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第三話 まだやれる?

 

 時計を見る。

 「もう、終わりかな」

 あと数分で夜の診療が終わる。

 診察室は暖房が入っているとはいえ、窓際に座っていると夜の冷気が足に伝わってくる。

 片付けでもしようかと立ち上がったところで、駐車場に車が入った。

 「ああ、今日はもう終わりだと思ったのに」


 少しして依莉ちゃんがカルテをもってやって来た。

 「仕事から戻ったら、ぐったりしてたそうです」

 ゴールデンのサクラちゃん、森田さん久しぶりだな。

 確かサクラちゃんは避妊手術してなかったな、要注意だ。

 「森田さん、連れて来ていただいていいですよ」

 依莉ちゃんが待合室へのドアを開けそう言うと、森田さんは直ぐに待合室を出て行った。

 しばらくして、ご主人が太ったゴールデンのサクラちゃんを抱えて診察室に入って来た。

 そのまま、診察台にのせる。

 森田さんのご主人は、肩で息をしながら腰に手を当て腰を労った。

 サクラちゃん、40キロはあるからなぁ・・・。

 診察台の上で横になったままのサクラちゃんの状態は、明らかに悪そうだ。

 「2、3日前から元気がなかったんですけど、夕方仕事から戻ったらなんだかぐったりしていて」

 森田さんの話を聞きながら、わたしはサクラちゃんのお腹を見る。

 この大きさは太っているからだけじゃなさそう。

 陰部を見る。腫脹。

 「最近発情はいつ頃ありました?」

 「えっと、2、3ヶ月前だったかもしれません」

 「飲み水の量が増えたとかはありました?」

 「ああ、そういえば、少し前からよく飲んでいたような」

 依莉ちゃんにエコーのスイッチを入れるように目で合図を送る。

 エコーの起動後、プローブをサクラちゃんの腹部にあて、映し出された画像を見ると気が重くなった。

 蓄膿症には間違いないけど・・・・、漏れてる。

 おそらく子宮蓄膿症のせいで数日前から調子が悪く、そして今日子宮に穴が開き膿が腹腔内に漏れたことによって急に状態が悪くなったのだろう。

 心配そうにモニターを見ている森田さんとご主人に状態を説明する。

 かなり状態が悪いと言うことは、診察台の上でぐったりしているサクラちゃんを見ればわかるだろう。

 治療の説明に移る。

 「このまま入院が必要になります。補液をして抗生物質の投与を行い、緊急の手術で卵巣と膿の溜まった子宮を摘出します。おそらくお腹の中には子宮から漏れた膿がたくさん溜まっているので、何度も何度も洗ってきれいにします。この状態ですので、麻酔も手術もかなりのリスクはあります。場合によっては手術中に、なんとか手術を頑張ってもその後腹膜炎などで亡くなってしまう可能性もあります」

 説明を聞いている森田さんの顔が歪む。

 「どうしますか?この治療を希望されますか?」

 「手術したら、助かりますか?」

 そう聞いて来たのはご主人だった。

 わたしは、二人に分からないように心の中で大きくため息をついた。

 「助かるなら、手術をお願いするんですが」

 わたしの返事を待たず、ご主人が続けた。

 もう、そう言う言葉は聞き飽きたよ・・・。

 呆れた気持ちと、怒りに似た気持ちが込み上がった。でも、そんな気持ちを飼い主にぶつけたってどうにかなるものではない。

 それでも、少しだけ言葉がキツくなってしまうかな。

 「100%助からないなら、わたしは手術をお勧めしません!」

 ひょっとしたら、わたしはご主人をちょっと睨むような感じだったかもしれない。

 「わたしは、サクラちゃんを助けたいから、助かって欲しいから手術を提案したのです」

 わたしの言い方が気に入らないなら、このまま帰ってもらっても構わないと思った。

 「決めるのは、飼い主であるあなた方です」

 そう言うとわたしは二人から視線を外し、その視線を深く大きく呼吸を繰り返すサクラちゃんに向けた。

 苦しいよね。でも、今はまだ、きみに何もしてあげられないんだ。

 わたしは口に出さず、心の中でサクラちゃんにそう言った。

 きっとご主人は、サクラちゃんを連れて帰るって切り出すだろう。それならそれでいい。わたしは間違ったことを言っていない。

 「助かるならいいけど・・・」

 ご主人のその言葉を遮るように森田さんが口を開いた。

 「手術をお願いします。わたしが決めます!」

 森田さんはもう一度お願いしますと頭を下げ、そしてすぐに頭を上げるとご主人に言った。

 「もしもサクラが助からなかったら、それはここまで気がつかなかったわたしたちの責任だから」

 そう言われたご主人は少し場が悪そうにしながらも、お願いしますと頭を下げた。

 


 

 「じゃぁ、留置して、500一本入れたところで手術をはじめよう。ビクシリンとバイトリル、ビクシリンは静注で」

 依莉ちゃんに指示を出し、直ぐにわたしは手術室の準備にかかる。

 太ったゴールデンか・・・。

 一瞬、不安が頭をよぎる。

 けど・・・、怖がっている暇はない。

 緊急の手術だ。今やらなきゃいけないことは山ほどある。

 やるしかないのだ。

 

 急速で点滴を500入れ、ドルミカムとベトルファールで鎮静。

 そして、プロポフォールで導入。挿管後、手術室へ運ぶ。

 依莉ちゃんが手際よくモニター類を繋げてゆく。

 わたしは恥骨付近から胸骨まで大きく毛を刈り、消毒を繰り返す。

 次に手術用の帽子とマスクをつけ、手洗いを始める。

 規則正しいモニターの音が聞こえる。麻酔は安定しているようだ。

 滅菌タオルで手を拭き、手術器具の横に置かれているガウンを手に取り、広げる。左右の腕を通し羽織ったところで、介助者用のプレートを依莉ちゃんに渡す。後ろで縛ってくれている間に、わたしはグローブをはめる。

 わたしの準備が終わったところで、電気メス、エンシールのデバイスが依莉ちゃんから渡され、その配線が落ちないようにタオル鉗子で固定する。

 「点滴は1リットル入れちゃっていいからね。その速度だと直ぐになくなるから気をつけてね」

 「はい」

 そう返事をする依莉ちゃんの後ろには、次の輸液バッグが見えた。

 「行くよ」

 手術開始。

 お臍直下から恥骨前縁まで一気にメスを走らせる。

 次に電気メスで止血をしながら深い皮下脂肪を進み、白線に辿り着く。

 鉗子で白線を持ち上げ、メスで切開を入れる。と、同時に切った穴から緑色に暗赤色の混ざった膿が溢れ出した。

 メッツェンに持ち替え上下に切開を伸ばす。

 解放された膿は一気にドレープに広がる。

 でも、そんなことはどうでもいい。

 大きく開かれたお腹に手を入れ、膿の溜まった子宮を引っ張り出す。

 子宮の表面に、溢れる膿に赤い筋が渦巻く穴が見えた。

 「ここか」

 とりあえずこれ以上膿が術野を覆わないように大きく結紮する。

 「依莉ちゃん、手洗って」

 サクションで膿を吸い、術野を確保する。

 急に昔の記憶が蘇る。

 そうだ、あの時と一緒だ。

 溢れる膿の中での手術。

 そう、いっこく橋での絶望の手術。

 そして、わたしはいっこく橋を辞めたんだ。

 依莉ちゃんの準備ができた。

 卵巣を出すために右の子宮角を引っ張り依莉ちゃんに渡す。

 卵巣出るか?

 子宮の表面をコーティングした膿のせいで指が滑る。

 また、絶望か・・・。

 いや、エンシールのジョーがかかればなんとかなる。

 襲いかかる恐怖を払い除ける。

 しかし、それは姿を変え再び襲いかかる。

 いつもなら、手術が始まれば、もう何も考えずに進むことができるのに。

 今日は違う。

 あの時の恐怖が蘇る。

 なぜ?

 あの時はちゃんと出来たじゃない?


 ああ・・・。

 今までどれだけ手術をして来ただろう。

 いつだったか、わたしの獣医人生の中で最後の手術はなんだろう?なんて考えたことがあったっけ。

 こんな手術、いつまでもやれるものじゃない。

 取り返しのつかない失敗の前に辞めたほうがいいんじゃないのか。

 でも、こうしてまだやってるじゃない? まだまだ出来るよ。


 でも、不思議だね。


 頭はこんなことをずっと考えているのに、恐怖の中でも指先は勝手に動いている。

 でもね。

 でも・・・。


 そうじゃない。

 やれるか、やれないかじゃないんだ。

 重要なのは、わたしの気持ちがここにあるかどうかってこと。


 迷っているわたしのままじゃ、来てくれるみんなに失礼だよ・・・。






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