32 「夢を見てたみたい」
木々の間を抜け視界が広がる。一面の草原が目に飛び込んできて、わたしは思わず歓声を上げた。
「すごい!」
遠くには視界いっぱいに広がる丘陵。
風が流れ若葉色の草が波のように靡いている。
壮大な光景に心が躍る。
あの草原に寝転がったらどれほど気持ち良いことだろう!
残念ながらわたしは今馬車の中なのでそれは不可能だけど…
「こんな何の変哲もない野っ原にそれだけ感動出来るなんて、ハルってやっぱ変わってる」
隣のヒューイさんが心底不思議そうに言った。
だって。
「日本でもどこかにはあったかもしれないけど、わたしの住んでたとこではこんな景色見られなかったんだもん」
窓にかじりつきながらそう返した。
「しばらくはこの景色が続くからそんなにじっと見てなくても良いんじゃない」
「ずっとってどれくらい?」
「二、三時間かな」
「そんなに広いんだ…」
やっぱりわたしの想像以上にこの国は広大なのかもしれない。
馬車でゆったり向かって三週間という言葉がますます現実味を帯びた気がした。
わたしは今、王都を目指すべく馬車に揺られている。
目的は言わずもがな。剣技の大会に参加する夫の同行だ。
王都へ行くことの不安もあるけれど、初めての長期のお出かけにわくわくが止まらない。
家族を亡くして以降、修学旅行以外の旅なんてしたことがなかったから昨日は遠足前夜の小学生みたいにドキドキして寝られなかった。
朝目をギンギンさせたわたしを見て夫たちは一斉に呆れていたものだ。
「昨日寝てないんだから今のうちに寝ておいた方が良いよ。先は長いんだし、夜もあるんだから」
「夜って…」
まさか。
「…旅の間はしないよね?」
おそるおそる聞けば、はあ?と返された。
「するに決まってるじゃん!僕たちに三週間も我慢しろって言うの!?」
「いやだって…馬車に乗る人はまだしも他はみんな馬での長距離移動でしょ?疲れるんじゃ…」
馬車に揺られるだけでも体力消耗するのに…
ヒューイさん以外の夫はみんな馬で馬車の周りを固めながら進行中だ。
わたしと馬車に同行する夫は交代制になっている。
「あのね、騎士の体力なめないでくれる?毎日過酷な訓練重ねてる僕たちに馬移動で疲れる奴なんていないから」
…うん、そう言われるかなって思った。
でも…
「夜は基本宿に泊まるんでしょ?わたしの部屋以外とか落ち着かないし、帰るまではちょっと遠慮したいなあ、なんて…」
わたしが言えば、ヒューイさんは愕然とした表情でわたしを見た。
「なにそれ…三週間どころか往復でひと月半も我慢させるつもり…?ハルは僕らに死ねって言いたいの…?」
「そこまで!?」
おおげさじゃない!?
まさかあの行為が生死に直結するとは思わないよ!
「いやだって、円滑な旅の進行の為にも…ね?わたしも体力的な問題とか色々…」
「ふーん…」
ヒューイさんの目がすぅっと窄まる。
…あ、なんかやな予感。
「じゃあさ、ハルにしたいって思わせれば良いってことだよね?」
あれ、なんか前にも聞いたことのある台詞…
そう思っていたら、座席に付いていた手にヒューイさんの手が重なった。
もう片方の手が頬にきてやんわりとヒューイさんの方に向かされる。
目の前に絶世のイケメン王子様顔があって、今日もかっこいいなと見惚れてる間に唇が重なった。
唇を喰まれるだけでぞわりとする。
わたしはすっかりキスを教え込まれ自然と唇を開いていた。
ヒューイさんは唇をチロチロと舐めて焦らすようにゆっくりと舌を侵入させてくる。
やっと入ってきてくれたことにホッとして自分の舌でヒューイさんの舌先に触れる。
すると舌が絡まるのと同時にヒューイさんに耳を塞がれた。
「!?」
外の音が遮断され舌の絡まる水音が直接脳に響いて羞恥でたまらなくなる。
脳内にピチャピチャやらしい音と自分の吐息の漏れる音が反響してものすごく恥ずかしい。
だけどわたしの身体はその一つ一つを快感として受け入れその度にビクビクと身体が震える。
あまりに強すぎる快感にわたしの熱は否が応でも高められてしまう。
どれだけそうしていたのか、気付けばわたしは座席に押し倒されていて、ただぽぉっとヒューイさんを見上げていた。
「やらしい顔…ハルが許してくれるなら、もっと気持ちいいことしてあげるよ?」
「もっと…?」
そんなことされたらわたしはどうなってしまうんだろう。
身も心もまるごと溶かされてわけが分からなくなってしまうに違いない。
…でも、期待する気持ちがあることは否定できなくて…
それが幸せなことだと、わたしの身体はすっかり覚えさせられてしまっている。
こくりと頷こうとした瞬間ーーー
コンコンと窓が叩かれた。
ハッとしてヒューイさんを押して起き上がる。
見ればカインさんが物騒な笑顔でこちらを見ていた。
ヒューイさんが盛大な舌打ちをしたけどとりあえず無視だ。
窓を開けるよう仕草で促されて慌てて開ける。
馬を上手に操りこれでもかと馬車に寄ったカインさんはヒューイさんに笑顔を向けた。
「ヒューイ、移動中はハルに手を出さない約束では?ハルの負担を考慮して決めたはずなのに初日で破るつもりですか」
ああやっぱり。めちゃめちゃ怒ってるときの笑顔だこれ。
わたしが怒られてるわけじゃないのにビクビクしてしまう。
けれどヒューイさんは悪びれる様子もない。
「邪魔しないでよカイン。宿でハルと夜を過ごせるかどうかがかかってたんだよ?」
「…どういうことです?」
事情を聞いたカインさんは、それでも涼しい顔を変えない。
「そんなことですか。別に馬車で言質を取らずとも宿でその気にさせれば良いだけの話ではありませんか。あなたは口実を作ってハルに触れたいだけでしょう」
「チッ」
バレたか、と呟くヒューイさんにギョッとする。
口実だったの!?
「ハルを昼から疲れさせないよう肝に銘じてください」
良いですね、と言ってカインさんは元いた位置に戻った。
カインさん…わたしを慮ってる風だけど夜に疲れさせるって言ってるようなものじゃない…?
今のうちに寝とかないと本当に体力保たない気がしてきた…
そう思ってたら手が伸びてきて、こてんと頭をヒューイさんの肩に置かれる。
「ま、仕方ないから今は許してあげる。夜に備えてもう寝て」
「ええー…」
もっと景色を堪能したいし夜の為に昼寝するとかなんか退廃的じゃない?
そう思ったけど、馬車の揺れと寝不足もあってわたしはあっというまに夢の世界へいざなわれた。
ーーーリンーーー
鈴の音だ。
高い清浄な音がこだましている。
気付けばわたしは霧がけぶる森の中にいた。
周りには苔むした木々があるだけで、太陽の光とも違う白い光がふわふわと漂うように辺りを照らしている。
ーーーリンーーー
どこから聞こえるのか、一定のリズムで鈴は鳴り響いている。
キョロキョロと音の出どころを探ると、枝葉の隙間から何かがキラキラと光を反射していた。向こうに何かあるらしい。
不思議に思いながら木々の間を縫って進めば大きな湖が顔を出した。
更に近付くと湖畔に腰まである真っ白な髪の女の子が背を向けて座っていて…
しゃくりあげる声に泣いているのだと分かる。
「どうしたの?一人?」
声をかけるとびくりとその身体が震え恐る恐る振り返る。
髪の色と同じくらい白い肌に翡翠色の瞳。涙を溜めた目は驚きを隠せないくらい大きく開いて揺れていた。
ーどうしてここにいるの?ー
透き通るような少女の声は何故か頭に直接届く。
「どうしてって…」
確かに、どうしてここにいるのだろう。
わたしは確か馬車に乗っていたはずだ。
ここはどこで、わたしは何故ここにいるのだろう。
ー呼ばれたの?ー
「え?いや…ごめん、よく分からなくて…」
ー呼んだの?ー
少女は顔を湖に戻して尋ねる。
ーそうー
納得したように頷いて、少女は再度振り返ってわたしを見た。
ーハル、わたしを連れて行ってー
「え?」
ーわたしを見つけてねー
そう言う少女の顔が何故かぼやける。
そこでわたしはようやく霧が濃くなっていることに気付いて…
霧が立ち込めるにつれ少女の姿が遠ざかっていく。
「待って!あなたは誰?どこへ行くの?」
ー見つけてねー
追いかけようとするのに足が動かない。
視界もぐにゃりと歪んで平衡感覚がおかしくなっていきーーー
「待って…!」
自分の声で目が覚めた。
ここがどこなのか一瞬分からずに呆然とする。
「ハル、大丈夫?」
横を見ればヒューイさんが心配そうにわたしの顔を窺っていて…
そうか、わたしは馬車で寝てしまったのか…
じゃあ今のはただの夢…
「ハル?」
まだボーッとする頭を振る。
「夢を見てたみたい」
「怖い夢?」
ヒューイさんに優しく髪を梳かれこれが現実だと実感する。
「ううん、不思議な夢。白い髪の女の子が出てきたんだけど、よく分からないことを言って消えちゃった」
「白い髪の女の子?それは珍しいね」
「そうなの?」
カラフルな髪色の人が多いから白もいるものかと思ってた。
「歳をとればどんな髪色の人も白っぽく色が薄くなっていくけど、生まれつき白い髪の子っていうのは見たことないな」
「それはわたしの世界もそうかも」
どんな髪色でもおじいちゃんおばあちゃんになれば白髪になるのは地球でも変わらない。
もちろんなりにくい人もいるけれど。
「白い髪っていえば女神の特徴がそんな感じだった」
ヒューイさんが思い出したと手を打つ。
「え、女神様って小さい女の子なの?」
「違う違う、髪色が一緒なだけだよ。愛と美を司る女神だからね、妙齢のそれは美しい姿をしているって言われてる。神殿の像も女神様を模して作られてるんだけど…そういえばハルは見たことないね」
「うん…」
あのおじいさん…神殿長のクラウドさんたちに対する態度を思い出すと、どうにも神殿に良いイメージがわかない。
「神官にはろくでもない奴ももちろんいるけど、そもそも神殿自体には色んな役割があるんだよ」
そう言ってヒューイさんは神殿について説明してくれた。
わたしがイメージしていた女神を信仰して教えを説いたり冠婚葬祭を執り行う役割だけじゃなくて、結婚離婚などの契約に関する管理、司法の役割も担っているらしい。
要するに神社やお寺や教会とかに役所と裁判所がくっついたようなものだろうか。
それだけの役割を担っているということは、神殿は国民にとって欠かせない国に根付いた重要な機関なのだろう。
わたしは一部だけを見て好きじゃないと思い込んでいたらしい。反省。
それでも辺境で命張ってる騎士さんへの態度はいただけないけどね。
そう言うと、ヒューイさんは困ったように微笑んだ。
「ハルがそう思ってくれるのは嬉しいけどね。それは神官に関わらず王都の民の共通項だと思っていた方が良いかも」
「ああ…」
なんとなくそんな気はしてたけど…
「王都に行ったら僕らそれなりにボロクソ言われると思うけど、ハルは気にしないで良いからね」
気にならないわけがないけど、ヒューイさんも他のみんなもはなから気にしてないのだけは分かってるので、とりあえず頷いておいた。
自分のことを言われるのには慣れてる。
でも、みんなが悪く言われたとき、わたしはみんなのように大人な対応が出来るだろうか…
さっきまでのウキウキした王都への道のりが、今はどんよりと重たく感じた。




