29 みんなだけは違う
同意なく身体を触るなどの表現が出てきます。
主人公のトラウマの話なので、苦手な方はご注意ください。
部屋へ戻ると、みんな勢揃いしていた。
気配を察することに長けている人たちだ。騒ぎに気がついたのだろう。
わたしの様子を見て全員が眉を顰め、何か言いたげにクラウドさんを窺った。
クラウドさんの腰にぴったりと張り付くわたしは、母親に縋る甘え坊な子供のようだろう。
「団長?…ハルどうしたの?」
ヒューイさんの戸惑う声に、クラウドさんは答えない。それはきっと、クラウドさんも戸惑ってるから。
ひとまずわたしをソファに座るよう促すけど、わたしが離れないから自分も一緒に座る。
そっと背中を撫でられて少しだけ力が抜けた。
どれくらいそうしていたのか、気づいたらテーブルにハーブティが用意されていた。
ぼんやりと視界に入っていたのが頭の中で認識されると、同時に良い香りが鼻腔をくすぐる。
もぞもぞとクラウドさんから手を離しカップを手に取る。
一口飲むと、鼻を抜ける爽やかなハーブの香りに心がほぐれる気がした。
「ありがとう」
お礼を言うと、みんなもホッと息を吐いた。
みんなはわたしに何も聞かない。
心配で、何が起きたのか気になって仕方ないはずなのに、わたしから聞こうとはしない。
優しいこの人たちがわたしは大好きだ。
そして他の男の人ではだめなのだと、さっき痛感した。
全部話さなければと思った。
わたしが何故男の人に触れられるのが嫌なのか、その理由を。
そして、みんなだけは違うのだということを。
「わたし、小五…十歳のときに両親と弟を事故で亡くしたの」
急に話し出したわたしの言葉に誰かが息を飲む音が聞こえた。
唐突だけど、誰も口を挟もうとはしない。
訥々と話すわたしの過去を、みんな黙って聞いてくれた。
小五の冬、両親と弟は死んだ。
飲酒運転のトラック事故に巻き込まれて。
その日わたしは友達と映画を観に行く為、叔母の家に遊びに行くという両親の誘いを断った。隣町に住んでいる叔母には会おうと思えばいつでも会えるし、せっかくの友達の誘いを断りたくなかった。
わたしが全てを知ったのは、映画も見終わり友達とゲームセンターで遊んでいたときだ。
叔母からの連絡を受けたときは、何かの冗談だと思った。
けれど家族の無惨な姿を目の当たりにしたとき、地獄に突き落とされた。
朝いつも通り挨拶をしてわたしを見送った家族が、傷だらけで横たわっている。
これは現実だろうか。
違う。これは夢だ。
そのときのわたしは、そう自分に言い聞かせてなんとか理性を保っていたのだと思う。
けれど現実は残酷で…
その日からわたしを取り巻く環境は大きく変わった。
一人残されたわたしは叔母の家に引き取られた。
両親にそれなりの財産があったことも理由の一つかもしれないが、わたしはそれなりに叔母家族と良好な関係を築けていた。
同い年の従姉妹がいたことも大きかったのだと思う。
従姉妹は少し大人びた子で、同い年だけどわたしを引っ張ってくれるお姉さんのような存在だった。
流行に疎いわたしに流行りのファッションや音楽を教えてくれたり、男子にからかわれるわたしを助けてくれたりとよく世話を焼いてくれた。
そんな関係が崩れたのは、中二になってからだった。
きっかけは些細なこと。
有名進学塾に通う従姉妹の成績よりも良い成績を取ってしまったことが、全ての始まりだった。
プライドの高い彼女は、普段下に見ていた従姉妹に負けたことがよほど屈辱だったのだろう。
「春ってば、塾も行ってないのにどうしてそんな成績取れたの?」
悔しいながらも、このときは純粋な気持ちで聞いてきたのだと思う。
だけどわたしはきっと、返しを間違えた。
「たまたまだよ。運が良かったんじゃない?」
本当に前日詰め込んだ内容が運良く当たっただけなのだけど、これが良くなかったんだろう。
その日から彼女の態度は一変した。
家族や友達の前ではわたしを心配するふりしながら、わたしの良くない噂を流すようになったのだ。
「春っておとなしそうな顔して男遊びばかりしてるの。私心配で…」
「この前春の部屋からすごい下着が出てきてびっくりしちゃった。どんなのか?いやだ、私の口からは言えない」
「この前知らないおじさんと歩いてるとこ見ちゃったの。あそこってホテル近いよね…」
同居してる彼女の話は説得力があったのだろう。
わたしを良く知る友達は決して信じなかったけど、そうでない人たちのわたしを見る目は確実に変わった。
どんなに否定しても噂は一人歩きしてどんどん大きくなっていく。
とうとう先生から呼び出しを受けたときは、隣に座る叔母の目も同級生たちと同じものに変わっていた。
実の娘と姪。どちらの話を信じるかなんて明らかだった。
面倒見きれないと判断した叔母夫婦は、わたしを別の親戚の家へやった。
その家にはわたしの二歳上の息子がいたから、噂を信じる親戚は引き取りを拒否したらしい。
だけど叔母は、共働きの家より専業主婦のいる家の方が良いと押し通してわたしを追い出すことに成功した。
これで平穏が戻る。そんなホッとした顔だった。
次の家は母の従姉妹の家だった。
嫌々引き取ったのだと言わんばかりの冷たい態度で、渋々迎え入れてくれた。
隣にいた高一になったばかりのはとこもまた噂を知っているようで、ニヤニヤと嫌な笑みをわたしに向けていた。
従伯母はわたしに決して息子を誑かさないよう忠告して、出来る限りの監視をしていた。
もちろんそんなつもりはないから、誤解を受けない為にもわたしからはとこに近づくことはなかった。
けれどはとこは従伯母の目を盗んではわたしに接近し、卑猥な言葉をかけたりとからかうことを楽しんでいた。
それでも、まだ中学生だったわたしに直接触れたりすることはなかった。
態度が変わってきたのはわたしが高校へ進学してからだ。
その頃から、はとこのわたしを見る目が段々と含みのあるものに変わってきた。
そのときのわたしは背がさほど高くないのに胸がそこそこ成長してしまっていて、それをトラウマに感じていた。
私服ではオーバーサイズの服を着てごまかせるけど、制服だとそうもいかない。
すれ違いざま胸に視線を向けられるのはとても気分の悪いものだった。
そんなある日、はとこは一階に従伯母がいるにも関わらずわたしを壁に押し付け胸を触ってきた。
悲鳴をあげたところで母親は俺の言うことを信じるよ。下手に騒ぐとお前への態度、更に酷くなるんじゃないか?そう言ってわたしの抵抗を許さなかった。
それを皮切りに、はとこは隙あらばわたしの胸やお尻を戯れに触るようになった。
偶然を装って浴室に侵入されたこともある。すぐに出て行ったけど、裸を見られた屈辱でぼろぼろと涙が溢れた。
そしてあの日。
寝ていたわたしは生暖かい空気を顔に受けて目が覚めた。
目の前にはとこの顔があって驚愕する。
本当に驚いたとき声は口から出てくれないのだと知った。
はとこはわたしに覆い被さり片手でわたしの胸を掴む。
状況を理解して逃げようとするわたしの両腕を押さえつけ、暴れるなと小さく注意する。
そんなこと言われておとなしくするはずがない。
足で蹴り飛ばしてベッドから落としてやった。
床に尻もちをついたはとこは呆然とわたしを見やる。
まさかこんなに全力で拒否されると思っていなかったんだろう。
はっきりと抵抗を見せたのはこのときが初めてだった。
騒ぎを聞きつけて従伯母夫婦が駆けつけた。
電気を付けて状況が分かると二人とも驚いて目を見張った。
良かった。この状況ならわたしが襲われそうになったと分かるはずだ。
だってここはわたしの部屋で、はとこが深夜に侵入したのは明らかなのだから。
従伯母の顔はみるみるうちに赤くなっていき、同時にわなわなと震え始めた。
そして大股でわたしのベッドまで来て大きく手を振りかぶった。
一瞬のことでよく分からなかった。
ただ、ジンジンとした頬の痛みからようやく、平手で打たれたのだと気づいた。
「出て行きなさい!!!」
基本静かな従伯母のあんなヒステリックな声を聞いたのは初めてで、ショックよりも痛みよりもわたしを支配したのは諦めと虚無だった。
次の日、わたしは遠縁の親戚の家に連れて行かれた。
ろくに説明もされないままその家の玄関先に置き去りにされる。
家から出てきたのはおばあさんで、顎をしゃくって中に入れられた。
おばあさんはわたしを使用人として扱うことを条件に家に置いてくれると言った。
十八になるまであと二年半。
それまでは形式だけでも誰かの庇護下にいなくてはならない。
わたしは承諾し、その家で家政婦のようにして過ごした。
その家は七十代のおばあさんと四十代の息子の二人暮らしだった。
おばあさんはわたしを使えるだけこき使っていたけど、息子のおじさんはあのおばあさんと血が繋がっているとは思えないほど穏やかで優しい人だった。
たまにおばあさんの見えないところで家事を手伝ってくれたり、仕事帰りに甘いものを買ってきてくれたりとわたしを気遣ってくれていた。
そしておばあさんがデイサービスでいない金曜日は必ず早めに帰ってきて夕飯の支度を手伝ってくれた。
メインはわたし、おじさんは副菜と汁物担当で、金曜日だけは少し楽をさせてもらっていた。
おばあさんのわがままに振り回されるのは大変だったけど、合間に少しだけバイトをすることも許されて、少しづつお金を貯め高校を卒業したら家を出ることを目標に日々を過ごしていた。
そして高三の一月、おばあさんが亡くなった。
持病の悪化による呆気ない最期だった。
それでも日常が大きく変わることはなくて、おじさんと二人きりの暮らしに慣れてきた二月の初め。
それは早生まれのわたしがようやく遅い成人を迎えたばかりのある日のことだった。
夜、違和感で目が覚めた。
横向きで寝ているわたしの身体を何かがまさぐっている。
服の上から胸や腹を撫でるのが何なのか、覚醒したばかりのわたしには理解出来ず、夢なのかなとボーッと考えていると、その何かがTシャツの裾から侵入して直にわたしの腹を撫でた。
その感触でようやく、それが人の手だと認識した。
びくりと身体が震える。
するとすぐに手は離れ、手の持ち主もそっと音を立てず部屋から出て行った。
誰だったのか。
この家にはわたしとおじさんしかいない。
まさか。
次の日の朝、信じたくない気持ちとそうとしかありえないという思いをないまぜにしながら、洗面所から出てきたおじさんに挨拶をすると、いつもと変わらない穏やかな返事が返ってきた。
やっぱり違う。夢でも見たのかもしれない。
そのときはそう自分に言い聞かせた。
でもそれから幾度となく手は訪れてわたしの身体をまさぐった。
少し身じろぎすれば離れていくその手の正体をわたしははっきりと突き止められずにいた。
就職も決まっている。
四月からは一人暮らしを始める予定で、その費用を考えると余計なお金は使えない。
卒業まであと少し。
それまではどうしても、この家に帰ってこなくてはいけないのだ。
もし突き止めて、それがおじさんだったら…
ほぼ間違いないと分かっているのに、恐怖と焦りからわたしは追求することが出来なかった。
手の訪れる日は決まって金曜日。
そして嫌なことに、新事実に気が付いてしまった。
おじさんの味噌汁を飲まなかった日ははっきりと覚醒するのだ。
二年以上、毎週飲んでいたおじさんの味噌汁。
それに毎回何かが盛られていたのだとしたら。
もしそうなら、わたしはいつから…
想像してぶるりと身体が震える。
嫌だ。考えたくもない。
また金曜日。
味噌汁は飲むふりをして捨てた。
そして夜中。
静かに扉が開き、誰かが入ってくる。
服の上から触られるのだって死ぬほど嫌だけど、最初から拒めば起きているのが分かってしまう。
あと少し。もう少しだけ耐えろ。
高校も今日無事卒業した。
新しい家だって決まった。
月末にはこの家を出られる。
それだけを考えて、息を殺してじっと耐える。
もうすぐ手は服の中に侵入するはずだ。
腹をひと撫でふた撫でされたところで少し動けば手は離れていく。
案の定手は腹をそっと撫でてきた。
不自然でない程度に身体を動かす。
けれど何故か、手は離れていかない。
いつもと違うことに心臓が早鐘を打ち出した。
わたしがもぞもぞ動いても手はそのままわたしの身体を触り続ける。
胸を念入りに揉み、あげく下着の中にまで侵入してきた。
全身が総毛立つ。
うつぶせになって手の侵入を拒もうとするけど、手は執拗に胸を追いかけてくる。
気持ち悪い。
気持ち悪い。
気持ち悪いっ!
どうしたら良いか分からない。
声を上げれば良いの?
でもこの家にはわたしとおじさんの二人しかいない。
もしこの手がおじさんなら、わたしは逃げられる?
最悪無理矢理…
恐怖が頭を支配する。
このときのわたしは、正常な判断が出来なかった。
必死に考えていたら、手はとうとう下半身に伸びてきた。
これ以上はやめて。
気持ち悪い。
怖い。
お願い…っ
「んー…」
最後の望みをかけて寝たふりを続けながら声を出して寝返りをうつ。
すると、手の動きがぴたりと止まった。
ズボンの中に入ろうとしていた手がすっと離れていく。
良かった。やっと終わった。
心の中でホッとしたとき。
チッ。
手の主は小さく舌打ちをして出て行った。
完全にいなくなったのが分かってから、ガタガタと身体が震え出す。
舌打ちをした。
確かに苛立っていた。
次はもう、どうなってしまうか分からない…
もうだめだ。この家にはいられない。
明日家を出よう。
次の日の朝、おじさんは家にいなかった。
土日は仕事が休みのおじさんがこんな早くからいないことに違和感しか感じないけど、正直ホッとした。
チャンスは今しかない。
急いで自分の荷物をまとめる。
元々自分のものなどほとんどない。
必要最低限のものだけバッグに詰めて家を出た。
バイトは十時から。
その前に公園のベンチに座り、しばらく泊めてくれそうな友達を探す。
本当はこんなお願いしたくなかったけど、もう他に頼れるところなどない。
転々としたけど、運の良いことにどこに行っても友達には恵まれた。
その一人が、理由を詳しく聞かずに了承してくれた。本当にありがたい。
どうにかなりそうなことに一安心してバイトに向かった。
昨夜の出来事がふとしたときに脳裏に浮かび、その度にミスをした。
優しい人たちばかりなので誰もわたしを叱ったりしないけど、逆にとても心配された。
普段はやらないミスを繰り返して、夕方仕事をあがったときは心身ともにへとへとになっていた。
あとは二駅先の友達の家に向かうだけだ。
今日こそぐっすり眠りたい。
バイト先はおばあさんの家と駅との丁度間にある。
駅に向かうには川沿いの少し薄暗い通りを歩くことになるけど仕方がない。
コンビニで甘いものでも買っていこうかなと考えていると前から人が歩いてきた。
「春ちゃん」
穏やかなその声が耳に届いた途端、息が止まった。




