5月4日
泣き疲れて眠り、目が覚めればすでに夕焼けも消えかけようとしていた。なにもする気になれず、シャワーだけ浴びると翼はまたベッドに潜り込んだ。
いつのまにか、また眠って朝が来て、ごろごろしているうちに昼が過ぎていた。空腹は感じなかったものの、辛うじての理性で冷蔵庫のヨーグルトをチビチビと食べた。
「寝過ぎて頭痛い……」
プレーンヨーグルトをようやく3分の1ほど食べると、やっと思考が動き始めたような気がした。何日前から干しているか思い出せない洗濯物を片付けて、ついでに空を見上げた。
「青だ」
人ひとりが立ってやっとのベランダで、間抜けにつぶやいた。
空の色は、あの世界と繋がっているかのような同じ青色だった。
ベランダから見下ろす世界は、せせこましくて窮屈に見える。それなのに、視界に入ったあの路地も、あの店も翼は入ったことがない。
すべての伝説を集めるために奔走したゲームとちがって、翼はこの現実のことをなにひとつ知ろうとしていなかったのだなと、突然気づいてしまった。
「レベル10くらいのままで、危ないダンジョンには入らず、ひたすら街をただウロウロしてるだけの人って感じかな」
今の翼は――。
「あ、ちがう……俺ってここじゃ、ただのNPCか」
レベルも会話もなにひとつ変わることがない。ひたすら同じ動きをする、ただ存在するだけの存在だ。
洗濯物を片付けて部屋に掃除機をかけると、翼はなんとなく着替えて外にでた。燦々と照りつける午後の太陽が、ジリジリと肌を焦がしていく。まぶしいだけの太陽じゃなくて、ここにはちゃんと熱がある。汗で滑るメガネを指で押し上げ、翼はグッと腹に力を入れた。
電車に乗って2駅。ひさしぶりにアニメショップに立ち寄った。店の一角にはサ終が発表されたARK LEGENDが特集されている。ただし、長く続いたコンテンツということもあって、グッズなどはもうあまり出ていないようだ。翼はもともとグッズには興味がなくて、課金先はもっぱらゲーム内のアイテムだった。
「あ、ブタ……」
ワゴンにまとめられたストラップのなかに、どこか間抜けなブタがいくつも混ざっている。どうやら人気がなくて大量に売れ残っているらしい。
ユーリはこのブタが好きなんだと言っていた。
翼はなんとなくその木彫りのブタのストラップを5つ持ってレジに向かった。
連休ということもあってか、レジはちょっとした列になっている。
――マイマイってアーレジェやってたんだっけ?
――うん。全然進んでないけどね。結構根気いるから難しいんだよ。
少しうしろに並んだ女の子2人がそんな話をしている。
――アバター作れるんでしょ?
――そうなの! 今はマイラバのカイトにしてるんだ。
そうだ。アバターが男だからっていって、中身も男とは限らない。こうやって、自分の推しキャラを作る人だっている。声だって変えられるから、実際はユーリだって中身は女性かも知れないのだ。
まぁ、しゃべり方とかいろいろ、まちがいなく男性だろうけど。
レジがまた進んであと2人で翼の順番になる。
――サ終なんでしょ? やってる?
――一応ログインしたけど、なんか人いっぱいで動き悪くて……。
――いつサ終だっけ?
――え、いつだったかな? 連休明けだったけど。
最終日はなにかあるかも知れないから、ログインだけはしようと思ってた。そんなつぶやきが続く。
また順番が近づいて、翼はポケットから決済用に携帯端末を取りだした。
――えっとね……5月の……え? あれ? 緊急終了!?
女の子の慌てた声がそこで途切れた。あまりに気になってそっとうしろを振り返る。女の子はなにか調べているのか、素早い指が携帯端末を操作していた。
「次の方どうぞ」
レジの店員に呼ばれて、木彫りのブタをトレイに乗せる。
「1,925円です。ポイントカードはお持ちですか?」
「いえ……qayqayでお願いします」
バーコードが表示された端末を店員に差し出し決済を完了する。ブタが5個入った袋を受け取って、レジを離れた。
――システムトラブルで緊急終了、明日だって! どうしよう。
焦った女の子の声が遠くなる。店を出た翼は、壁際に立つと手に持ったままだった端末を操作した。
「公式かな……」
もしかすると、あの女の子がデマに引っかかっている場合もある。ネットではよくあることだ。とにかく裏付けを取るところから……そう深呼吸をしつつ、翼は公式のサイトを開いた。
「緊急のお知らせ……え……ホントなんだ……」
ARK LEGENDのトップページにはこれまであった、サービス終了のお知らせに変わって、大きな赤文字が強調されている。
「5日18時をもちましてサービス終了となります……システムトラブルってこのタイミングでなにがあったんだろ……」
いつもなら、プログラムなどに詳しいユーリがなにかしら予想を教えてくれていた。今の翼はなにがあったかなんて、想像もできない。
「明日の夕方で終わっちゃうんだ……」
本来なら、まだ少し心の準備ができるはずだった。
「伝説、見つけられててよかった」
もし見つかってなかったら、ユーリはきっと悔しい思いをしただろうから。そんなことを考えて、知らず顔が緩んでいた。ユーリが満足できただろうことがうれしい。
「俺も最後はちゃんと見よう」
翼は端末をポケットに入れると、ゆっくり帰路についた。電車に揺られながら、木彫りのブタをひとつ開封して携帯端末に取り付ける。
いつもならアレックスがいるかもしれないとコンビニに立ち寄るか迷うところを、気づけば自宅マンションのエレベータに乗っていた。
珍しく鍋を出して、袋ラーメンを作り、フリーズドライの野菜を山盛り煮込んだ。冷凍のカボチャの煮物をレンジで温め、翼はしばらくぶりにそこそこまともな食事を平らげた。
終わるんだ。その現実が、翼に覚悟を突き付けていた。
もう翼に逃げ場はない。
この世界しか残らない。