第一面 狐面の青年
胡桃色の髪が靡く。
高校の制服を身に纏ったまま、美晴は食材の入った袋を手に、家への帰路を急いでいた。
都会は人通りが多く、常に肩が触れそうになる。
よろけそうになる足を踏ん張り、重い袋を持ち直した美晴が、十字路に差し掛かった時だった。
路肩に停められていた車のドアが開かれ、中から数人の男が降りてくる。男たちは一直線に美晴の元へ向かってくると、立ち塞がるように歩みを止めた。
「小鳥遊 美晴様ですね」
「……そう、ですけど……」
「御当主がお待ちです。どうぞこちらへ」
男が示す先には、ドアが開いたままの車がある。
御当主とは誰のことなのか。嫌な予感がして、美晴はじりじりと男たちから距離を取ろうとした。
「……っ」
「失礼。ご協力いただけない場合は、少々手荒な真似も許可されておりますので」
いつの間にか、美晴を囲むように男たちが立っていた。
背後から鼻と口を覆うように布が当てられ、薬品のにおいが充満する。
美晴の耳に最後に届いたのは、車のドアが閉まる音だった。
◆ ◆ ◆ ◆
目を覚ました美晴の視界に、見慣れない天井が映る。
畳のにおいが漂う部屋で、美晴はぱちりと目を瞬いた。
「お目覚めですか」
傍に控えていた使用人の女が、美晴に声をかける。
身体を起こすのに手を貸すと、使用人は美晴に準備をするよう伝えた。
「準備って何の……」
「勿論、当主様にお会いするためのです。身支度を手伝いますので、立っていただけますか?」
「え……あ、はい……」
覚束ない足取りで立ち上がった美晴の服を、使用人は淡々と整えていく。髪を結われ、化粧を施され、華やかな着物を纏った美晴は、何が何だか分からないうちに、何処ぞのお嬢様へと早変わりしていた。
「では、こちらへ」
使用人に案内され、長い廊下を進む。
「当主様。連れて参りました」
広い座敷の中には、老齢の女が座っていた。
当主と呼ばれたその女は、美晴を見るなり冷ややかな眼差しを向けている。
「やはり似てるわね」
「あの……」
「そこに座りなさい。貴女のことは、既に調べさせてもらいました」
高圧的な声に、美晴の肩が小さく震えた。
ちゃぶ台を挟み、対面の座布団へそっと腰を下ろす。
「私の名は、小鳥遊 鈴世。この小鳥遊家の当主であり、貴女の祖母に当たります」
鈴世の言葉に、美晴が目を見開く。
「……それって……」
「まだ話は終わっていません。全く、見た目以外はとんだ出来損ないに育ったものね。あの男に似て、愚鈍で気弱だわ。……いえ、そもそも貴女を育てたのは、それ以下の塵だったわね」
口を閉じた美晴が、黙って俯いた。
その姿すら疎ましげに、鈴世は眉間に皺を寄せている。
「あの男は娘を誑かして駆け落ちしたあげく、生まれた子を叔父夫婦に押し付け消息を絶った。おかげで小鳥遊家には、跡取りが一人もいない」
不穏な空気が漂い始め、美晴は緊張から膝の上の手を握り締めた。
「美晴さん。貴女には、親の犯した愚行を償う責任があるの。この家に跡取りを設けるため、近いうちに私の選んだ者と結婚してもらいます」
「……結婚!? そんな……っ、私まだ高校生で……!」
「私も十八の時に結婚したのよ。充分すぎるくらいだわ。それに、ここを出ても帰る場所はないのに、いったいどうするつもりなの?」
「それは……どういう……」
顔色を悪くする美晴を目にして、鈴世は嘲るように鼻を鳴らしている。
「少しお金をちらつかせただけで、すぐに手放すと決めたそうよ。そもそも、貴女を養子にしなかったのも、いずれは追い出す算段だったのかもしれないわね」
鈴世の言う通り、美晴は叔父夫婦にとって都合のいい居候に過ぎなかった。
母方の苗字を使っていたのも、叔父夫婦とその息子が、美晴と同じになることを極度に嫌がったからだ。
召使いのように扱われる中、美晴は高校卒業と共に家を出るため、必死で勉学に励んでいた。
「これで分かったわね? 貴女は私に従うしかないの。愚鈍な男の子供でも、半分は小鳥遊の血を引いている。何人か生めば、一人くらいはましなのが混じっているはずよ」
鈴世の話が、頭の中で反響している。
ふと気づけば、美晴は着替えた時と同じ部屋に戻っていた。
ぼうっと布団の上に座り込み、虚空を眺める。
叔父夫婦と離れられた代償が、見ず知らずの相手との結婚だなんて。
──また……痛い思いをさせられるかもしれない。
無意識に震えた身体は、寒さからくるものではなかった。
恐る恐る部屋の障子を開けると、澄んだ空気が流れ込んでくる。裏山の緑が目に映り、都会とは正反対の景色に、美晴の心が少しだけ踊った。
美晴は気弱だが、馬鹿ではない。
このままここに居ても、以前と何ら変わらない地獄が待っていることを、頭のどこかでは既に理解していた。
鈴世は美晴を侮り、見張りは特に付けていないようだった。
夜になり、屋敷の中が静まったのを確認すると、美晴は再び障子をそっと開いた。制服も鞄も使用人に持ち去られてしまったため、寝巻き姿で縁側に出る。
庭へと下りた美晴は、裸足のまま地面の上を歩き始めた。下駄は置いてあったが、音が鳴りやすいため止めておくことにしたのだ。
裏山までの道を、美晴は裸足で進み続けた。
美晴が叔父夫婦の理不尽に耐えてこられたのは、奨学金のある大学に合格し、一人暮らしを始めるという目標があったからだ。それが潰えた今、美晴を縛るものは何もありはしない。痛いのは苦手だが、祖母の元から逃げるためなら、足の怪我など大したことではなかった。
不意に、屋敷の方で明かりが灯った。
騒つく音は、美晴が居ないことに気づいた者たちの叫び声だろう。
ここで捕まれば、次は逃げる機会さえ与えられないはずだ。美晴は裏山を登り、木々の間を無我夢中で駆けた。
鈴世の誤算は、美晴に逃げる度胸などないと思い込んでいたことだ。気弱な美晴だが、ひとたび決断した後の行動は、とてつもなく大胆になることがある。
対して美晴の誤算は、大胆すぎるが故に、自身の運動能力が皆無だということを、しばしば忘れてしまう点にあった。
「……あ」
足を滑らせた美晴が、咄嗟に近くの木を掴もうとする。
しかし、美晴が掴めると思っていた木は、全くかすりもしない位置にあった。
傾いた身体は、土砂で出来た崖を落ちていく。
──このまま死ぬのかな。
あっけない最期に、死を覚悟した美晴が瞼を瞑った時だった。
ふわり……と、身体が浮遊するような感覚がした。
目を開けた美晴の視界に、お面を被った人影が映る。
「……きつね……?」
呟いたのも束の間、再び落下していく身体に、美晴は強く瞼を閉じた。
鈍い音が鳴り、次いで、カラカラと何かが転がっていく音が響く。ゆっくりと目を開けた美晴の視界に、黒い着物が飛び込んできた。
「ねぇ、君。大丈夫?」
声のする方に視線を向けた美晴は、衝撃のあまり石のように固まった。
漆黒の髪と、白磁の肌。少し長い前髪の下からは、桔梗色の瞳が覗いている。
どこか妖しげな容貌は、美しさの中に甘さを内包しており、青年が微笑むだけで愛嬌さえ感じられた。