第217話 桃李満門の私達から、いくつになっても。
「あ、槿さん帰って来ましたよ。」
連花は、どうやらドアの開く音が聞こえて、槿が帰ってきた事に気がついたらしい。そういえば、今日は珍しく靴を履いて出て行ったから、部屋に直接帰らなかったみたいだ。
「相変わらず、動物みたいな五感をしているのです。」
思わず私の顔が引き攣る。凄いというか、少し気持ちが悪い。彼が変態でなくて本当に良かった、と安堵したのは別にこれが初めてではない。
「おかげで気付けたのですから、感謝して欲しいものです。」
「そうですけれど。」
「気持ち悪いのは、気持ち悪いって。」
「はいはい。」
からかう一果を適当にあしらい、聖書を読みながら机の上の日本茶を啜る。今更読んだ所で、覚えていない事なんてないくせに、と私と一果は顔を見合わせて呆れ、椅子から立ち上がる。
「お帰りなさい。むーちゃん。」
そう言いながら、リビングの扉を開け、恐らく廊下にいるであろう槿に声を掛けた。
「あ、ただい……っ!!」
気が付いたように、涼と繋いでいた手を、熱いものに触ってしまったような大げさな動作で離した。
「ついにちゅーでもした?」
口元に手を当てて、ニヤニヤとからかうように一果は訊いた。
「ち、違うから……。これも別に、そういうのでもないし……。」
顔を真っ赤にして槿は否定する。涼のあまりに何でもない顔を見るに、恐らくそういう事は何もしていないのだろう。
「一果。これは間違いなくそれ以上の事をしてきているのです。」
それがわかった上で、私はからかう事にした。
「だからしてないから!」
「まあ、その辺にしといてくれ。」
槿の方に手を置いて、横目で慈しむような目線を一瞬向けた後、どこかアクの抜けた笑みを私達に向ける彼に、私と一果は狼狽える。こんな風に笑う彼を見た事がない。もしかして、本当に肉体的な接触をしたのではないか、と勘ぐってしまう程の変わりようだった。
「ちゃんと、伝えられた?」
「……うん。」
槿は赤い顔のまま、嬉しそうに小さく頷く。一果のその一言で、私は気付いた。
ああ、だから涼は上機嫌なのか。別に思い違いをしたこと自体は何とも思わないけれど、一果よりも邪な考えをしていた、という事が許せなかった。
「それは、何よりなのです。」
まあ、そんな感情は槿には何も関係ないし、表に出したところで私が恥ずかしい思いをするだけなので、素直に祝う事にした。
「2人は既に聞いていたのか。」
涼は驚いたように目を見開いた。見慣れた表情を見て、ああ、いつもの彼だ、と何故かほっとする。
「当たり前なのです。何なら、病院まで付き添ったのは私達なのです。」
最も、病院に着いた後はいつも通り近くの喫茶店で時間を潰したのだけれど。
そうしているのは、槿の希望で、彼女曰く、『病院にシスター服の人が居たら、演技悪いし。』との事だった。だから普段は車で待っているか、喫茶店に行くかをしている。シスター服を着替える、という選択はない。
ちなみに、連花はまだ聞いていない。『うっかり、涼に言っちゃいそうだし。』と言って、槿から緘口令を敷かれていたからだ。
「そうか。槿がまだ生きる事が出来るのは、君達のおかげだ。ありがとう。」
そう言って頭を下げる涼に、私と一果はまた狼狽える。ここまで素直な彼は、少し不気味だ。それに、この流れだと、少し言いづらい。
「そう言っていただけるのは、嬉しいのですが。」
が、あまり2人の時間の邪魔をするのもよくないと思って、私は槿に伝えるつもりだった話を切り出した。
「実は明日、私と二葉はちょっと用事があってさ、関東支部に行かなくちゃならなくなったんだよね。
「だからの家事は常盤司教にお願いしたのです。」
「あ、そうなんだ。珍しいね。」
思っていたよりも、槿はあっけらかんとした様子だった。涼に伝えることが出来て、恐らく2人の空気から、受け入れてもらえたのだろう。その安心感からか、心に余裕があるようだった。
「……別にいいのだが、今言われると、どこか肩透かしを食らったような感覚に陥るな。もちろん、用事があるのなら仕方がないし、普段君達への感謝は変わらないが。」
不平不満を漏らす涼に、安心感を覚える。やっぱり、彼は暗くてじめじめしている方が似合っている。
「急に決まった用事で、言う機会がなかったのです。」
「全然いいよ。純粋な興味なのだけれど、どんな用事?」
槿の質問に、私と一果は揃ってため息を吐いた。がっくりと肩を落としたところも揃っていた。
「「パパとママに、呼び出されたのです」んだよね。」




