30 過去を話したのは、現状を肯定して欲しかったからじゃない
「おじさん…」
まさか。どうしてここにいるの。
「アルバイト終わったんだね。丁度良かった、一緒に帰ろう」
わたしの目の前まで来ると、わたしのバッグを取り上げる。
「お、おじさん!わたし…」
「大分春めいてきたけど夜はまだ寒いね。桜の開花ももう少し先かな」
「おじさん、バッグを…」
「随分と大荷物だね。バイトにこれだけ持って行くなんて、春ちゃんは真面目だねえ。…さ、帰ろう」
言って歩き出してしまう。
「おじさん、あの、わたし今日は…」
「今日の夜ご飯はすごいよ。市場で本鮪を買ってきたんだ。目の前で解体ショーを見てきたよ」
「おじさん…っ」
「ああいう人たちは本当に商売上手だよね。ついつい買い過ぎて…」
「おじさん!」
やっとおじさんの足が止まる。
「わたし今日は友達の家に泊まるの。だからバッグを返してください」
バッグを掴んで引っ張る。
だけどその手は外れない。
どうして。
その顔を窺うと、おじさんは笑顔を引っ込めて無表情にわたしを見ていた。
「駄目だよ。僕一人じゃ食べきれないでしょ。せっかく買ってきたんだから、春ちゃんも食べてくれなきゃ」
「明日いただきます。だから今日は…」
「駄目。泊まるのは明日にしなさい」
どうしよう。
全然手を離してくれない。話も通じない。
「さあ、わがまま言ってないで帰るよ」
また歩き出そうとするのを、必死にバッグを引っ張って引き止める。
「お願いだから、離してっ!」
引っ張るわたしを、おじさんは逆にバッグごと自分の腕に閉じ込めた。
「もう、駄々っ子だなあ」
耳元で囁くように言われ、気持ち悪さに鳥肌が立つ。
「離して…っ」
「春ちゃん」
低く、抑揚のない口調でおじさんは言った。
「昨日、起きてたでしょ」
冷や汗が噴き出し全身が恐怖で震え出す。
足もすくんでしまって立っていられるのが不思議なほどだ。
あの手はやっぱりおじさんだった。
起きてたのもバレた。
分かったうえでこの態度を続けている。
怖い。
この人はわたしをどうするつもりだ。
「昨日だけじゃないよね。ここ最近はずっと起きてたでしょ。もしかしたらと思ってたんだけど、昨日で確信したよ」
「離して…ください…」
「もしかして家出しようとしてた?駄目だよ、僕を置いて行くなんて。そんなことされたらショックで、君の写真を就職先に送っちゃうかもしれないよ?」
「しゃ…しん…?」
「そうだよ。君がおとなしく味噌汁を飲んでくれていたときに撮った写真。見るかい?とても可愛く撮れてるよ」
淡々と話すその様とは裏腹の信じられない内容に、恐怖で言葉が出てこない。
「僕から逃げるなんて許さない。君は一生、僕と一緒にいるんだ」
街灯の少ない仄暗さの中にいても、その恍惚とした表情が分かる。
この人はおかしい。
狂ってる。
逃げないと。逃げなきゃだめだ。
渾身の力を込めておじさんを突き飛ばす。
尻もちをつく様子は、かつてのはとこを思い出させた。
どうしてこんな男ばかり…
全てを置いて駆け出した。
バッグはもう諦めるしかない。
それよりとにかく逃げなければ…
どこへなんて考えられないほどわたしはパニックになっていて、とにかく少しでも遠くおじさんの目から逃れられる場所へと、出来る限りの速さで足を動かした。
でもーーー
「捕まえた」
橋を渡ろうとしたところで追いつかれ、手を捕えられた。
呼吸を荒くしながらニヤリと笑う姿は、普段の穏やかさからは想像もつかない悪魔のような様相だ。
このままでは、この悪魔の良いようにされてしまう。
こんな男の好きにされるくらいなら手なんて引きちぎれても構わない。
わたしは全力で暴れまくった。
足を踏みつけ、拘束しようとする手を噛み、肘も膝も頭も身体の全てを使っておじさんから逃れようとした。
その結果。
おじさんは堪らず手を離し、わたしは身体を思いきり引いたその勢いのまま橋の欄干に突っ込みーーー川に落ちた。
「ーーーそうやって、わたしはこの世界にやってきたの」
長い時間をかけてようやく話し終え、わたしは息を吐いた。
途中、思い出したくない記憶に言葉が詰まったけど、全てを話しきった今、心は不思議と落ち着いている。
こんな過去を誰かに話すことなんて絶対にないと思っていたし、知られたくないとも思っていた。
だけど、この人たちに知ってもらうことこそ、わたしがもう一歩を踏み出す為に必要なことなのだと思った。
「ここに来たとき、周りは男の人ばかりでどうしようかと思った。一妻多夫なんて考えられなかった。でも、みんなと一緒に過ごしてたくさん話して、ああ、あの人たちとは違うなって分かったの。側にいても嫌じゃない。楽しい。嬉しい。幸せだって思えるようになった。…それでも、わたしには勇気がなかった。触れられればあの人たちを思い出してしまうかもしれない。そうなったらわたしは、みんなを拒絶してしまうかもしれない。みんなを傷つけてしまうかもしれない…」
「もういい」
クラウドさんがわたしの言葉を止めた。
「もういい。もう分かったから」
「辛い話をしてくれてありがとうございます。けれどもう十分です。あなたの心を苦しめることを私たちは望んでいません」
「大丈夫だよ。ずっと触れられなくても私たちがハルを愛することに変わりはないから」
「守るよ。一生」
「側にいられるだけで幸せだから、僕たちも」
「あんたの望むことが俺たちの望むことだ」
みんなが口々にわたしを気遣ってくれる。
けど、そうじゃない。
わたしが言いたかったのはそういうことじゃなくて。
「違うの」
みんなはきっと勘違いしてる。
わたしが彼らに過去を話したのは、現状を肯定して欲しかったからじゃない。
「そうじゃないの。そうじゃなくて、わたしが言いたかったのは、みんなのことが大好きだっていうことなの」
分かってるからもう無理はしないで、みんながそう言いたげなのを無視する。
「みんなとキスすると、ふわふわしてすごく幸なの。くっついてるときもおんなじ。嬉しくて幸せで、こんなに満ち足りた思いになるんだってびっくりしてる。…みんなは違うの。あの人たちと、他の男の人と全然」
一人一人の顔をじっくりと見つめて気持ちが伝わることを祈る。
「さっき分かったの。キーファー殿下に手を掴まれたとき、おじさんを思い出して怖くて仕方なかった。わたしは忘れてなかった。これからもきっと、あのときの恐怖を抱えていくんだと思う。他の男の人に接近される度、わたしはきっと思い出す。……でも、みんなは違う。くっついてもキスしても、あんな人のことなんて思い出さない。それどころかわたしを幸せな気持ちにしてくれる。だから分かったの」
ごくりと唾を飲む。
わたしの次の言葉をみんなはどう受け止めてくれるだろうか。
「わたし…みんなになら何されても平気。むしろそうして欲しいって、わたしの過去を上書きして欲しいって思ってる」
言い終えて、みんなの反応を窺う。
わたしはかなり、大胆な発言をした。
気持ちはちゃんと伝わっただろうか…
けれどそこにあったのは、目を見開き口をポカンと開ける夫たちの顔だった。
………あれ?
なんでそんな間抜け面で固まってるの?
わたしすっごく勇気出して言ったんだけど?
イケメンの間抜け面も貴重だけど、予想外の反応に戸惑う。
あれだけ夜に対して意欲満々だったのだから、嬉しいって言ってくれたりするのかなと思ってたのに…
不安と後悔がじわじわと押し寄せてきた頃、ようやく一人二人とぎくしゃく動き出した。
かと思うと、時差はあれどみんな同じように徐々に顔を赤くしていき、口元を隠してわたしから顔を背ける。
…明らかに、照れている。
「…かわいい」
いつも大人の余裕でわたしを翻弄するみんなのこんな照れた顔を見たのは初めてで、嬉しくてつい本音が漏れた。
みんなはますます顔を隠す。
隣にいるクラウドさんを覗き込めば、
「見るな」
そう言って目を隠された。
「なんで!見たい!みんなのこんな貴重な顔、次いつ見られるか分かんないもん!」
手を外しながら言ってもクラウドさんは顔を背けたままだ。
「カインさん、側に行ってもいーい?」
「駄目です」
「リアドさん?」
「今は駄目」
「シドさん、ヒューイさん、ウォルフさん?」
「「「だーめ」」」
「けち!」
こんな色男たちを真っ赤にさせたことが嬉しくてニマニマしてると、横からクラウドさんがわたしを抱きすくめた。
頭まですっぽり覆われ身動きが取れなくなる。
「ちょっ、クラウドさんっ」
「俺たちをここまで動揺させるとは、さすがはハルだ。褒美をやらないとな」
「げ」
「げとは何だ、げとは」
クラウドさんの褒美ってなんか物騒なんだよ。
少しだけ拘束が緩んだので、クラウドさんの顔を見上げると、さっきまでの照れた様子はどこへ行ったのかいつもの余裕綽々な顔がそこにあった。
くそう。もっとかわいいみんなを堪能したかったのに。
「俺たちになら、何をされても良いんだろう?」
頬に手を当て甘ーい声で囁く。
今度はわたしが真っ赤になる番だった。
そうだよ、わたし自分で言ったじゃない。
みんなを受け入れたいって、ストレートに伝えた。
だから覚悟は出来てる。出来てるけど…
「あの、今すぐどうってことじゃなくて、徐々に、ゆっくり、ゆっくりね?」
「どうかな。ハルのペースに合わせてると全員の相手をしてくれるまであと一年はかかりそうだからな」
「そんなに待たせないよ!」
多分…
わたしの心の中の補足に気がついたのか、クラウドさんは片眉を上げた。
「やっぱり少しペースを上げていこう」
「なんで!」
「何でって…」
にやあ、と薄い唇が弧を描く。
「俺たちになら、何をされても良いんだろう?」
先ほどと同じ言葉を繰り返して艶っぽい眼差しを向けてきた。
周囲を窺えば、他のみんなもニコニコと大層ご機嫌な様子で…
「順番はどうする?ハルが決められないなら僕たちで決めて良い?」
「ヒューイとウォルフは後でしょ。先に結婚した僕たち四人が先だよ」
「何でだよ。夫は皆平等。それがルールだろ」
「おこがましい」
「出た、シドの毒舌!」
「確かにおこがましいですね。二人は黙っていてください」
「ひでえ!」
五人がわちゃわちゃし出したのを何とも言えない気持ちで見ているとクラウドさんがポンと手を打った。
「何なら全員にしとくか?」
「「「「「それいい」」」」」
「良くない!」
息ぴったりだな!
結局その夜は遅くまで順番をどうするかの討論が続き、わたしはそんな夫たちを置いて寝室に向かい左右にカラとクルを抱き防御体勢のまま寝たのだった。