第24話「お嬢さん?いえ、馬糞をください」
教会の前で、伯爵令嬢が子どもたちに囲まれていた。彼女は一人ひとりの頬にそっと手を当て、清潔魔法で汚れをぬぐっていく。
「さあ、これで安心してご飯が食べられるわね」
やわらかく微笑みながら、子どもたちを食堂へと送り出す姿は、まるで祝福の光に包まれているようだった。
やがて彼女は人知れず井戸へ向かい、静かに清潔魔法をかける。淡い光が水面に広がり、やがて井戸のまわりの空気までも澄みわたっていく。まるで、その場所ごと祈りが浸透していくかのようだった。
その様子を、教会の窓から司祭が静かに見守っていた。
(あれほど献身的で、戦災孤児にも分け隔てなく接する婚約者の、何が不満なのか……)
彼女は申し分のない娘だ。家柄も、魔力も、人柄さえも。
だが――息子には、魔法の才がなかった。
そして、あの日以来……子は授からなかった。
このままでは、自分の代で司祭の務めも終わるかもしれない。
血をつなぎ、祈りの務めを継ぐ者がいなければ、教会の灯も、いずれ絶えてしまう。
教会は完全に世襲というわけではない。だが、魔力を持つ子がいれば、その子に跡を継がせるのが通例だった。
そんな折、舞い込んできたのが、主教の娘との縁談だった。
男五人、女三人の兄弟の末娘。血筋は申し分なく、魔力も高いと評判だった。
息子には魔法の才はない。だが、騎士として勤めを果たし、祈りの務めは彼女に――。
そして孫が生まれれば、その子に教会を託せばいい。
そうすれば、教会の未来も、一家の安泰も守られる。
……完璧な未来予想図だった。
一家は安泰、教会も守られる。そう信じて疑わなかった。
だが、それは――息子が農家の娘に恋をする前までの話だ。
そう言えば、自分の妻も教会の一職員で、魔力は高くなかった。
それでも、共に働き、家庭を築いた。息子を授かったときも、何の不満もなかった。
――人のことは言えない。
自分だって、理想通りの道を歩んできたわけではないのだ。
それでも、まじめに仕事はこなしてきた。
郊外の農家を回り、お布施を集め、清潔魔法で祈りを捧げる日々。
本来、農家の衛生管理は教会の管轄ではない。だが、疫病の予防や健康の把握、困りごとの早期発見、そして治安維持にもつながる。
感謝されることばかりではない。時には煙たがられ、疎まれることもある。
それでも、皆の無事と暮らしを支えるこの務めに、私は誇りを持っている。
ユウナの家は、父を早くに亡くし、女ばかりの世帯だった。
農家には男手が必要だろう――そう考えて、私は息子を連れて行った。
……それが、間違いだったのかもしれない。
* * *
私の婚約者は、町の教会の司祭の息子だ。
恋愛結婚に憧れないわけではないが、家柄から許されないことはわかっている。
彼を紹介されたときは、誠実でまじめな性格に、心をひかれた。
私も、頑張らなければならない。
魔法の鍛錬を積み、町を回り、衛生状態が悪そうなところを見つけては、清潔魔法をかける。
伝染病などを防ぎ、この町で、誰もが安心して暮らせるようにしたい。
……そう思って、毎日を精一杯に過ごしてきた。
けれど最近、彼の目が、私を見ていない気がする。
他の女性に、気があるのではないか――そんな噂すら耳に入ってくるようになった。
もしかしたら、私のほうこそ――彼を見ていたつもりで、見ていなかったのかもしれない。
少し落ち込んでいたとき、私は馬糞を黙々と集める少年に出会った。
泥だらけのその姿に、思わず清潔魔法をかけた。すると彼は、顔をしかめて走り去っていった。
あんな反応をされたのは初めてだった。落ち込んでいた私に、さらに追い打ちをかけるような出来事だった。
彼は、自分の仕事に誇りを持っていたのに、私は憐れむような目を向けてしまったのかもしれない。
――そんな傲慢な態度だったのかもしれない。
どのみち衛生上、放ってはおけなかったのだけれど。
けれど、その姿勢に、改めて思い知らされた。まだまだ私は未熟だと。
その後、婚約者が決闘をしたという噂が広まった。
私も、その決闘を見た。
本来なら、婚約者の姿を見守るべきだったのに――気づけば、私の目は、ずっと信次郎を追っていた。
どちらを応援すべきか、迷いがなかったわけではない。けれど、心が惹かれたのは、あの泥だらけの少年だった。
皆が笑い、彼をからかう声もあがっていた。けれど私には、彼のまっすぐな立ち姿と、胸を張る誇り高さが、まぶしく映っていた。
……もしかして、あのとき清潔魔法をかけた、あの少年?
気品とは、家柄や作法にあるのではなく、ああして地に足をつけて立つことなのかもしれない。
彼の姿を見て、私ははっとした。いまの自分に、何が足りていなかったのかに――。
そのとき、信次郎のことを、気高い戦士のように思った。そして彼は、勝利をつかんだ。
その瞬間、私の胸の奥にも、小さな火が灯った。
静かで、けれど確かな何かが芽生えたそのとき――
司祭が褒美を問うと、彼は迷いもせず、こう口にした。
「馬糞をください。あと、油の搾りかすがあればください」
どちらも、虫が湧き、放っておけない。手を焼く問題だった。
なんと謙虚な――。
あの戦いを経て、彼が望んだのが名誉でも宝でもなく、虫が湧くゴミだなんて。
誰もが顔をしかめる“それ”を、彼は少しもためらわずに求めた。
誰かの役に立てるなら、それで十分だと言わんばかりに。
その背中に、またしても私は、小さな光を見た気がした。
気づけば私は、その光を――その人を、目で追っていた。




