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第一話 もがく日々


 病院の2階の窓からブラインド越しに差し込むオレンジの光は床に長く伸び、今の季節と相まって少し寂しげに見えた。

 ブラインドの隙間から外を見ると、数日前まではまだたくさん残っていたサクラの木の葉がもうほとんどなくなっていた。

 あと、ひと月ほどで今年も終わる。


 思えば、開業して20年をゆうに過ぎていた。

 がむしゃらに走ってきた。

 ただ、前を向いて突き進んできた。

 いつからかなぁ・・・。

 ここ数年前からかなぁ・・・。

 走ろうと思っても走れなくなった。

 前を向いても何も見えなくなっていた。

 少し疲れたのかなぁ、なんて考えて、休診日を多くしたり、時間外の電話も極力出ないようにした。

 けど、何も変わらなかった。


 電話が鳴る。

 しばらくして、階段を登る音がしてドアが開いた。

 「山田さんが、水曜日に手術をお願いしますってことですけど、予定入れていいですか?」

 AHTの依莉ちゃんが、そう言いながら電話の子機を持ったまま入ってきた。

 確か、乳腺腫の手術だったな。

 「いいよ、入れて」

 「はい。あと、診察もお願いします」

 依莉ちゃんはカルテをわたしに差し出すと部屋を出て行った。

 すぐに声が聞こえる。階段を降りながら山田さんと話しているようだった。


 わたしは一つため息をついた。

 水曜日、明後日か・・・。

 乳腺腫なんて、なんてことない手術なのに・・・。


 受け取ったカルテを見る。

 佐藤さんか・・・。

 苦手な人だ。お母さんはいいんだけど、いつも一緒に来るご主人がね。

 おかしなものだな。カルテの名前を見ただけで、胃が痛む。

 ため息の代わりにゆっくりと深呼吸をして、わたしは診察室へと階段を降りた。


 「佐藤さん、どうぞ」

 診察室から待合室に続くドアを開け、わたしは佐藤さんを呼び込んだ。

 佐藤さんは、いつものようにシーズーのココちゃんを胸に抱き診察室に入ってきた。そしてその後にご主人が続く。

 「また痒みがひどくなって背中に傷がついたものですから」

 佐藤さんはココちゃんを診察台に乗せるとそう言った。

 「ああ、ほんとだ。ひどく掻いたみたいですね」

 赤くただれたココちゃんの背中を見ながら、わたしは診察を始める。

 「掻き出すとすぐに真っ赤になっちゃうんだねぇ」

 ご主人がそう言いながら診察台に近づいてきた。

 ああ、やっぱり来たか・・・。わたしは憂鬱になる。

 通常の診察時、わたしと飼い主さんは診察台を挟んで立つ状態となる。

 これはわたしが勝手に思っているだけかもしれないけど、飼い主さん側の診察台の端を横に平行に伸ばした仮想線の向こう側が飼い主さんの領域、そして診察台を含めた手前がわたしの領域だ。

 ココちゃんの診察を進めるうちに、佐藤さんのご主人はゆっくりと診察台を回り込みやがて仮想線を越える。そして、わたしのいわば絶対領域へと入ってくる。

 いつもそうだ。

 佐藤さんのご主人は何か意味があってそんな行動に出ているわけではないんだけれど、これをやられるとなぜかわたしは落ち着かなくなる。

 これ以上、わたしの領域に入ってこないで・・・。

 そしてついに、わたし側の診察台の仮想ライン、つまり最終防衛線を超えた。

 「それでは、また薬を出しますので、最後までしっかりと飲ませてあげてください」

 そう言ってわたしは診察台を放棄した。

 注射をうった方が病院は儲かるんだけど、早くこの状況から逃れるために、とっとと診察を終えてしまうのだ。


 佐藤さん夫婦が診察室を出て、やっとわたしの気持ちは落ち着きを取り戻す。

 カルテに飲み薬の処方を記入して依莉ちゃんに渡す。

 代わりに依莉ちゃんは次のカルテを渡してくれた。

 カルテの名前を見る。

 「野村さんのムサシくん、久しぶりだな」

 主訴を見ると、『元気がない』とのことだ。

 こー言うのって、一番困るんだよね。

 元気がないなんて、ほとんどの病気に当てはまる症状のひとつだもんね。

 「野村さんどうぞ」

 ラブラドールのムサシくんは3歳になったばかりだ。

 動物が診察室に入ってくる時から、診察は始まる。

 入ってくる時の歩き方、表情など、普段と違うところがないか確認する。

 ムサシくんはいつものように野村さんを引っ張りながら診察室に入ってきた。

 今の状態では、元気がなさそうには見えないけど。

 「お願いします」

 野村さんがそう言うと、ムサシくんはもうわかっているかのように自分から診察台に飛び乗った。

 「家だともっと元気がないですか?」

 わたしはムサシくんの頭を撫ぜながら野村さんに聞いた。

 「ここにきたら元気みたいですけど、普段のように食欲がなくて」

 「ちょっと診てみますね」

 ゆっくりと診察を始める。

 目、鼻、口、耳・・・。

 胸、聴診。

 腹部、触診。

 前肢、後肢。

 全身の皮膚。

 どこも異常がない。

 この辺りから、どうしようか悩み出す。

 熱を測ってみる。

 38度・・・平熱。

 困ったな、どこにも異常はなさそうだけど・・・。

 病気ですと言うのは簡単だけど、異常ないですと言うのはなかなか勇気のいるものだ。

 「特に異常はなさそうですね。明らかな症状は出ていないので、一晩様子をみましょうか。おかしいのが続くようなら、血液検査をしてみましょう」

 野村さんを出来るだけ安心させるように言う。

 「そうですね。診ていただいて異常がないようでしたら少し様子を見てみます」

 そう言うと、野村さんはムサシくんに引っ張られて診察室を出て行った。

 カルテを書いて、依莉ちゃんに渡す。

 しばらくして、野村さんは会計を済まして帰って行った。

 すると、突然不安が頭を出す。

 ムサシくん、診た感じでは異常はなかったけど、血液検査をした方がよかったかな?

 検査しても異常がなければもっと説得力があっただろうし。もしも異常があれば病気を見逃さずに済んだかもしれない。

 まぁ、おかしければ明日また来てと言ったんだから、その時に検査をすればいいよ。

 でも、もし、来なかったら。

 状態が悪化して、わたしのことが信用できないと他の病院に行って、何か異常が見つかったら。

 考えはどんどん悪い方へと転がり落ちてゆく。

 最近、いつもそうだ。

 そんなふうに後悔の泥沼の中でもがくうちに、その日の診療は終わった。



 夜、いつものようにアルコールで眠気を誘いベッドに入る。

 アルコールがあれば、すぐに眠れる。

 しかし、3時間ほどしてアルコールの効果が切れると目が覚めてしまう。

 そのまままたすぐに眠ることができればいいのだけれど、予定の入った手術のことがふっと頭に浮かんだりするのだ。

 水曜日、乳腺腫だったな。

 マルチーズ、9歳、聴診でわずかに心雑音。

 こんなことが浮かんでくると、もう頭は完全に覚醒してしまう。

 余分なことを考えずに眠ろうとしても、気が付くと次のことを考えている。

 歳だからドルミカムとベトルファールの鎮静でいいかな?でも、結構やんちゃな子だから、うまく効かなかったら留置が大変かも。どーする?

 さらに続く。

 そーいえば、少し前に歯石を取った時、かなりの徐脈になったことがあったっけ。

 アトロピンですぐに戻ったけど、もしも同じような状態になったら、アトロピンで戻ってくれるかな?

 心停止にでもなったらどーしよう・・・。

 それでも、眠れないだけならまだいい。

 こんなことを考えれば考えるほど、手術が怖くなる。

 いや、正確に言うと、手術を始めるまでの間が怖いのだ。

 若い頃は、手術に怖さなんてほとんど感じなかった。

 けど、いつからか、手術をやればやるほど恐怖を感じるようになった。

 なぜだろう?と考えたことがあった。

 わたしはかなり慎重な性格だ。

 できるだけミスを犯さないように、予めいろいろな状況を考え、万が一そうなっても対処できるように準備して進んできた。

 それでも、何度か修羅場があった。けど、そんな修羅場も乗り越えてきた。

 以前はそれが自信だった。

 しかし、いつしかそうではなくなった。

 もし、また同じ状態になった時に、同じように乗り越えられるのか?という恐怖に変わった。

 恐らく大きな失敗をしたことがないので、失敗した時のことが怖いのだ。

 失敗を思うと、その時の絶望感がこみ上げてきて胸が軋む。

 こんなことを考える長い夜を、手術当日まで繰り返すのだ。



 手術当日。

 鎮静はちゃんと効くか。

 留置で失敗はしないか。

 麻酔はうまくかかってくれるか。

 今まで何百回とやってきた一連の動作に不安と恐怖を感じながら手術が始まる。

 どれだけの手術をこなしてきたのだ!、そう自分に言い聞かせながら・・・。

 けど、どうだろう。

 いざ手術が始まれば、さっきまでの恐怖はもうどこにもない。

 耳はモニターの音を捉え、何度も何度もやってきたように自然に手が動く。

 そして、手術が終わる。

 まだ、やれるじゃないか。

 一瞬、そう思う時がある。

 でも・・・。





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