんね。私なら大丈夫だよ」
おいおいと泣き続ける玖狐の背を優しく撫でた美晴は、今いる場所が地下牢だということを思い出した。
「こんちゃんは、どうしてここにいるの?」
「はっ! そうでした! 実は、主様が大変なのです!」
「神夜くんが……?」
煙の充満し始めた地下牢を見回し、美晴が咳き込んだ。
一刻も早くここを出なければと思うものの、牢は鍵がかかっており開かない。
「どうしよう……このままだと……。せめて、こんちゃんだけでも逃がして……ごほっ」
「奥様!」
地下牢の壁には、小さな穴が空いていた。
玖狐はそこを通ってきたのだろうが、美晴の身体で通り抜けるのは不可能だ。
苦しそうに咳き込む美晴を見て、玖狐の瞳が迷うように揺れた。
美晴と共に、ここを出る方法はある。
しかしそのためには、玖狐は美晴の前で本来の姿に戻る必要があった。
玖狐は怖かった。たとえ美晴でも、元の姿を知れば、もう二度と撫でてくれなくなるかもしれない。怖いと、怯えられてしまうかもしれない。
それでも、自分より玖狐を気遣う美晴を見て、玖狐はついに覚悟を決めた。
ぶわりと広がった尾は、地下牢を埋め尽くすほど巨大だ。
立派な体躯は狼よりも大きく、額と足には黒い模様が描かれている。九つに分かれた尾を操り、美晴を保護するように包んだ玖狐は、地下牢の壁に向かって青白い狐火を吐いた。
凄まじい音を立てて、壁が崩れていく。
尾で瓦礫を払った玖狐は、呆然と佇む美晴を見て、ぺたりと耳を垂らした。
「こんちゃん、だよね……?」
『……そうです奥様』
美晴の反応を見るのが怖くて、玖狐は思わず視線を逸らしてしまう。
ほんの僅かな時間が、玖狐には永遠のようにも思えた。
「も、もふもふだ……!」
想像と違う反応に、玖狐が大きく目を見開く。
「こんなにもふもふで強いなんて……すごいねこんちゃん!」
毛量と強さに関係はないのだが、そんな些細なことはどうでも良くなるほど、玖狐は目を輝かせて笑う美晴に釘付けになっていた。
玖狐を見て真っ先に口にした言葉がもふもふだなんて、ちょっとおかしな人だ。
けれどそのおかしさが、玖狐はたまらなく素敵だと思った。
「こんちゃん。私、神夜くんのところへ行かなくちゃ。連れて行ってくれる?」
『お任せください、奥様!』
美晴が乗りやすいように、玖狐が身をかがめる。
空へと駆ける玖狐の背からは、炎に包まれる屋敷と、祈るように手を合わせた村の住民たち、そして──裏山を覆うように出現した黒いドームのような物が見えた。
「こんちゃん、あの上から私を落としてくれる?」
『危険です奥様! あの壁に触れれば、どうなるか分かりません!』
「それでもいいの。お願い、こんちゃん」
『奥様……』
ドームの周りには雷雨が吹き荒れており、近づくだけで怪我をしそうなほどだった。けれど美晴は、あのドームが自分を傷つけることはないように思えた。
『奥様……お気をつけて』
「ありがとうこんちゃん。必ず神夜くんと一緒に戻ってくるから、大丈夫だよ」
神夜はきっと、今も美晴のことを呼んでいる。だから、絶対に大丈夫なのだ。
落下していく身体に雨粒が当たる。
目を閉じた美晴の身体が、球体の表面に触れた。
◆ ◆ ◇ ◇
静かだ。
まるで台風の目のように、辺りには穏やかな空気が流れている。
さらさらとした生地の感触と、頭を撫でる冷んやりとした体温に、美晴はゆっくりと瞼を開いた。
「美晴はいつも、空から降ってくるね」
「……神夜くんなら、受け止めてくれるかなって」
えへへと笑う美晴に、神夜も柔らかく微笑む。
「あのね、神夜くん。約束……忘れててごめんね。遅くなって、本当にごめんなさい」
おぼろげに揺らいだ瞳に、淡い光が差し込んでいく。
期待と不安をないまぜにしたような表情が、美晴のことをじっと見つめた。
「神夜くん。私、大きくなったよ。だから──私と結婚してくれますか?」
宵に朝日が溶けたような笑みに、美晴は思わず息を呑んだ。
見惚れる美晴の顔に、狐のお面が被せられる。
「え、あの……神夜くん?」
慌てる美晴の耳元で、神夜が返事を囁いた。
お面越しに触れ合った唇が、微かな熱を残して離れていく。
固まる美晴に向けて、いつもの飄々とした雰囲気を纏った神夜が「そういえば」と呟いた。
「罰ゲーム、二つ追加だからね〜」
◆ ◇ ◇ ◇
畳に寝転がりスイカを齧る玲央に、鬼のお面を被った男が近づいていく。
「あいつら、面の交換を終えたらしいぜ。これで正式な夫婦ってわけだ。めでてぇな」
「……あっそ」
「どした? なんか不機嫌だな、玲央」
お面を外した男は、玲央の隣に腰掛けると、不思議そうに顔を覗き込んでいる。
「クソ野郎共は?」
「あー、あの夫婦なぁ。祟りの影響をモロに受けて、どっかの病院に入れられてたぜ。ある意味、死ぬよりつれぇかもな」
ケラケラと笑う男の言葉に、玲央は当然だと言わんばかりに鼻を鳴らした。身体を起こした玲央が、男の灰色の目を真っ直ぐに見つめる。
「おい、暁。お前、あいつと知り合いだったよな?」
「んー? まあ、腐れ縁みたいなもんだけどな」
何故そんなことを聞くんだと眉を顰める暁に、玲央はにいっと唇を吊り上げた。
「伴侶のいる面妖同士は、領域間の交流ができんだろ? あいつんとこ連れてけ」
「え、マジで言ってる? つってもなぁ……あいつ怖ぇんだよ」
「その怖ぇのに、こっちは美晴を取られてんだよ」
「あー、なるほど。それで不機嫌だったわけ……」
理由が分かったことで、暁が苦笑いを浮かべる。
ぐしゃりと髪を崩した暁は、仕方がないと言うように立ち上がった。
「愛しい妻の頼みだからなぁ。叶えてやりますか」
◆ ◆ ◇ ◇
「うわ、最悪」
縁側から庭園を眺めていた美晴は、突然不機嫌そうに呟いた神夜を見て、きょとんと首を傾げている。
「どうしたの……?」
「新婚の邪魔をしに、鬼が来るんだってさ〜」
ぴたりと身体を寄せてくる神夜の頭を、美晴がよしよしと撫でた。
仲睦まじい二人の姿に、苑寿と刀喰は顔を見合わせると、静かに部屋を出ていく。庭園の奥からは、ふわふわと揺れる玖狐の尻尾が覗いていた。
「でも、神夜くんのお友達なんでしょ? 私はこれからもずっと一緒にいられるし……ね?」
「友達というより、ただの腐れ縁だけどね」
宥める美晴に仕方がないとため息をついた神夜は、何処からか取り出したお面を美晴の顔に被せている。
「面妖がお面を被せる意味、知ってる?」
「ううん。どういう意味なの?」
ずらしたお面の片側から顔を覗かせる美晴に、神夜がゆるりと目を細めた。
「愛してる」
美晴の手から、お面が滑り落ちていく。
真っ赤に染まった美晴が、身体を小刻みに震わせる。
カラカラと転がっていくお面のように、神夜はくすりと吹き出した後、軽やかな笑い声を上げた。
面妖寵愛婚姻譚 【 完 】