第9話「手袋ごしの思い」
朝、今日も湖という名の緑色の池へと向かう。ユウナと二人、朝露の匂いと、小鳥たちの静かなさえずりが耳に優しい。
池のほとりには、野生化した豆のようなものがいくつか育っていた。
「これ、豆だよね?」
「うん、たぶん。うちでは育ててないけど、昔ここでこぼれたやつが野生になったのかも」
豆の鞘を割って、中の種を取り出す。固くて、ずっしりしている。
(これ植えるだけで芽が出るのかな……)
〈大地との対話:緑肥知識〉
確かに豆のようだ。毒もなさそうだ。
その横に、小さな三つ葉の群れが広がっていた。クローバーだ。いや、正確にはシロツメクサ。
(これもマメ科なのか……栄養のある緑肥になるかも。レンゲはないのかレンゲ……レンゲ畑とユウナと歩く未来が……)
水と、採取した豆とクローバーを袋に詰め、畑に戻る。
一通り水をやり終わった後、ユウナが言う。
「あ、そうだ、ちょっと待ってて」
「これ、お父さんの使っていた手袋」
ユウナが手渡してくれた皮の手袋は、使い込まれていて温かみがあった。
「馬の手入れの時にこれをつけていると、手が汚れにくいかなって」
(おお、ありがたい!……しかし、ユウナの「きれいになーれ」の回数が少なくなるのは非常に困る!)
「そんな大切なもの……」
「お父さんも、きっと使ってくれたほうが喜ぶと思う。」
(君の「きれいになーれ」がある限り、俺はどこまでも泥にまみれられるんだよ……!)
「ありがとう、大事にするよ。」
ユウナがほほ笑む。
さて、豆をまくための畝を作るか。でも待てよ、そろそろ、馬糞の肥料の効果を確かめたいな……でも畑にいきなり使うのはちょっと怖い。
ふと、マンドラゴラの植わった鉢が目に入った。相変わらず、やせたおじいさんみたいな顔がのぞいている。
「ユウナ、マンドラゴラに俺の土を試していいかな。」
「うん、いいよ」
マンドラゴラを抜く。
「あぁぁあ……」
弱々しい、叫びなのかため息なのか、力のない声が聞こえる。
鉢に、馬糞を発酵させた肥料を入れ、マンドラゴラを戻してみる。
「なんだか、苦しそう……」
マンドラゴラは一瞬、ほほ笑んだように見えたが、次の瞬間、顔がみるみる赤く染まり、葉がバタバタと震え出した。
慌てて、肥料を取り除き、元の土に戻す。
(どういうことだ……)
ユウナが不安そうにこちらをみる。
肥料に触ってみる。
〈大地との対話:農地解析〉 ――栄養素中程度、酸素低、微生物発酵中、有毒ガス微量発生。
(やっぱり早すぎたか……発酵が甘いと、こういうガスが出るんだな。植物にはきついのか)
「ごめん、肥料がまだ不完全だったみたいで……少し焦りすぎたみたいだ。」
(農業も恋も焦りは禁物だな)
納屋に戻って、もう一度発酵状態を確認する必要があるかもしれない。
ユウナにもらった手袋をつけて、納屋に戻ってみる。
(そういえば、直接さわらないと、発酵状態はわからなかったな……やはり自らの手を汚してこそだな。決して「きれいになーれ」のためではない)
そのとき、大地との対話が発動する。
〈大地との対話:農具伝導〉
(おお、どうやら農具越しでも大地との対話ができるようになったようだ。……ん? 手袋って、農具なのか?)
試しに、手袋をつけたまま、いつも馬糞を集めていた農具を手に取る。
柄の部分が手になじむ。少し力を入れて握ると、じんわりと熱が伝わってきた。
馬糞の山に近づくと、むっとするような熱気と、鼻を突くような独特の匂いが漂ってきた。アンモニアのような、発酵と腐敗の境目にあるようなにおい。
ゆっくりと馬糞の山に農具を差し込む。柄を通して、層になった熱気、湿り気、そして繊維質の詰まりや分解具合といった手ごたえの違いが、じんわりと伝わってくる。
(手袋をつけていても……感じる。これは、たしかに)
この感覚……どこかで――そうだ、親父が畑にセンサーを突き刺して、土壌水分や養分を測っていた時の姿と重なった。
(親父は、こうして土と話してたのか……)
まだ芯が冷たい場所もある。完全には発酵しきっていない証拠だ。
なるほどな……これはもう少し寝かせないと危ない。
たい肥は、動物の糞や草などを積み上げて、微生物の働きで分解・発酵させた肥料だ。しかし、この分解が途中だと、土に混ぜたときにガスや熱で植物の根を傷めてしまう。これが、いわゆる「根焼け」というやつらしい。
さらに、発酵を進めるには酸素が必要なようだ。親父が雑草でたい肥を作っていた時、毎日かき回していたのはそのためだった。
差し込んだ農具で馬糞の山をかき混ぜると、少し湯気のような蒸気が立ちのぼり、発酵が進んでいることを感じさせた。
(……親父が毎日向き合っていたのは、こういう世界だったのか)
土と向き合うには、手間も、時間もかかる。でも――
(悪くないかも)
そんなことを思いながら、俺はもう一度、山の中へと農具を差し込んだ。
ふと顔を上げると、遠くからユウナがこっちを見ていた。
小さく手を振ると、彼女も照れくさそうに手を振り返してくれた。
(……よし、もうちょっとがんばってみるか)