表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/14

4月25日

「田中さん、K商事からの仕入れに返品が出たので週明け月曜に……」

 管理部2年目の女子社員がどこかヘラヘラとした顔でそんなことを伝えてきた。断るなんて思ってもいないのだろう。実際、今日じゃなかったら翼も頷いていた。

 だけど、今は余裕がない。

 今は25日の午後で、ここ1週間これまでになく仕事に打ち込んだ。業務終了まであと数時間。翼は疲れの溜まった身体にエナジードリンクで活を入れ、大きく伸びをしたところだった。

「急ぎでしたら今すぐ処理します」

「え……でも、まだ伝票が」

 それなら、決済が下りてから持って来いよ。二度手間だろ。つか、予定入れとけっていう予防線かよ。ふざけんな。心のなかで罵詈雑言をまき散らすと、翼は意図してゆっくりと口を開いた。

「でしたら処理は5月7日、もしくは12日になります」

「それはいくらなんでも……! 30日でもいいので」

「有休取ってるので無理です」

「月末なのに!?」

 悲鳴のように責められたところで知ったことじゃない。

「有休申請は受理されていますし、なにか問題でもありますか? 休みのあいだのことは高梨課長に伝えていますので、急ぎでしたら課長のほうに頼んでください」

 そもそも20日締めまでの分はすでに処理が済んでいる。締日以降を今月中に入れ込みたいのはそっちの都合だろう。来月の処理に回したってなんの問題もない。もちろん、課長に言ったところでそう返されるだろう。

『なにあれ! 言い方ってあるじゃない!?』

『田中さん。ここ最近珍しく残業とかしてるの、有休取るためだったんですね』

『連休つなげて、ってやっぱり彼女とかかな?』

『……そんな……けど、まさかなぁ』

 チラチラと視線を感じるのを苛立ちながら、翼は聞こえない振りを通していた。あんなやつらに構っている暇はないのだ。仕事をきっちり終わらせて、ARK LEGENDのことだけに集中したい。

『てか、7日まで来ないって言ってたよな? やばっ』

『あ、俺も!』

 にわかに慌て始めた同僚たちの気配に嫌な予感がした。

「田中! 悪い、この伝票!」

「俺のも! 月末までなんだ!」

 今日は定時退社の予定だったのに。どうしてこうも翼の邪魔をするのだろう。もういっそ投げ出して帰ってしまおうか。それでも、そんな勇気が自分にないこともよく分かっている。

「……なんで今出すんですか……これ、日付が4月頭ですよね……」

 内心に留めるはずの言葉が口から出てしまう。気まずそうな同僚たちが、どうやら本気で頭を下げている。

「田中ならいつでもいるし大丈夫かなーって油断してた」

「マジで悪かった。さすがに期限過ぎるのはやばいんで、お願いします!」

 平身低頭謝られては断ることもできない。奥歯を軽く噛みしめながらも伝票を受け取るしかない。

「……って、これ決済まだじゃないですか! これじゃ処理できませんよ!」

「え、マジ!? 脇中部長って今日いた!?」

「多分ラインのほうに入ってたと思いますよー!」

「サンキュ。行ってくる! 田中、頼むからちょっと待ってて!」

 駆け出す背中を慌てて引き止める。今から工場まで走って戻ってくるのを待つのはごめんだ。

「週明け、高梨課長に言ってくださいよ!」

「やだよ! 課長怖いもん! 全力ダッシュで行ってくるから!」

 段々小さくなる声にどうしようもなくうなだれる。そんな翼を気の毒そうに見つめるもうひとりが、おずおずと伝票を差しだしてきた。そちらには不備もなく、管理システムに入力を済ませて処理伝票を発行する。助かったと胸を撫で下ろす同僚を横目に、ついていない自分を軽く呪った。

『そういえば、田中さんが休んでるの見たことないかも』

『新入社員のころに1回、慶弔休暇取ってたぞ』

『それだけですか?』

『……』

『ってことは、やっぱり彼女……いや、結婚とか……』

 翼が空気なのをいいことに、好き勝手噂するのはどうかと思う。これが勝手に一人歩きしていくかと思うとゾッとする。

 翼は大きくデスクに手を押しつけて立ち上がると、噂の大元を振り返った。

「ただの! リフレッシュ休暇です!!」

 恐らくこれまでで最も大きな声でそう宣言すると、内線電話を手に取った。

「すみません。今、管理部の菊池さんが脇中部長の決済をいただきに向かっているので……はい、急ぎみたいで。よろしくお願いします」

 これ以上、予定を狂わされてなるものか。その一心で、電話に向かってお辞儀をすると、戻ってきた伝票を秒で処理できるようパソコンに向き直った。

 こんな必死に仕事に向き合うなんて嫌なのに。決められた業務を無難にこなして、高くもない給料の代わりに、責任のない地位で適当に過ごしていたいのに。

『田中さんって、もしかして結構有能……?』

『やる気はなさそうだけど、そういえばミスとかしないわよね』

 ミスなんて無駄な時間がかかることをするわけないじゃないか。有能なんかになりたくない。目立たず、騒がず、いてもいなくても変わらないようなそんな存在でいたいのだ。

 とにかく、今は早く家に帰りたい――!


 結局、タイムカードの刻印は20時を過ぎていた。あれから、翼が有休で長期連休に入ると知ったほうぼうから、大量の伝票がやってきたのだ。月末までだと頼まれては、断ることもできない。

「3時間も残業するとか不覚すぎる……」

 ともあれ、休暇前の業務はすべて片付けた。これで心置きなく家にこもってゲームができる。

「スーパーは確か9時閉店だよな……コンビニでいっか」

 とにかく、明日からの引きこもりに向けて食料等々を調達しなければならない。いつものコンビニは時間帯のせいか弁当もほとんど残っておらず、翼はかたっぱしからインスタント麺と冷凍食品をカゴに入れていった。

「あとは、一応エナドリと……アイスも買っとこ。足りなきゃ最悪、宅配でもいいし」

 大量に買い込んだカゴは重みで腕が痛いほどだ。もういいだろうとレジを振り向いたところで、金色の頭が横切った。

 アレックスだ。いつ店内に入ってきたんだろう。買い物に集中しすぎて気づいていなかった。今日はもう帰るところなのか、同僚たちは一緒じゃなくて、アレックスの買い物も翼と似たようなラインナップだ。

「アレックスも明日から休みなのかなぁ……」

 アレックスなら、長期休みにちょっと海外へ……なんてのがしっくりきそうだ。それでも、自分と似たり寄ったりな買い物にちょっとした親近感を覚えてうれしくなってしまう。

「あ、そういやシャンプーなかった……」

 どうしようか。いつもはドラッグストアで買っている。コンビニには旅行用程度の小さなセットしかないうえにとんでもなく割高だ。翼ごときの髪に有名ブランドのシャンプーなんか必要ない。だが、数日前からだましだまし薄めて使っていたシャンプーは、すでに出がらしを通り越して泡も立たない。

 今からこの荷物を持ってドラッグストアへ? いや、無理。脳内ですっぱり諦めると、翼は棚から一番安いシャンプーとコンディショナーのセットをカゴに放り込んだ。

「帰ったらImazonで注文しよ」

 翼が悩んでいるうちに、アレックスがレジに並んでいた。こんなラッキーがあっていいのかとドキドキしながらそのうしろに並ぶ。

 ――うわぁ。背高いなぁ。180は軽くあるよな……筋肉もすげぇ。しかもなんかいい匂いするし。金髪むっちゃサラサラだ。触ってみたいなぁ。つうか、前のオッサンどれだけ公共料金溜め込んでんだよ。いや、もっと時間かかっていい、アレックスの近くにいれるなんて滅多にないし。けど、ヤバいコレ、腕が限界かも。

 紙パックの麦茶5本に、山盛りの食料を入れたカゴ2つ分の重量は伊達じゃない。プルプルし始めた腕に最後の力を振り絞る。床に置こうかとも思ったが、さすがにプライドが邪魔をした。

 ――うー早く終われよー……いや、まだ終わらなくていいかなぁ。

 葛藤に先頭客の背中を睨んでいると、やっと会計を終えた客がレジを離れた。ホッとすると同時に残念な気分が押し寄せる。

 そのとき、前に進むかと思ったアレックスが振り返った。

「よかったらお先にどうぞ」

 にっこりと笑いかけられ、とっさに動けなかった。

「重そうなので」

 そうレジを指してくれるアレックスのカゴも、翼とあまり変わらない。違うのは、アレックスの太い腕はそれを軽々と持っていることだ。

「いや、あの……あ、ありがとうござい……ます」

 バカみたいにどもって、なんとかおかしな会釈をした。ギクシャクとカゴを持ち上げ、めんどくさそうなバイトがバーコードを読み取るのを呆然と見つめる。

 5,682円です。バイトの声にボーッとしたまま携帯端末の決済アプリを提示し、パンパンに詰まった袋を3つ持ち上げる。

「……ありがとうございました。お先です……」

 辛うじてそう口にしてレジから離れた。

「お気を付けて」

 アレックスの声が背中にかかる。少し低い、落ち着いた声だ。振り返ってもう一度会釈をすると、フワフワした気分のままコンビニをあとにした。

 今日はなんていい日なんだろう。これはここしばらく仕事をがんばった自分へ、神様からのご褒美なんじゃないだろうか。まさか、あのアレックスと会話ができるなんて。しかも紳士で優しくて……。

「うわぁぁぁ! なんでもっとまともにしゃべれなかったんだよ、俺ぇ! あんなの不審者じゃん! 『いえ、大丈夫です。お気になさらず』とか返してたら、もうちょっと近くにいれたかも知れねぇのに!」

 マンションの部屋に戻り、限界の腕から袋を床に投げ出すと、翼は帰路に溜め込んでいた感情を一気に吐き出した。

「俺のバカ。わかってるけど……けど、サイコーの日だよ。なんだよ、明日死ぬのか? いいよ死んでも、本望だよ!」

 ぶつくさ言いながら、小さな冷蔵庫に買い込んだ食料品を無理やり詰め込み、入りきらない菓子類は棚に片付ける。

「とにかく! 今日はさっさと寝て疲れを取る! 明日からはずっとユーリとゲームできるんだし!」

 そう、ユーリはアレックスそっくりなアバターで、こっちとは普通に会話もできる。自分は実のところ結構恵まれているんじゃないのだろうか。

 しっかりと泡立つシャンプーでシャワーを済ませ、忘れないうちにとネットでいつものシャンプーを注文する。いい日のお祝いだと、ちょっとお高いカップ麺を選んで夕食を済ますと、翼はさっさとベッドに潜り込んだ。

 いつになく全力で仕事を突っ走っていたせいで、気力も体力も限界だったのだ。ちょっとSNSでも……そう端末を手にしながら、翼は次の瞬間には寝落ちしていた。


 夢の中で、またコンビニのレジにアレックスが並んでいる。そのうしろに並びながら大きく深呼吸をした。会計を済ませたアレックスが店を出る。翼もまた会計を済ませて店を出ると、そこにはなぜかアレックスが待っていた。

 ――こんばんは。よく会いますね。

 話しかけられ真っ白になったところに、なぜか口が勝手に動いた。

 ――いや、初めてですけど?

「っなんでだよ!!!!!」

 叫んだ自分の声に飛び起きた。カーテンからは朝の日差しが差し込んでいる。カクカクとベッドボードの時計を見ると、時刻はすでに9時を過ぎていた。

「12時間近く寝てんじゃん……なのに、疲れた……」

 起きる間際の夢のせいだ。せっかくアレックスが話しかけてくれたのに、なんで嘘なんかついたんだ。

「くっそー……続き見れるかな……今度は絶対……」

 絶対どうしようか。夢なんだからなんだってありだ。

「や、夢でも傷つきそうだし、続き見なくていいかも……」

 虫ケラを見るような目で見下ろされたら立ち直れないかも。それなら、ただ遠くから見ているだけのほうがずっといい。

「とにかく、今日から休み! さっさと朝メシ食ってログインしよ」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ