第六話 亮子ちゃん
真紀ちゃんとの食事を終えると、時刻は3時を過ぎていた。
急いで最後の目的地へと向かう。
高速に乗り、一気に距離を詰める。
一般道と違い、高速道路を走るサンクはとっても気持ち良さそうだ。
30分ほど走り、インターを降りる。
幹線道に入ったところでちょっと大きめの酒屋を見つけ、そこでワインを買った。
亮子ちゃんの病院に行くのもちょー久しぶりだな。
亮子ちゃんはもうずっと前に離婚して、その時旦那とやっていた大病院の分院を自分のものとした。ついで3人の子供も引き取ったって言ってたな。
やがて亮子ちゃんの病院が見えた。
夕方のラッシュ前に着くことが出来てよかったな。
車を駐車場の隅に止め、病院の玄関を見る。
もう、診察が始まっている時間なのだろうか。玄関のブラインドは開き、照明が点いていた。
風除室を通って待合室に入る。
少し照明を落とした感じの広い待合室は、なんだかゴージャスに感じた。
正面に受付のカウンター。その左右に診察室がある。
こんにちは、と受付の女性が笑顔を向ける。
ここではふざけられないな・・・。
「あの、獣医の高原といいます。院長先生はお手隙でしょうか?」
わたしはちょっと緊張しながら声をかけた。
「はい、少々お待ちください」
受付の女性は、小走りに奥に入っていった。
少しして、右の診察室の扉が開くと、懐かしい顔が出て来た。
「灯子ちゃん、よく来たね。どうぞ入って」
群青色のスクラブ姿の亮子ちゃんは、相変わらず綺麗だ。
そんな亮子ちゃんの後をついて行く。
途中医局を通ると、5、6人のスタッフが雑談をしていた。
「ちょっと大事なお客さんだから、診察来たらお願いね」
亮子ちゃんはスタッフにそう言うと、院長室と書かれた扉を開き、どうぞとわたしを招き入れた。
「ねぇ、ねぇ、前に来た時より病院大きくなってない?スタッフも増えたような」
扉が閉まると同時にわたしは聞いてみた。
「灯子ちゃんがうちに来たのって随分と前だものね。それからかなり増築したかも。そうしないとスタッフの居場所がなくって」
「あ、これ」
そう言ってわたしはお土産のワインを渡した。
「スタッフどれだけいるかわからなかったから、お菓子よりも亮子ちゃん用のワインにした」
「ありがとう。え?これ高かったでしょ」
亮子ちゃんは嬉しそうにワインを受け取ると、コーヒーいれるねと言って、奥の部屋に入って行った。
亮子ちゃんの部屋は入った正面に窓を背に大きなテーブルがあって、右側には壁一面の本棚。奥の部屋がある左側は応接セットが置いてあった。
「今スタッフ何人いるの?」
わたしは奥に向かってちょっと声を大きくして言った。
「勤務医が二人、VTさんはシフト性だけど、全部で6人かな」
そう言いながら戻って来た亮子ちゃんはショートケーキを2つ持っていた。
「何?普段からケーキ用意してあるの?」
いきなりのケーキにちょっとびっくりした。
「患者さんからもらったんだよ。スタッフみんなで分けても一人3個にもなっちゃってね。だから食べて」
亮子ちゃんは応接セットのテーブルにケーキを置くと、すぐにまた奥の部屋へと入って行った。
わたしはテーブルに置かれたケーキを目印にソファーに座った。
少しして、いい匂いのコーヒーがやって来た。
テーブルにケーキとコーヒーがそれぞれ置かれ、準備が整ったところで亮子ちゃんがソファーから体を乗り出し口を開いた。
「で、何があったの?」
ここまでに、これを言い出したくて仕方がなかったのだろう。
真剣な目を向ける亮子ちゃんは、やっぱり綺麗だ。
そこまで期待されちゃうと、話さないわけにはいかないね。
その前に、わたしはコーヒーを一口飲んだ。
そんなわたしを見る亮子ちゃんの目は、焦らされて少々怒っている。
ああ、うまく話せるかな。
「あのね、石津先生が、病院を辞めるんだよね」
「ほんとなの?」
亮子ちゃんは乗り出した体を引っ込め、ソファーに座った。
「まぁ、それはどーでもいいんだけどね。ただ、いいなぁ、なんて思って・・・。てか、わたしはこの先どうしようかなんて考えたことなかったから、なんだか急に不安になったんだよね」
亮子ちゃんはわたしを見るだけで、何も言わない。きっと全て吐き出すのを待っているのだろう。
「ここに来る前に、いっこく橋と、真紀ちゃんとこ寄ったんだ。当たり前かもしれないけど、みんな目標を持ってた。わたしは、ただ毎日毎日、病院の仕事をするだけで将来のことなんて気にもかけなかったし、毎日の仕事をしっかりとやっていればそれでいいと思ってた」
わたしは、亮子ちゃんから視線を落とし、微かに揺れるコーヒーを見つめた。
「でも、いざ周りに目を向けたら、周囲はどんどんと変わって行ってた。それに気付いたら、なんだか自分だけ取り残されてるような気がした」
コーヒーを見つめたままゆっくりと息を吸い、次を一気に吐き出す。
「今のわたし、仕事するの結構つらいんだよね。冷静に見て、ちょっと病んでるのかもしれない。だから余計に不安が大きいのかも」
そこでわたしの言葉は止まった。
わたしの言いたいことはこれでいいのかな? うまく言えたのかな?
遠くで犬の鳴き声がする。患者さんが来てるのかな。
カチャっとコーヒーカップを戻す音がした。
「わたしだって、将来なんてただ漠然とした思いを持っているだけだよ。それも今になってやっとね」
亮子ちゃんの声に、わたしはコーヒーから視線を亮子ちゃんに向けた。
「分院を任されて、その後離婚して、子供3人連れて、分院をわたしのものにして・・・。そんな時はさ、毎日生きるのに必死で先のことなんて考えられなかったな」
亮子ちゃんは遠くを見つめるように話した。
「今の灯子ちゃんは、きっとそれと同じなんだよ。少し余裕が出て来て、やっとこれから考えられる状態になったんだよ。急に気持ちが変わるんだから、不安で当たり前」
これから考えるのか・・・。今のわたしにそんな力は残っているのかな?
わたしはフォークを持つとケーキを小さく切り、口に入れた。それは甘さと共に口の中ですぐに溶け、しばらくするとわたしの血糖値を上げるだろう。それと同時に力が出るかな?
「亮子ちゃんは先のことどんな風に考えてるの?」
亮子ちゃんもケーキを頬張っている。そしてそれを飲み込むとゆっくりと話し始めた。
「んー、考えてるってほどのもんじゃないけど・・・。上の子は海外で遊びまわってるけど、真ん中の子が大学受験でね。獣医になるんだって」
そうか、あのちびっこがもうそんな歳なんだ。
「あいつが獣医になって、代診行って戻ってくるまでここ頑張って、あとは任せて隠居して好きなことやるよ。まぁ、息子がダメなら、適当なところでここを売って、そのお金でのんびり暮らすとかさ。あちこち旅行も行きたいし。まぁ、子供抱えて開業医なんてちょー大変だったからね。いずれにしてももう少ししたらキッパリと辞めて、楽させてもらうよ」
頑張って築き上げて来た自分の病院なんだから、自分の子供に継いでもらうのが一番嬉しいだろうな。まぁ、勤務医がいるんだから、最悪勤務医に売るって手もあるだろうし。
「亮子ちゃんの未来は安泰だね」
「そーかなぁ。でも、やっとここまで来たって感じ」
そう言って、亮子ちゃんはあははと笑った。そして真剣な顔になるとまた身を乗り出して話し始めた。
「さっき灯子ちゃん、仕事がつらいって言ってたけど、気を付けないと診療に影響出るよ」
「うん。出来るだけ気を張って、ミスしないようには気を付けてる」
「そーじゃなくってさ」
「え?」
「離婚とかで揉めてる時さぁ、毎日イライラしながら診療してたのさ。そしたら、ものの見事に患者さんが減ったよ。こっちの身が入っていないってのが患者さんにわかるんだろうね」
亮子ちゃんはそれがまるで他人事のように大きく笑った。そしてそれを自分自身に当てはめてみると、なんだか思い当たるようなことがあってさらに不安になった。
「それに気付いてからは、自分のことを大切にするようにした」
それはわたしの考えた答えと違っていた。
「自分? 仕事じゃなくって?」
「だって、自分が幸せじゃないのに、他人を幸せになんて出来ないでしょ」
「まぁ、そーだね」
「よく、仕事とプライベートは分けるようになんて言われるけどさ、そんなことうまく出来るわけないよ。だから、プライベートをまず優先して、プライベートが満足できた状態で仕事をするようにしたの。無理して気持ちがギリギリの状態で仕事してもいいことないしね」
ああ、そう言うことか。わたしは全く逆のことをしてきたな。
「だから、病院を大きくしようと考えたし、VTを十分に入れ、勤務医を入れた。スタッフがいれば、お互いに助け合えるし、個人個人が無理しなくて済むでしょ。スタッフにも言ってるんだよ。プライベート優先って。その代わり、自分が満足した分、他人も満足させよ、って」
亮子ちゃんってすごいや。きっとわたしには想像もできないくらいの苦労をしてきたんだね。わたしはまだまだお子ちゃまだ。
亮子ちゃんはソファーに座り直すと、ケーキを口に入れゆっくりとコーヒーを飲んだ。そしてカップを置くとまた身を乗り出した。
「で、旦那が仕事辞めるんなら、灯子ちゃんの病院で一緒に働くの?」
普通はそう思うよね。
「そんなの決まってない。山に行きたいなんて、わけのわからないこと言ってたし」
「でもさぁ、ずっと両方の病院で別々で頑張って来たわけだし、そろそろ一緒でもいいんじゃない? 今までが異常だもの」
「そうかな?異常だとは思わなかったけど」
籍は入れたものの、二人とも自分の病院を持っていたからどちらかを犠牲にして一緒に暮らすなんてことは考えたことがなかったけど、普通に見れば異常なんだろうな。
「でも、出来たらこれからは一緒にいたいな」
「それが一番いいよ。灯子ちゃんの病院で、こき使ってやれ」
そう言って亮子ちゃんは優しく笑った。
そうだね。一緒にやるのもいいかもね。
わたしは残りのケーキを一気に口に入れると、コーヒーカップに手を伸ばした。
そうか・・・。
その時、急にうっすらだけど、わたしの行先が見えたような気がした。