閑話 〜side カイン〜
カインのお話です。
ちょっと暗いです。
母と姉の機嫌を損ねてはならぬ。
使用人含め、それが我がクライスト子爵家の共通認識であった。
母は大変な癇癪持ちで、気に触ることがあれば誰かれ構わず当たり散らす厄介な面を持っており、姉はそんな母を見て育ったゆえか、更に輪をかけて我が儘に成長した。
父たちは二人の逆鱗に触れぬよう気を使いながら生活し、私もそれにならうこととなった。
とりわけ母に強く当たられたのは、この子爵家の血を引く前子爵の長男であるキリアン父で、姉から当たられることが多かったのは、二人姉弟であるがゆえ、残念なことに私であった。
キリアン父と私は、まさしく父子であると誰しもが思うほど、見目がよく似ていた。
母はヘーゼルブラウンの髪にオリーブの瞳であり、他の父も皆、明暗はあれど、茶や黄色の温かみのある色素を持つ人が多い。
その中でキリアン父だけが銀の髪に紫の瞳で。
その色と、顔の造形からして、私がこの人の血を引いたことは疑いようもなかった。
キリアン父はとても優しく、物静かな人だった。
母から怒りをぶつけられるときも素直に受け止め、理不尽な物言いをされても言い返したりなどせず、ときに物を投げつけられ怪我を負っても、母を責めたりはしなかった。
そんな父を、他の父たちは気の弱い男だと侮り、母の怒りの矛先をキリアン父に誘導しては、怒りをぶつけられる父を陰で笑っていた。
だが、キリアン父はただ気の弱い凡庸な男ではなかった。誰よりも勤勉であり、家族を支える柱として全ての時間を注ぐことの出来る、真面目で強い人だった。
私はこの容姿のよく似たキリアン父を特に慕っていた。明らかに自分の血を引いていないであろう私を、他の父たちが顧みないことも大きかった。だがそれだけではない。この父は、母や姉だけでなく私のことをよく見て、私の行く道を示してくれていた。
更に、長男でなければ騎士を目指していたと言うほど剣の腕は確かなもので、だからこそ当時の私は不思議に思ったものだ。
「父上はとてもお強いのに、なぜ母上や他の父上たちにその力を見せつけないのですか?」
そう尋ねたのは、私が齢七のときのことである。
そうすれば母も怒る機会は減るだろうし、他の父たちに馬鹿にされることもないのに、そう思ったのだ。
父は幼い私の言葉にきょとんとし、そして少し厳しい顔をした。
「カイン。あなたは強さとは、見せつけるものだと思うのですか?」
父は、母や他の父たちにはもちろん、姉や私、あまつさえ使用人にもこういう話し方をする。
「私はそう思ったことなど一度もありません。強さとは、守る力です。私が日々鍛錬するのは、家族を守る為です。その家族に力を見せつけるなど、考えたこともありません」
「でも…」
「ましてや、あなたの母を力で大人しくさせようなどと、どうして考えられるのです?男の方が力が強いのは当然のこと。ですが、私の力は、彼女を守り、包みこむ為にあるんです」
そう言って優しく笑った。
私は己の考えを恥じた。
父は、誰よりも強く、優しく、誇り高い人であった。
父のようになりたい。
自分が目指すべきはこの父のような男であると、私はその日決意した。
その日から、私は父の果たせなかった騎士になるという夢を実現すべく、父を師として剣の腕を鍛えるようになった。
日々研鑽を積み、十三の頃には父をも唸る力を身につけることが出来た。
それと同時に私には、領地経営を学び習得するという義務も課せられていた。父に何か起こったとき、姉の将来の伴侶に業務を引き継ぐまでのつなぎ役としてである。
知識を吸収することは嫌いでは無い。父に何かあったらなどと考えたくもないが、父のように勤勉に努力を重ね、家族を陰で支えられたらと思っていた。
だが、そんな私の考えなど母や姉には当然伝わりはせず、相変わらずその我が儘に振り回されることが多かった。
姉はいつからか私を従僕のように扱うことを楽しむようになり、着替えの用意や着付け、髪のケアやセットなどを私にさせるようになった。
初めて着付けをさせられたのは十一のときで、三つ上の姉は既に初潮を迎え、ふっくらと女性らしい身体つきになってきていた。
私はシュミーズ一枚で立つ姉を、出来るだけ視界に入れぬようにして、顔を強張らせながら着替えを手伝った。そんな私を見る姉は、よいおもちゃを手に入れたかのように至極楽し気であった。
それからというもの、私は日に何度も姉から呼び出しを受け、その世話に追われることとなった。
「カイン、コルセットがゆるいわ。もっと締めて」
「襟のリボンがほどけそうよ。結び直して」
「髪の艶が足りないわ。櫛で梳いてちょうだい」
「やっぱりこれじゃないわ。早く脱がせて別のドレスを持ってきなさい」
「靴の輝きが足りないんじゃなくて?さっさと磨いてちょうだい。どうして脱がなくてはいけないの?這いつくばって磨けば良いじゃない」
終始こんな具合だ。
おかげで私はいつしか、姉の視線一つで何を要求されるのかを解せるようになり、更には、要求が来る前に先を読んで不満の噴出を回避する術を身につけた。
これは姉に限らず母や他者にも使えるので、非常に役立った。
キリアン父にも、そんな要領の良さがあれば良かったものをと思ったものだ。
そうであれば、その後の悲劇は起こらなかったかもしれない。
「カインはずるいわ。キリアンお父様の色は、わたくしが継ぐべきだったのに」
これは姉の口癖だ。
姉の瞳はつるばみ色で髪は栗毛と、素朴な色合いをしている。だが決して地味な顔立ちというわけではない。
少し目尻の下がった大きな目とぽってりとした唇は、男の庇護欲を誘うであろうそれなりの美人である。
それでも、自分にないものを男である私が持っていることを、姉はどうにも我慢がならないらしい。
私が姉の髪を梳けば、
「あなたは梳かなくてもその艶を保てるのでしょう?ずるいわ」
鏡を見れば、
「どうしてわたくしの瞳はこんな木の実のように汚ならしい色なの。どうしてあなたは男のくせにそんな宝石のような色なのよ。わたくしによこしなさいよ」
わたくしとカインの目を交換出来る魔法なんてないのかしら、そう言われたときは、心底この姉が恐ろしくなった。そんな魔法を見つけたら、いつか私の目はくり抜かれてしまうかもしれない。
それでも聞き流していれば、その言いがかりも次第にトーンダウンして終わるので、私はそう言われることにすっかり慣れていた。
波風を立てなければ、この家は平穏でいられる。父の望む、平穏な家で。
父の凪いだ草原のような落ち着きを見ることで、私も心の安定を保てていた。
十五になって、私は第二騎士団の試験に合格し、念願の騎士となった。
キリアン父はとても喜んでくれ、それが何より嬉しかった。
だが騎士の仕事が忙しくなると、私はあまり家へ帰れなくなった。
第一と比べて第二は巡回する範囲が広く、その他にも見習い騎士には雑務業務があり、王都内に屋敷があっても、なかなか帰る時間が取れない。
姉は私という雑用がいなくなり怒り心頭という具合だったが、何より、近年では父の仕事を手伝うようになっていたので、父の負担はいかばかりだろうと申し訳なく思った。
だが父はむしろ怒ったように、騎士であれば騎士の職務を全うしなさい、半端な仕事をしてはいけない、と私に言い聞かせた。
その優しさがありがたく、そうであるなら、私は父が誇れる騎士になろうと、ますます邁進を続けた。
私が地獄へ突き落とされたのは、それからしばらく後のことである。
その日。
勤務中にも関わらず、私は実家から呼び出しを受けた。帰宅すると、すぐに応接間へと通され、そこには母、ジェフリー父、モーリス父の三人が顔を揃えていた。この父二人は、母の取り巻きのようによく一緒にいる。
「カイン、あなた騎士をお辞めなさい」
母の開口一番がそれだった。
「何を…おっしゃるのです…?」
「あなたには騎士を辞めて、領地経営をしてもらうわ」
「私が、ですか…?なぜ…キリアン父上はどうされたのです?」
あまりに唐突な言葉に、どう答えるのが正解なのか逡巡する。
ここにキリアン父の姿がないことにも不安を覚えた。
父は、どこに…?
「あの人は死んだわ」
間髪入れず、母は答えた。
だが私には、その言葉の意味が理解出来なかった。
母が冗談を言うなんて珍しい。
そう思って口で弧を描こうとし、その目に何の感情も映っていないことに気付いた。
私を驚かそうとも、まして笑わそうとも怒らそうともする様子は一切ない。
淡々と、今ある事実だけを伝えた。それだけだと、その眼が語っていた。
「本当…なのですか…」
「こんな冗談を言って、わたくしに何の利があると言うの?」
やはり真実なのだと、まざまざと思い知らされ……
私は、自分の中の何かがガラガラと崩れ落ちるのを感じた。
「キリアンがいなくなってはわたくしの領地は立ち行かないわ。エミリアにもまだ正式な婚約者はいないし…あなたがやるしかないでしょう」
そうよねと目配せをする母と、それに従順に頷く父たち。
目の前の光景がまるで現実とは思えず、私は人形のように動かず黙していた。
ーーー父が死んだ。
あの、優しい、強い父が。
妻を愛し、子を愛し、家を愛し抜いた父が。
そんなことが、本当に現実に起きているというのか。
「父上は…何故…」
「馬車で領地に向かう途中、崖崩れに巻き込まれたのよ」
ああ。なんという不運だ…
あの慈愛に満ちた父が、何故そんな不運に見舞われなければならない。
「父上は…キリアン父上は今どちらに…?」
「もういないわ」
「いない!?」
「大きな声を出さないでちょうだい、不愉快だわ。言葉通りよ。もう葬儀も済ませているもの」
愕然とした。
「葬儀を済ませた…?いつのことです?何故私は呼ばれなかったのですか!」
「ああ本当にうるさいわ、いい加減にしてちょうだい。次に声を荒げたら容赦しないわよ。…何故あなたを呼ばなかったかですって?騎士の仕事が忙しいと、家を疎かにしていたのはあなたでしょう?そもそもあなたが騎士になどならず家にいれば、キリアンが一人で領地に戻ることもなかったのよ。あなたが付いていれば何とか出来たのではなくて?キリアンが死んだのは、あなたのせいだわ」
だからあなたは、キリアンの代わりを務めなくてはいけないのよ。
母はそう言って、私に扇を突きつけた。
母は本気だ。
騎士を辞め、領地経営に専念しろと言う。
父の夢を追い、念願叶えた私に、騎士を辞めろと。
父の死の責任を負わせて。
ーーー私の理想は父であった。
父のように生きると定めて生きてきた。
騎士を辞め、領地経営を円滑に進めれば、父は喜ぶのだろうか。
それが父の望む私の姿だっただろうか。
果たして、私は騎士を辞めなかった。
騎士を辞めず、領地の仕事もこなした。
夜勤の日以外は必ず帰宅し、報告を受けては現地の者の動きを差配し、繁忙期には休暇をもらって王都と領地を行き来した。
寝る間もほとんどなく、移動中や仕事の合間に仮眠を取る。そんな生活が続いた。
けれど騎士としての仕事も鍛錬も、決して手は抜かなかった。
父ならばどうしたか。
そう考えると、手など抜いてはいられなかった。
そんなある日。
剣技の大会で、私はあの人と出会った。