5月12日
「田中さぁぁん!! 来てくれた!!」
いつもどおりの時刻にタイムカードを押すと、部内の同僚たちが一斉にざわめいた。そのなかのひとりが抱きつかんばかりに駆け寄ってくるのをなんとか躱す。
「田中ぁ! こんなにおまえの存在がでかかったって実感したぞ!」
「戻ってきてくれなかったらどうしようかと」
演技がかった連中を無視して、翼は高梨のデスクに向かった。
「無断欠勤でご迷惑をおかけしました」
すでに事情は知っているだろうが、パフォーマンスは必要だ。そもそも、翼の欠勤理由は社内でどう連絡されているのだろう。
「ご実家のほう、大変でしたね」
自分の席につくと、隣の女性社員が気の毒そうに話しかけてくる。なるほど、実家のほうの事情だと言われているのか。
「いえ、ご迷惑をおかけして……」
ご愁傷様でした……ごにょごにょ、の感じで語尾を適当にごまかし、パソコンを立ち上げる。ふと、デスクに積まれたクリアファイルを手に取って愕然とした。
「田中、悪いがそれ午前中で頼む」
「これもなんだけど、ギリ12時までは待ってもらえるから」
「こっちは今日中で大丈夫です!」
次々と仕事が降りかかり、思わず叫んだ。
「なんで、そんなにギリギリになってるんですか!? これとか、受け付け先週ですよね!?」
翼がいなくても決済に支障はない。翼の仕事など下っ端も下っ端で、誰だって代わりの務まるものだ。そもそも、休暇に入るまでの仕事はぜんぶ片付けて行っていたはずで、その日必要な処理だけなら誰でも代行できるはずだった。
「やったよ。金曜までの分は死ぬ気で!」
「週明けの分までは間に合わなかったんだよぉ」
「田中さん、これで毎日定時退社とか、どんな処理速度してんですか!?」
なにひとつ翼は悪くないはずなのに、なぜか責められるような構図が納得いかない。奥の机では高梨が必死で笑いを堪えている。以外と笑い上戸なのかも知れない。
「田中が休んで初めてその偉大さに気づいたらしいぞ」
そこで耐えきれなくなったのか、高梨が爆笑した。
「課長! 笑いすぎですよ!」
「マジで死ぬかと思いました」
「そういうことで、田中の仕事量が多すぎるんじゃないかという話になってな。分担を振り振ろうかと思うんだがどうだ?」
まだ笑いの残る声がそう聞いてくる。
「いえ、いいです」
「どうして?」
「俺としては充分その日のうちに処理できる量ですし、割り振るとなったら引き継ぎとかいるじゃないですか」
正直そっちのほうが面倒だ。翼のモットーは、全力を出さず無理せず定時退社だ。
「とにかく、急ぎの分は先に処理するので、しばらく話しかけないでください」
この未決済ファイルの量を見るに、下手すればまた残業だ。体力も戻っていないのに残業なんて真っ平御免だし、仕事を明日に持ち越すのも嫌だ。
確固たる意思でパソコンに向かうと、翼は一心不乱に仕事を片付け始めた。いつも以上に視線が鬱陶しいが構っている暇はない。
処理するあいだにも、今日の処理分がまた増えていく。
――あいつ、こえぇ……。
――てか、もう休まないでくれ……俺たちには無理だ……。
「有休は権利です!」
こそこそと聞こえた到底受け入れられない願いを却下して、またキーボードを叩く。
「けど、今後はこのように急な欠勤はないように気をつけます」
そのたびに仕事が山積みになるのも勘弁だ。
いつもと少し違う視線にさらされながらも、定時2時間遅れでなんとか仕事を終えることができた。
「残業手当より家に帰りたいんだよ、俺は……」
ぶつぶつ文句を言いつつ会社をあとにする。ちょうどタイミングの合った高梨に会釈をすると、なぜかそのまま並んで歩く羽目になった。
「体調は大丈夫か?」
「そちらは問題ないです。入院中動かなかった分、体力は低下してますけど、まぁ元々体力ないので」
「それはよかった。ARCさんのほうから、田中の欠勤した分の補償をしたいと申し出があったよ」
「そんなの、別に損害なんてないでしょう?」
「まぁな。だから、おまえのほうに休業補償として支払ってもらうように頼んだ」
「けど、俺まだ有休残ってたし……」
「欠勤扱いにしてるよ。だから有休はそのままだ」
「……ありがとうございます」
「なにかあったらすぐ病院行けよ」
そう手を振って、高梨は駅のほうへと曲がっていった。
「思ったより、大事になってるよなぁ……やめてくれよ」
翼は目立たず平穏に、無理なく過ごしたいのだ。
随分と日が長くなり、ようやく夕焼けが空をオレンジに染めている。ビルだらけの空も、色だけはあの世界と同じだ。
「あ、N1くじ今日からじゃん。コンビニ寄って帰ろう」
ついでに、適当な夕食も選んで。寄り道をいつものコンビニに決めると、翼はなにも考えることなく店に入った。
しばらく悩んで、いつもより少しだけ野菜多めの惣菜を選ぶ。重くなりすぎるからと、麦茶は1本だけにして、安価なチョコをひとつカゴに入れた。
「すみません。ARK LEGENDのN1くじお願いします」
レジにカゴを載せると、うしろに張られたくじ引きのポスターを指差す。
「何回されますか?」
スタッフに聞かれて少し考えた。くじはすでに結構な量がめくられている。
「残り何個ですか?」
「えっと……10……12個ですね」
1回550円だから6,600円。出費としては痛いが、まぁいいか。ラストワン賞の大判アクリルパネルは美しいアンスターチェ山脈のグラフィックで、ぜひとも手元に置いておきたい。
「じゃあ、残り全部お願いします」
「はい。そしたら、全部で8,125円になります。あ、いらっしゃいませー」
翼の対応をしながら、スタッフが入ってきた客にあいさつをしている。数人の客が、翼のうしろを抜けて、惣菜コーナーへと移動していた。
「お支払いはどうしますか?」
「あ、qayqayで……」
答えながらスーツのポケットから端末を取りだした。木彫りのブタが揺れる画面を、レジのスタッフへと向ける。
あ、あのシークレットのシルエット、もしかして。
スタッフがバーコードを読む合間にまたポスターへと視線が吸い寄せられた。
qayqay!
端末が間抜けな鳴き声を立てる。
「カナタ!!」
その瞬間、端末ごと手首が捕まえられた。驚きに心臓が止まりそうになりながらも、反射的に振り返る。
向こう側が隠れるくらい、大きな身体だった。金色の髪に、青い瞳が今なんて言った?
「カナタだよな!?」
「アレックス!?」
思わず叫んで見つめ合った。
「アレックス!? 誰それ!?」
金髪が頭を抱えて叫ぶ。
しまった。アレックスは翼が勝手につけた名前だ。そもそも、アレックスが誰かなんて翼は知らない。
え、けど今……カナタって言った……?
「侑利くん、どうしたの? 知り合い?」
ロングヘアの女性がふたりを覗き込む。よくアレックスといる、同僚らしき女性だ。
あれ? ……ゆうり?
「あ、よくコンビニにいる子じゃない。いっつも惣菜コーナーで悩んでるの、侑利くんがかわいいって言ってた子」
「柳田さんっ!」
焦ったようなアレックスが、にやにやとする柳田を止めている。
なにが起きているんだ?
「あの……すみません。こちら商品です」
おずおずとコンビニスタッフが大きな袋に入れられた景品を差し出してくる。機械的に受け取り、それじゃあとアレックスたちに会釈をした。
これは、さっさと退散したほうがいい案件だ。さらりと逃げようとした翼の腕は、ふたたびアレックスに捕まえられた。
そのまま、無言でコンビニの外へと連れ出される。
「カナタだよな!?」
駐車場のすみっこで問い詰められ、視線が泳いでしまう。
まさかという言葉がグルグルと頭の中で暴れていた。
「……誰のことですか……?」
この期に及んでついしらを切った翼を、キレイな青い目が捕まえる。
「アーレジェのN1くじ当日にやってて、スーツでメガネで木彫りのブタのストラップつけてるのなんて、カナタしかおらんやろ!?」
「あ、関西弁になった」
「話そらさんといて! こっちが素! めんどくさいから普段は標準語にしとるだけ!」
そんなあいだも、アレックスの手は翼の手首を握ったままだ。
ちがう。アレックスじゃない。
これはユーリだ。
「それはコミメイトNN店のワゴンで買ったやつで、カナタの家にあと4個ある!」
必死にカナタとの記憶を口にするユーリがいる。これが現実だなんて嘘だとしか思えない。
「約束や! 逃げんといて!」
ユーリの声が泣きそうに歪む。こんなにかっこよくて、堂々としているのに、翼なんかに必死でお願いしている。カナタとは似ても似つかない翼に。
「……ユーリ……嘘じゃん、こんなの……」
「嘘ちゃう!」
「だって、俺ずっとここで見てた……」
かっこよくて憧れで、言葉を交わしただけで天にも昇る心地になって。
「そや、アレックスってなんなん?」
「あ……それは……俺が勝手に名前付けてて……」
「なんで、アレックス?」
「……バトゼロのアレックスみたいだったから……」
白状した理由に、ユーリがポカンとしている。
バトゼロのアレックスに似ているアレックスに一目惚れをして、コンビニのアレックスにそっくりなユーリにゲームで声をかけて――。
「カナタの好みは分かりやすいんやな」
「言わないで……」
恥ずかしさに袋を持ったほうの手で顔を隠した。もはや、もう逃げ場なんかない。
「侑利くん、先戻るね」
「あ、はい!」
柳田がコンビニを出ていく。きっとまだ仕事中なのだ。そもそも、ユーリはARCの社員だと言っていた。その疑問が顔に出ていたのか、ユーリが少し離れたビルを指差した。
「あの6階と7階がARCの本社やで」
「マジで!?」
こんな目と鼻の先に神の会社があったなんて。そもそも、ゲーム会社の住所まで気にしていなかった。
「だからtsukiさんがすぐお見舞いに来てくれたんだ」
「え、どういうこと? 槻間さんがカナタのお見舞いって……そんなん聞いてない!」
「そりゃ、一応、俺の身元は完全に伏せてくれるって言ってたし」
それを社員に対しても守ってくれていたのだ。
それに、ユーリと現実でこんな普通にしゃべれるなんて思っていなかった。
「ユーリだ」
「そやで。今ごろ?」
「もっと、現実だったら違和感みたいなのがあると思ってた」
「なんで? だっておんなじやん」
カナタもユーリも。姿が変わっても同じだ。あっさりと答えられて、なにも言えなくなった。
だって、ずっと違う人間だと思って過ごしていた。カナタは翼なんかとちがって、かわいくて明るくて――。
「カナタ。これ……」
ユーリがポケットのサイフから名刺を差し出した。
「アングラード侑利?」
「うん」
名前を呼んだだけで侑利が満面の笑みを浮かべた。カナタが何枚もスクリーンショットを残した笑顔だ。
翼もジャケットの内ポケットから、ほとんど使うことのない名刺を取り出す。
「田中翼」
名前負けな名前を侑利に呼ばれ、恥ずかしくなる。
「翼でえぇ?」
「……田中で」
「なんでなん!?」
「翼って顔じゃないから」
「そのこだわりが分からへん!」
頭を抱えた侑利が叫ぶ。侑利にとって翼の外見なんかどうでもいいみたいだ。
「とにかく! 連絡先!」
スマホ出して。侑利にせっつかれ、もはや断る選択肢はないと連絡先を交換する。かわいらしい音と一緒に、侑利の連絡先が表示された。
「仕事終わったら連絡するから。多分あと2時間くらいで上がれる」
「あ、うん。わかった」
展開がジェットコースターすぎて、翼にはついて行けていない。
「次の休み、デートしよ」
「へっ!?」
なんで、デート。そんな思いが顔に出ていたのか、またもや侑利の目が据わる。
「恋人なんやからデートするやん」
「恋人!?」
どこでそうなった!?
「あの流れで、この奇跡で、付き合わへんとかないやん! 翼は嫌なん!?」
勝手に翼呼びになっていて、訂正するよりも混乱が先に来る。
「嫌とかそんなんじゃなくて……」
付き合うってこんな簡単でいいのだろうか。翼には経験がなさすぎて決められない。
「俺のこと好きって言ってくれたやん」
確かに言った。どうしても伝えたくて。
そう、カナタはユーリのことが好きになっていて、だから――。
「お互い好きなんやから、付き合うやろ?」
そう言われてしまえば、もう反論できない。
「俺もちゃんと翼の感触知りたい」
侑利の顔が間近になる。見慣れていたはずなのに、それが現実世界でとなると、どうしていいか分からない。
感触……感触って、それはつまり……うわぁぁ!
脳内がパニック状態になっているのに、翼の表情筋はむしろ動かなくなっている。
ただ顔が熱い。きっと情けないくらい赤くなっている。
「もう逃げたらあかんで?」
優しくささやかれ、唇が一瞬だけ掠めた。
青い目がキレイなウィンクをして離れる。
「ほな! あとで!」
手を振った侑利が仕事へと戻っていった。
呆然と立ち尽くす翼は、そのまま駐車場の隅にしゃがみこんでしまう。
「……なんだよ。なにがあったんだ……?」
翼と侑利が付き合う?
いきなり!?
しかも、感触が知りたいって、知りたいってそれってつまり、そういうことだよな!?
「いや、無理無理無理! 釣り合わないって!」
それが侑利に通じないことも分かってしまった。
逃げたらあかんで?
握ったままの端末がブルルと震えた。メッセージアプリにはアーレジェのスタンプが踊っている。
『大好き』
『あとでね』
「………………!!」
平穏な日常はもう戻ってきそうにない。
「展開早すぎだろーーー!」
灯台下暗し。
最後の伝説。
終わったということは、なにかが始まるということ――。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございます。
なかなか進展しなさそうな2人のお付き合い編もわちゃわちゃ楽しそうだな、と思いつつ……ここでいったん締めになります。
それでは、またのご縁がありますように。