第二話 こんな仕事なんて
「え~、いいなぁ・・・。で、いつ辞めるの?」
「まぁ、1、2ヶ月のうちには。長くいても仕方ないし」
「その後どーすんの?」
「どこか、山にでも行こうかな」
「はぁ?・・・」
朝、目覚ましが鳴る前に目が覚めて、昨日の夜の電話のことを思い出していた。
電話の相手は石津先生。
まぁ、ずっと前から病院を辞めたいって言ってたんだけど、まさか本当に辞めるとは思っても見なかった。
たまたま病院を辞めたいと話した知り合いの先生のとこの勤務医が、それならそのまま病院を欲しいと言うことで丸々売ることにしたみたい。
こー言うのって、なかなかタイミングとかお互いの条件が難しかったりするので、ちょーラッキーなんじゃないかって思った。
目覚ましがなる。
大きく背伸びをして、わたしはベッドから起き上がった。
いつものように診察時間が始まる。
最近、患者さんが来ないといいなぁ、なんて思うことがよくある。
実際、入り口の扉が開くチャイムの音や、電話が鳴るだけで気が重くなる。
でも、患者さんが来ないと生活していけないわけで、だから余計に辛い。
午前の診察時間が終わる頃、扉の開閉を知らせるチャイムが鳴る。
患者さんが来たようだ。
薬だけだといいなぁなんて思っていると、依莉ちゃんがカルテを持ってやってきた。
ああ、診察か・・・。
カルテを見る。
近藤さん、子宮蓄膿症のマルチーズだ。
前回の診察で、しっかりと診断はついている。
状態としてはあまり悪くなかったので、飼い主さんの希望もあり前回は内服を出した。
40代くらいの近藤さんはやや細身の男性で、ちょっと神経質だ。
「ファイト!」
わたしの心を読んでか、依莉ちゃんが小声で気合を入れてくれた。
「近藤さんどーぞ」
依莉ちゃんが待合室に続く扉を開けて近藤さんを呼び込む。
「こんにちは。どーぞ」
ここまできたらやるしかない。いつものようにやればいいのだ。
「薬を飲んでみてどうですか?」
まず状態を聞いてみる。診察台に乗ったマルチーズのモモちゃんはちょっと元気がなさそう。
「おりものは全然減らないし、ちょっと元気もなくなってきたかな」
近藤さんが素っ気なく答えた。
エコーで腹部を見てみると、膿の溜まった子宮は前回よりも大きくなっている感じだった。
「あまり芳しくないので、悪化する前に手術をしたほうがいいですよ」
機会を逃すとどんどんリスクが高くなるからね。
大抵の飼い主さんはここまでくると手術を希望するんだけど、近藤さんは違った。
「また、飲み薬を出しておいてください」
何日かして、近藤さんがやってきた。
今回はモモちゃんは連れてきておらず、薬だけだ。
「状態はどうですか?」
多少良くなってるといいなと期待して、聞いてみた。
「変わらないですね」
だよね。ああ、胃が痛い・・・。
「もしも状態が少しでも悪くなっているようなら、早めに手術を考えてあげてください」
子宮蓄膿症は、拗らせなければ手術でけろっと元気になることが多いのだ。けど、時間が経てば経つほど、腎臓がやられたりして死亡率が高くなる。
「それだけどね、他の病院に電話で聞いてみたら、手術なんてしなくていいよって言われたよ」
そう話す近藤さんの表情は、誇らしげだった。
こーいう人は相手にしないほうがいいな。
「じゃぁ、同じ薬出してあげて」
わたしはカルテを書くと依莉ちゃんに渡した。
それにしても、電話だけで手術しなくていいなんて言うその病院もどうかしてるような気がするな。
そして数日後、また近藤さんは薬だけ取りにやって来た。
状態は良くなっていないとのこと。
だったら・・・。
「先日電話した病院でもいいので、しっかりと診察してもらってください」
飼い主のことなんてどうでもいいけど、苦しんでいる動物のことを思うとそんな言葉が出た。
「こっちは忙しいんだ!つべこべ言わず薬を出してればいいんだよ!」
すかさず近藤さんの一撃を喰らった。
ああ、もういやだ。
「出してあげて」
依莉ちゃんにそれだけ言うと、わたしは受付を離れた。
診察室を通り、手術室に行く。ここまで来れば受付の会話は聞こえない。
悔しさがこみ上げてくる。
いったい何がしたいのだ?
あんな人、相手にせずにとっとと薬だけ渡しちゃえばいいのに・・・。
でも、それで死んだりしたら、今度は何言われるかわからないし。
一番かわいそうなのは動物だし・・・。
真面目にやるのがバカらしくなってくる。
真面目にやればやるほど、仕事が辛くなってゆくのだろうな。
淀んで、そして溜まっていくんだ。
それをうまく吐き出せる人ならいいけど、不器用な人間はそれが出来ず、知らず知らずのうちに抱え込んだものの重みに耐えられなくなるのだ。
ふと、石津先生のことが頭に浮かんだ。
また、数日経った頃。
夜の診察が終わる直前に誰か来たかと思ったら、依莉ちゃんがしかめっ面をしてやって来た。
「近藤さんが先生に話があるそうです」
ああ、今日はどんな武器で襲いかかってくるのだろうか。
軋む胃の痛みをごまかすように大きく深呼吸をして、わたしは受付へ向かった。
「こんばんは」
できるだけ平静を装って、声をかける。
もう、状態なんて聞く必要もないでしょ。
「ああ、モモだけど、電話した病院で手術してもらうことにしたよ」
ああ、そう。
「それはよかったですね」
セリフが棒読みのよう・・・。
「大きな病院だからね」
近藤さんはやはり誇らしげにそう言うと、帰って行った。
怒りを通り越して、呆れた。
そんなの報告する必要ないのに。
「なんだあいつ!」
依莉ちゃんは隣で怒っている。
「とりあえず、塩撒いて病院を閉めよう」
わたしがそう言うと、依莉ちゃんはそれを冗談とは受け取らず、本当に塩をとりに行った。
「ああ、もう辞めたいな」
塩を撒く依莉ちゃんを見ながら、わたしはそう思っていた。
夜の定期電話で、近藤さんに対する悔しさをぶちまけた。
ずっと話を聞いてくれる石津先生は、以前と感じが変わったような気がする。
それはいい意味で力が抜けたような・・・。
ひょっとして、病院を辞めるから?
「ねぇ、先生、何か変わった?」
聞いてみた。
「え?なんで」
「よくわかんないけど、前より楽しそう・・・かな?」
「楽しくはないなぁ。病院の引き継ぎとかで大変だから。でも・・・」
石津先生はそこで詰まったけど、次の言葉が出るのを待ってみた。
「でも、まぁ、気は楽かな。もうすぐ解放される、みたいな」
そういうと石津先生は軽く笑った。
わたしも楽になりたい・・・。
その夜はなかなか眠れなかった。
石津先生が、正直とても羨ましかった。
なら、わたしもこのまま病院を辞めようか・・・って思った。
辞めたらどーなるのか考えてみる。
誤診だったり、治療の失敗の恐怖から解放される。
手術だってやらなくて済む。
真夜中に入院の子の状態を気遣わなくて済む
時間外の電話の恐怖からも解放される。
苦手な患者さんと付き合わなくて済む。
・・・。
いいことだらけじゃん。
もう、辛いことがなくなるんだよね。
すると、いくつもいくつも、今までに経験した辛かったこと、悔しかったことが、何度も何度も繰り返し思い出されて来た。
それは次から次へと、呆れるほど途切れなく出て来た。
わたしが眠気に負けるほどに。
ちょっと寝不足の次の日。午前の診療が始まる。
一番は逢坂さん。慢性腎不全のネコちゃんの定期検診。今日は血液検査だ。
協力的なネコちゃんじゃないから、採血やりにくいんだよね。今日はうまく採れるかな?
ああ、病院辞めたら、こんな心配もしなくて済むんだな。
なんとか採血を終え、その結果が出るまで待合室で少し待っていてもらう。
「ねぇ、依莉ちゃん。わたしが病院辞めたらどーする?」
わたしはカルテを書きながら、血液検査の機械に試薬を入れる依莉ちゃんに聞いてみた。
「え?・・・」
依莉ちゃんは少し考え込むと、機械のスタートボタンを押した。
「先生が辞めたらわたし一人で病院にいるわけにいかないので、どっか次を探さなきゃいけないですね。で、辞めるんですか?」
「そーだよね。依莉ちゃん、困るよね」
わたしはカルテを書く手を止め、手に持っていたボールペンを置いた。
「あたしは全然大丈夫ですよ。舞さんの後釜でここにきた時も、色々な病院で働きたいのでずっとはお世話にならないかも、ってお伝えしたと思いますけど」
「そーだっけ?」
「なんだか先生を見てると仕事辛そうな時があるので、先生の都合でやっていただいて構いませんよ。でも退職金くださいね。えへへ」
最近の若い子はしっかりしてるね。
そーいえば、舞ちゃんが辞めるときにも渡したっけな。まぁ、結婚祝いと合わせてだったけど。
しばらくして検査の結果が出た。
腎臓の値はやや高いものの、前回とほぼ同じだった。これなら今の治療を継続してて問題ないでしょ。
逢坂さんに診察室に入ってもらい結果の説明をする。
値が落ち着いていることに逢坂さんは安心したようだった。
「次はいつ頃検査すればいいですか?」
帰り際、逢坂さんが聞いてきた。
「そうですね。特に変わりがなければ、3ヶ月後くらいにしましょうか」
「わかりました」
逢坂さんが診察室を出て行った後、『次回の検査3ヶ月後』とカルテに書いた。
そこでふと思った。
わたしが今病院を辞めたら、この約束はどうなるんだろ?
まぁ、次はいつって患者さんに言ってもそれを守らない人もいるから、別に約束ってほどのものでもないんだけど。
逢坂さん以外にも定期的に来てくれてる患者さんはいるし、その人たちはどーなるんだろう?
辞めるって言ったら、わかりましたってすぐに他の病院に行くのかな?
それでいいのかな?
・・・。
病院を辞めるのって、わたしだけの問題じゃないんだ。
ひょっとして、とっても大変なことなんじゃないのかな?
診察中、ずっとそんなことが頭から離れなかった。
夜の診察が終わり、後片付けの後2階へ上がる。
簡単な夕食をとり、シャワーを浴びて髪を乾かす。
そして、いつものように電話をする。
「ねぇ、病院辞めると先生の患者さんはどーするの?」
「新しい先生にそのまま引き継ぐつもりだよ。それで離れていく人はそれでいいしね。だから辞めた後もしばらくは病院に通う予定」
「そっか、病院自体がなくなるわけじゃないものね」
「だから、辞める決心がついたってのもあるけどね」
「わたしも辞めたいなぁ、なんて思ったんだ。でも、今来てくれている患者さんのこと考えたら、なんだか申し訳なくって」
石津先生のため息が聞こえたような気がした。
「そんなだから、疲れたんじゃないの?」
それはわかっていたこと。だからわたしは潰れかけているんだ。
「そうだね」
開業してからずっと病院に拘束され、患者さん優先で過ごしてきた。だからもう、自分のことを優先したっていいのかも。
でも、心の中でそれに反対する声が上がる。
そんな無責任なことでいいの!、と・・・。
患者さんはきっとずっとわたしの病院があるものだと思っているだろう。
それをわたしのわがままでなくしてしまってもいいのだろうか。
すると今度はそれを否定する声が上がる。
こんな小さな病院、なくなったって困る人はいないよ、と・・・。
確かに、動物病院はたくさんある。あちこちの病院を掛け持ちしてる人もいるんだから。
「ああ、頭の中、ごちゃごちゃだよ」
わたしはため息まじりに言った。
「あはは。オイラが病院辞めるなんて話をしたからな。刺激的だったよね」
「でも、先を見なきゃいけないって気持ちになった」
「まぁ、オイラにつられて辞めるのはなしな」
「うん」
そうだよね。これは、わたしが決めることなんだ。