4月18日
「……お先に失礼します……」
「え、あ……おつかれ」
新年度が始まって2週間ほどが過ぎた。とはいっても、新年度も3年目となれば、日常と同じだ。新人のサポートに自分が選ばれることもない。
商品管理部・田中翼。名前負けな自分の名前を確認して、退勤をタップする。タッチ式タイムカードの刻印は17時08分。事務所内はまだほとんどの社員がパソコンに向かっていた。
『あいつ、また5時ダッシュかよ』
『彼女とかいるんじゃないですか?』
『新人くんはあれで女がいると思う?』
『むっさいクソダサメガネだもんなぁ』
『単にやる気ないだけだろ。あんな風にはなるなよ?』
「聞こえてるし……」
つぶやきはパタンと閉まるドアにかき消されることを分かってて口にした。
そもそも今日の仕事は終わっている。半分以上しゃべってるだけの残業社員なんか、会社としても損なだけだろう。
「つか、今日は公式からお知らせあるらしいし、とっとと帰るに決まってるじゃん」
やる気がないというのはあながちまちがいでもない。仕事への情熱なんか給料以上は持ち合わせていないし、勤務時間外の付き合いなんてしたくもない。
「スーパーかコンビニか……」
月末給料日前の懐事情からするとスーパーで割り引きされた惣菜を購入するほうがいい。だが、スーパーに立ち寄るなら遠回りになる。コンビニエンスストアなら通り道だ。
「お知らせがなにか分かんないから今日はさっさと帰ろ」
ついでにカップ麺をいくつか買っておけば最悪給料日まで食いつなげるだろう。零細中小企業の事務方なんか、そもそも独り暮らしを謳歌するほどの給料はもらえない。
週に2、3回は立ち寄るコンビニエンスストアには、もうひとつの楽しみがある。ビルの1階に入ったコンビニエンスストアは、周辺の会社に勤めるサラリーマンたちが多く利用していて、3年も通っていればいつの間にか顔を覚えた客も多い。
入り口でカゴを手に取り、真っ直ぐに奥の冷凍食品コーナーへと進む。代わり映えのない商品を適当にカゴに放り込み、紙パックの麦茶を2本追加する。スナック菓子のコーナーを冷やかし、格安ブランドのチョコスナックを3つ選んだ。レジに行こうと振り返ったところで、賑やかに談笑する数人の客が入ってきた。
「……ラッキー……アレックスだ……」
スーパーを選ばなくて良かった。翼は商品を選ぶ振りでまた奥の惣菜コーナーへと移動した。
陳列棚の隙間から今さっき入ってきた客をチラチラとのぞき見する。ひとりだけ飛び抜けた長身の頭は、淡い金髪で柔らかそうなくせっ毛がゆらゆら揺れている。白い肌に鮮やかな青い目が、表情豊かに動くのを見るのが好きだった。
白皙の肌に金髪碧眼というとスラリとしたモデル男性を想像するが、彼は鍛えられた身体がTシャツのうえからでも良く分かる。アレックスというのは、学生のころプレイしていた格闘ゲームのバトルファイト0、通称バトゼロにいた剣士で、時々出会う彼は、そのアレックスによく似ていたのだ。
サラダを選ぶ翼の横にアレックスが並ぶ。そのガッシリとした腕が伸び、おにぎり2つとチキンバーを手に取った。
「それだけでいいの?」
アレックスと一緒に来たOLがわざわざ顔をくっつけて話しかけている。そう、あたりまえにアレックスはモテている。翼は不自然にならないように、適当に選んだサラダをカゴに入れると、彼らが視界に入らないように背を向けた。
「家に帰ってからも食べちゃうからね。今は我慢」
「今日は帰れそう?」
「多分ね。槻間さんが発表前で待機してるから、ついでに助けてくれるって」
アレックスたちは多分繁忙期で、コンビニには残業用の食料調達に来ている様子だ。バーコード決済のレジはすぐに済んでしまって、翼はそのまま店を出る。
「アレックスみたいなやつがいたら俺だって残業するのになぁ……」
さっきとは矛盾した独り言と同時に、未練がましく店内を振り返った。棚より高い金髪がレジに並んでいる。万に一つもあのなかに翼が混ざれることはない。
「早く帰ろ。ユーリ、もうログインしてるかな?」
学生時代から住んでいる6畳ワンルームのマンションは薄暗く陰気で、立地のわりに家賃が安いこと以外の利点はない。それでも、自宅からほど近い職場に就職してしまったことで、結局ズルズルと住み続けている。
玄関を開けるなり迫った極小キッチンの作業台にコンビニの袋を置くと、翼はそのままユニット式のバスルームへと飛び込んだ。明日も平日の今日は、ダラダラと夜更かしすることもできない。やるべきことは済ませ、いつでもベッドに入れるように準備しておく。
勢いよくシャワーを浴びて、5分ほどでバスルームを飛び出した。半分濡れたままの身体をフェイスタオルで拭きながら部屋に戻り、裸のままでロフトベッドの柵に引っかけていたスウェットに着替える。そのままタオルを首にかけると、買い物袋の中身を冷凍庫へと放り込んでいった。
冷凍チャーハンを電子レンジに入れ、そのあいだに好きでもないのに買ってしまったサラダを半分だけ皿に取る。麦茶をタンブラーに注ぐと、レンジが終了音を立てた。
パソコンの電源を入れ、ロフトベッド下のゲームチェアに座る。
「17時50分。バッチリじゃん」
公式からのお知らせはこれまでの流れからみて、恐らく18時だ。チャーハンをかき込み、顔をしかめながらサラダを麦茶で流し込む。
ゲームを立ち上げ、先日買い換えたばかりの最新型VRヘッドセットを装着した。
真っ暗な画面に「ARK LEGEND」とシンプルなロゴが浮かび上がる。株式会社ARCが手がけた、今年で30周年を迎える歴史あるオンラインRPGだ。ファンタジーの世界で、選ばれし探索者が各地に散らばる「伝説」を収集するというゲームだが、その伝説はプレイヤーたちも作ることができ、つまり永遠にクリアすることがない。いつしか、ゲーム自体に隠された伝説を見つけることがクリアの条件なのだと、まことしやかに噂されるようになっていた。
スタートボタンを押すと、途端に広がった世界の端に、赤い通知マークが点灯する。
『カナタ、おっそーいニャ』
指先の端末を操作して酒場の扉を開けると、そこには猫耳の女の子が口を尖らせている。分厚い布の胴着に腕の武器は武闘家のコスチュームだ。その頭の横には「ミキニャ」とユーザーネームが表示されている。
『これでも最速で帰ったし、メシ食ったし、風呂も入った』
『前言撤回。素晴らしいニャ。ミキニャは今日午後半休取った』
『おふたりさん、気合い入ってるのぉ』
『ウワバミさんもでしょう?』
椅子に座っていた老人が、床に着きそうなほどの長い髭を撫でつつ笑っている。ローブに杖と、分かりやすく魔法使いの出で立ちだ。
『老人はヒマじゃからな』
そんな嘘かホントか分からない理由だって、誰も追求しない。
酒場には、たくさんのプレーヤーがめいめいの動きで公式からのお知らせを待っている。フレンド登録をしていないプレーヤーの会話は、相手がオープンにしていなければ聞くことができないため、人口密度に対して会話音はさほどない。
時刻は18時を少し過ぎた。いつもどおりならもうそろそろ発表があるはずだ。
気分を落ち着けようと酒場の奥の部屋に移動して、大きな姿見の前に立った。メニュー画面を開き、たくさんのDLCから今日の衣装を選んでいく。
姿見に映る翼のアバターは、頭の横に「カナタ」と表示されている。そのビジュアルは、耳が隠れる程度の黒髪ストレートヘアに、勝ち気な二重の瞳、モデルのようにスラリとした体型と、田中翼とは似ても似つかない。裾の長い白基調の衣服は、このゲームでの神官職であることを意味し、胸には最高位のレベルを表す金紋章が揺れていた。
ここでの翼は、むさ苦しい陰キャ男性じゃない。理想の自分を作り上げ、堂々と前を向いて伝説を探しに冒険をする探索者だ。
『ユーリ。来れないのかと思ってたニャ』
ホッとしたようなミキニャの声が聞こえた。
『堪忍。仕事がなかなか終わらへんくって』
コスチュームメニューを閉じ、カナタを酒場へと移動させる。そこには、嘘みたいにバカでかい剣を背負った戦士が、堂々とした体躯で立っていた。顔の横には「ユーリ」とユーザーネームが表示されている。その鎧の胸当てには、カナタと同じ形の紋章が金色に光っていた。
ミキニャとウワバミが座るテーブルにユーリがつくのに合わせて、カナタもまた残りひとつの椅子に座った。ミキニャとウワバミの胸にも同じ金紋章が輝いている。金紋章は、公式の伝説すべてを集め終わった証しだ。
この4人でパーティを組むようになって2年ほど。30年の歴史をもつARC LEGENDでは、カナタたちのようなレベルカンストパーティは珍しい。
『公式からのお知らせって何かニャ?』
パーティメンバーが揃ったところで、改めてミキニャが今日最も重要な話題を振った。
『タイミング的に、新しいイベントではないかと儂は思ったが』
ここ最近はゲームのアップデートもグッと減っている。わざわざお知らせが出てもおかしくないとウワバミが付け加える。
『俺は……』
ユーリが重ねたところで、ヘッドセットの違和感を覚えた。
『ごめん、ちょっと待って……音声がなんか……バグ?』
いっせいに全員がしゃべり始めた途端、狭い空間に音が反響するような奇妙な感覚になったのだ。
『俺、ちょっとヘッドセット調整するね』
メニューから設定を開いて、新しく繋いだヘッドセットを確認する。
『カナタ、ヘッドセット買い換えたんや?』
『うん。前のやつ、マイクの音量が調整できなくなっちゃって……昨日届いたから、使うのはじめてなんだ』
ユーリの問いに答えながら、あれでもない、これでもないと設定のボタンを変更していく。ぐわんぐわんと妙にリアルな音声がまだ続いている。
『どこのにしたのかニャ?』
『バウティスタのVR pro7』
『おおおおおっニャ!』
『奮発したのぉ』
感嘆が浴びせられるのを照れくさく感じつつ、前のは長く使っていたしちょうど臨時収入があったからと言い訳のように付け足した。
『それやったら、マルチエフェクトモードをオフにしてみたらあかん?』
『マルチ……あ、これか』
『それと、自動アップデートをオン』
『うん。できた』
ユーリの提案どおりにボタンを操作すると、しばらくしてやたらリアルだった音声が馴染んだものに戻った。
『戻った! ユーリありがとう。もしかして、ユーリも同じの使ってる?』
『俺のはバウティスタやけどpro5。買い換えようか迷ってちょっと調べとったから。使い勝手よかったら教えてな』
『オッケー。まず慣れるところからだけどね』
そんなやり取りに、カナタはまず説明書を読むべきだとウワバミの真っ当な指摘が入ってくる。新しいアイテムがうれしくて、ついつい先走ってしまうのは仕方ないだろうと、残り3人の異論がきれいに揃った。
『ちょー羨ましいけど、ミキニャは3エーチはさすがにキツいニャ』
『3エーチとはなんじゃ?』
『渋沢栄一3人だから栄一3人で3エーチ』
つまり3万円超えはキツいということだ。暗号を解き明かされたウワバミが感嘆の声をあげている。
わいわい雑談をしているうちに、ふと空気が変わったような気がした。
『出たようじゃ』
ウワバミのつぶやきに、多分全員が一瞬で口を閉じ、通知ボタンを押した。視界の下部にテキストが表示されていく。ミキニャが息を飲んだ音が聞こえた。
だれも声を出さない。多分、出せないのだ。カナタがそうであるように。
『ミキニャは今日は落ちるニャ……』
呆然としたミキニャの声と同時に、猫耳のアバターが消えた。気づけば酒場のプレイヤーが減っている。
『儂にも気持ちの整理をする時間が必要じゃ』
ウワバミのアバターが消える。テーブルはカナタとユーリのふたりだけになっていた。
今日はなにをする予定だったっけ? 公開されている伝説はもう集め終わっていて、みんなでプレイヤーたちが作ったおもしろ伝説を探していた。そう、せっかくなら4人で新しい伝説を作ってみようかなんて相談している途中だった。
『終わっちゃうんだ……』
やっと声になった自分の言葉に、息が止まるかと思った。冗談じゃなく、この世界が翼のすべてを占めていたのだ。
『外、行かへん?』
すでに立ち上がったユーリが穏やかに誘ってくれる。酒場を出て街中を進み、震える指先で操作した先は、城の中にある泉だ。
『レオマの神殿、行きたいんやけど』
ええかな? 遠慮がちなユーリに呆然としたまま頷いて、泉の中へと足を踏み入れる。まばゆい光に視界が奪われると、次の瞬間にはまったく違う景色が広がっていた。
神殿の門をくぐれば、豊かな水が溢れる噴水が月の光にキラキラと輝いている。公式からのお知らせを知らないのか、数人のプレーヤーが神殿のなかへと入っていた。
懐かしいな――。
強ばっていた心がほんの少し動き始める。
『ここでカナタが声かけてくれたん覚えとる?』
もちろん。
『うん。神殿の扉が開けられなくて、ユーリが立ち往生してた』
『だって、神官の祈りが必要やなんて知らんかったもん』
あのころはカナタもひとりで冒険することが多くて、パーティが必要なイベントは単発でメンバーを募ってクリアしていた。交流を継続することが怖くて、ひとりでレベルを上げていく内にタイミングをなくしていたのだ。
『夜中やったし、ログインしてる人もあんまおらんし……そういや、カナタはなんであんな時間にログインしとったん?』
覚えとる?
そんなこと、忘れるはずがない。深夜というにも遅すぎて、明け方に差し掛かる午前4時過ぎだった。
『あのころ、就職したばっかでしんどくて、なんか嫌になっちゃってて……ログアウトしたら朝になって仕事行かなきゃって、逃げてたんだよ』
そんなことしても、逃げられるわけないのに。
『やることもなくて、月夜草でも集めようかなってここに来て……』
そしたら、神殿の入り口でうろうろしているユーリを見つけたのだ。そのアバターに思わず声をかけた。普段だったら無視されるかも知れないと、初見プレイヤーには怖くて声なんかかけられないのに。
だって、アレックスにそっくりだったのだ。嫌で嫌で仕方なかった社会人生活の中での唯一の癒やしが、ときどきコンビニで見かけるアレックスだったから。もちろん、現実世界のアレックスに声をかけるなんて不可能で、だからゲームでならと勇気を出した。
――なにか困ってますか?
迷って、そう話しかけた。
ゲーム内では、アカウントに身分証明を登録している成人だけが、会話機能を使える。それも、話しかけて相手が許可した場合だけだ。カナタのプロフィールはほとんどが空白で、普通ならあやしいと拒否されてもおかしくなかった。
それでも、藁にも縋る思いだったのか、ユーリはすぐ会話に応じてくれた。
――神殿に入れへん。ジブン神官? 一緒に入ってくれへん?
大剣を背負った金髪碧眼の戦士から聞こえた関西弁がミスマッチで、張り詰めていた緊張が一気に解けたのを覚えている。
――いいよ。祈りの歌の伝説集めに来たの?
――そうやねん。これでメインの伝説コンプリートやから。
そう胸を張ったユーリの胸元には銀紋章があった。一緒になかに入って、出てきたときにはユーリの紋章は金に変わっていた。
――なぁ。一緒に最後の伝説を探さへん?
神殿を出ると、空が白んできていた。ゲーム内の時間は、現実の時間とリンクしている。ログアウトして、仕事に行く準備をしなければいけない時間だ。
――最後の伝説? それってただの噂だろ?
――噂やけど、ホンマかも知れんやん。制作者tsukiが仕込んだ、最後の伝説。あるんやったら見つけたい。
晴れ晴れとしたユーリの誘いに、一も二もなく飛びついた。ネットでは有名な噂だったのだ。
【ARK LEGENDには完全クリアの条件として、制作者tsukiが作った最後の伝説が存在する】
それから、これまで以上に翼の生活の大半がARK LEGENDになった。仕事での憂鬱なんかどうでもよくなって、ユーリと伝説を探すための時間をいかに作るかを考える。効率のいい業務遂行方法を選んでいくうちに、おのずと仕事にも慣れていった。人付き合いができなくても、気にならなくなった。
だって、ゲームの世界に行けばそこにはユーリがいて、一緒に冒険ができるのだ。そのうちにミキニャとウワバミが仲間になって、最後の伝説探しが生活の主軸になっていた。
『まだ見つけられてないのにサ終とか……』
そう、唐突に公式から発表されたお知らせは、ARK LEGENDのゲームが終了するというものだったのだ。それも、終了までひと月もない唐突なもので――。
ここがなくなれば、翼の生きる理由がなくなるくらいの絶望なのに。
『そやから、伝説探すの最後まで付き合ってくれへんかな?』
いつもより硬いユーリの声が、緊張を伝えてきた。
『サ終5月10日やったやん? ちょうどゴールデンウイークあるから、そやから……』
長い休みならまとまった時間が取れる。深いダンジョンも再調査できる。最後まで足掻いて、伝説を探したい。真剣なユーリの訴えに、ちくりと罪悪感を覚えた。
なぜなら、翼は最後の伝説なんか見つけたくない。ただ、カナタとしてユーリと冒険を続けたくて、だから伝説なんか見つからなくてよかった。
『カナタ。俺に付き合ってください。お願いします』
大きな身体が90度にお辞儀をする。ガチャリと大剣が音を立てた。
『もちろん、いいよ。そんな畏まらないでよ』
カナタならきっとこう答えるはずだと、内心の黒い心を隠した。そして、うれしそうに顔を上げたユーリをまっすぐに見つめる。現実でだれかと目を合わせることなんかできないのに、ここでなら自分でも自信をもって人と向かい合える。
『俺からもお願いがあるんだけど』
『なんでも聞くわ!』
勢い込んだユーリの返事に、思わず笑ってしまう。どんなことでも聞く、そんな安請け合いができるくらいには信用してくれているのだ。それがうれしくて、少し苦しい。
『もし、途中で伝説を見つけても……最後まで一緒にいてくれる?』
この世界が消える最後を、ユーリと一緒に迎えたい。もう二度と会えなくなるのだから、せめて。
『もちろんや。最後の瞬間までここにおるよ』
胸を叩いたユーリにありがとうと笑いかける。
もっと自分に自信があれば、現実のユーリを知ろうと思えたかも知れない。違うゲームで会おうと誘えたかも知れない。だけど、それは現実の田中翼を知られることだ。翼がオンラインでプレイしているゲームはARK LEGENDだけで、今から違うゲームを始めたとしてもサ終までにフレンド機能は使えない。これは未成年の犯罪被害防止のために作られた制限で、身分証明と正式なプレイ時間がゲームにおけるフレンド登録解放の条件になっているのだ。
現実の自分をさらすなんてできるはずがない――。
『カナタはゴールデンウイークの休みってどないなん?』
『うちはカレンダーどおりだから、あいだの平日は有休取るつもり』
幸い、不摂生をしても身体だけは丈夫で、病欠することもなく有休は溜まるばかりだ。有休申請で知らない総務部の人とやり取りするのが嫌で使っていなかったが、そこはもうどうでもいい。ユーリと最後に過ごすためなら、ゴールデンウイークをぜんぶ繋げるような有休申請で白い目を向けられたって構わない。
『俺も。5月1日だけは打ち合わせがあるんやけど、リモートやし』
ユーリのことは成人してることだけは確かで、ほかはほとんど知らない。年齢も、男か女かも、結婚や恋人がいるかも、どんな顔をしているのかも。詮索しないことがネトゲのマナーだと翼は思っている。
翼とカナタはまったくの別人だ。きっとユーリもそうなのだろう。だから、ゲームが終わればそれでお終いだ。アレックスそっくりのユーリはいなくなって、翼はまたときどきコンビニで会うアレックスにドキドキするだけの毎日に戻る。
それだけだ。
『食料買い込んで、一歩も家から出ぇへん! 絶対見つける!』
『絶対って、なんにも分かんないのに』
『いっこ、気になること聞いてん。もうちょい詳しく調べとくし期待しといて』
『オッケー。俺もちょっと死ぬ気で仕事片付けるから』
『同じく俺もや。しばらくログインできへんかも』
さすがに責任を投げ出すほどの無責任にはなれそうにない。ユーリも同じだということが少しうれしかった。
『カナタはいつから入れるん?』
『26日から6日までは絶対。サ終の10日が土曜だから、7日は出勤するけど大丈夫そうなら8と9は有休取るよ』
『じゃあ、26日に酒場で』
『うん。ミキニャとウワバミさんも声かける?』
ふたりきりでずっと行動するのはどこか後ろめたい。せめて他の人がいれば、罪悪感も薄れるし、余計なことを口にしてしまうリスクも減るだろう。そう、カナタはただユーリと同じ空間にいられるだけで満足なのだから。
『もし、会えたら誘うってことでどうやろ? もしかしたら、もうプレイ嫌になっとるかも知れんし』
『そっか。それもそうだよな……』
終わってしまうことが決まったゲームだ。ミキニャもウワバミもレベルカンストで特にやるべきこともない。真偽のわからない冒険を、日常を潰してまでやろうとは思わないかも知れない。
『じゃあ、また』
『うん。おやすみ』
おやすみなさい。
ぷつりと世界が暗転して、真っ暗闇にまたゲームタイトルのロゴが浮かび上がる。
現実世界のVRヘッドセットを外すと、翼は茫然自失とでチェアにもたれかかった。電源の落ちたディスプレイには、カナタとは似ても似つかない陰キャな男が薄らと映っている。
これが現実だ。
「いやだ……終わるなよ……」
だって、あの世界が消えれば、あとにはこの無様な自分しか残らない。
こんな自分なんかいらない。自信に満ちたカナタでいたいのに……。
「やだよ……」
夜20時更新です