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お姫様。

 

 ゴールデンウイークという偶然が重なって出来た連休明けの徒労感に追われていた社会人やら学生やらが、再び与えられた束の間の休息にホッと一息をついて胸を撫で下ろす頃。

 我が家には社会の波という名の怒涛の連勤地獄から解放された一人の憐れな子羊が心の安寧を求めにやって来ていた。


「ゆーちゃん、ココア淹れてぇ……」

「ひめ姉、ちゃんと服着て。そんなんじゃ正紀(まさのり)さんに幻滅されちゃうよ」

「まさ君はこんな格好してても好き好きちゅっちゅ、ってしてハグしてくれるもん。ゆーちゃんだって気にならないでしょ? ゆーちゃんもお姉ちゃんのためにハグしてくれる?」

「お義兄さんってば……」

「もうなーんにも着たくなーい」

「はぁ……」


 親子二人で生活するには手広な、数字と並んでLとDの文字が乱立するような都内の一等地に建てられたマンションの一室にて、僕は日曜の朝を迎えていた。

 僕はそこで父さんと暮らしており、男二人の悠々自適な暮らし――というには部屋のインテリアもシンプルなものばかりで、趣味の物を除けば本当に色のない部屋になりそうだった。

 そんな色のない部屋に彩りを運んできてくれるのが、社会の荒波に揉まれて今現在無気力になりつつある女性、九桜姫和(くおうひより)であり、この僕、涼村結月と血の繋がりを持つ実の姉であった。


「ゆーちゃん、学校はどう?」

「ボチボチ、かな」

「もー、適当言ってぇ」


 電子レンジでチンした牛乳に粉を溶かすだけのココアを差し出した僕は、占領されたソファは諦めて二人暮らしには不要な四つの椅子と四人掛けのテーブルに腰かけ、水を口に含む。

 朝からお菓子をつまみにちまちまとココアを飲む姉に対して、僕はそれを一度に飲み干してから、だらしなく下着とTシャツ一枚でソファでくつろぐ乳牛が如き姉をため息交じりで見下ろしはするものの、これまでずっと姉に助けられてきたことを理解しているから、それ以上小言のようなことを言うつもりないとばかりに口を閉ざす。


 僕と姉は九つも年が離れていて、姉は今年で27歳。既に社会人として親元を離れて一人暮らしをしている。正確には、彼氏と二人で同棲カップルとして生活している、と言った方が正しいか。そこまで進んでいるのだから当然、結婚の話も進めていて二人で父さんに挨拶に来たこともある。そのため、僕と将来のお義兄さんの顔合わせもばっちり済んでいた。

 未来の義兄に当たる正紀さんは姉の職場の先輩らしく、僕とは正反対の、俗に言う『出来る人』という印象の持ち主。それはそれで姉の婚儀をお祝いできてうれしかったのだが、姉がどこか遠くに行ってしまうような感覚がして寂しかったのも覚えている。

 何せ、ひめ姉は両親の不仲が原因で離婚してからもずっと、僕のことを気に掛け続けてきてくれた人だったから。


「もう三年生。卒業かぁ。高校生活なんてあっという間だったでしょ? ちゃんと青春した? 受験もあるだろうけど、悔いのないようにねぇ」

「うん……」


 ソファで大股を開きながら放たれる言葉とは思えないような言葉の中身に、僕は呆れ半分、罪悪感半分といった感情を抱いたいた。


 両親が離婚してから、約九年。もうすぐで十年になる。

 当時、僕は八つか九つで、言われたことを分かった気になって言うことを聞いてはいたが、当然、母さんとも姉とも離れ離れになることも、転校しなければならないことも何もかもが嫌だった。

 父さんと二人暮らしが始まってみても、父さんは仕事で忙しくて滅多に帰ってこなければ、週に二回か三回顔を合わせるのがやっと。一緒に暮らしていても父さんの顔なんて、はっきりと思い出せないのは、父さんのことを見上げるのが、怖かったからだ。

 生活費として子供が持つには大金とも呼べる程のお金を渡されてはいたが、料理の仕方も、レシピの調べ方も分からない僕には、コンビニで毎日同じ物を買う能しかなかった。


 そんな時だった。

 離婚してすぐに再婚をした母さんは父さんと関わることを拒絶していて、その父さんに纏わる僕にすらも会うことを拒絶していた中で、そんな母さんの意向も無視して僕と父さんが暮らす住所を探し出した姉が僕の元に駆け付けてくれたのは。

 不摂生な食生活によって体調を崩した幼かった頃の僕は、姉が駆け付けてくれたお陰で病院に運び込まれて事なきを得たのを、今でも鮮明に思い出せる。

 退院してすぐに姉が作ってくれた手料理の味は、きっと僕は死ぬまで絶対に忘れないだろう。泣きながら食べたのを今になって掘り返されても文句を言えないくらい、あの時の味は別格だった。

 温かくて、優しくて、安心するような、そんな味。しかし感動を覚えた僕とは違って、高校生として料理を覚えたての時に作ったものは姉としては不本意だったらしく時を経て料理上手となった姉はそれを「忘れて~」なんて言うのだが、僕の中で生涯において一番美味しかった食事というのは、ジャガイモが半分くらい崩れたあの時の肉じゃがだと断言できる。


 それからも、姉は定期的に家にやって来ては「ちゃんとご飯は食べているか」、「学校はどうか」なんて言いながら沢山の温かいご飯を振舞ってくれた。正しく姉は、僕にとっての母親代わりのような存在だった。


 今にして思えば、父さんの転勤の都合で引っ越した先は母さんと姉家族の住まう場所から遠く離れている時もあったのだが、それでも姉は欠かさずに毎週のように僕の様子を見に来てくれていた。

 いくら父さんが母さんの家庭に養育費を払っているとは言え、交通費だけでもお小遣いでは到底足りないような金額が掛かっているに違いなく、その穴を埋めるには姉がどれだけ時間を費やしてアルバイトをしているのかなど、中学生にもなった僕の頭では想像するに容易かった。


 意識し始めてから一度だけ、僕は姉に聞いたことがあった。大変じゃないのか、と。


 そこで邪魔じゃないか、足手纏いになっていないか、と聞けない僕はどこまでも卑怯で狡い奴だと思うが、僕は姉までもが僕のことを見捨てて離れていくのが何よりも怖かった。そうやって聞いた先でもしも万が一にでも肯定されたとあらば、僕は生きていく気力すら失せていたかもしれない。

 それくらい、当時の僕は姉に依存しっぱなしだった。


『大変じゃないよ。むしろ楽しいくらい』


 だけども、そんな一円の価値も無いような僕の依存する性も、僕の問いに目の下に隈を作ってでも笑って見せた姉の姿を見た途端、音を立てて崩れていくのが分かった。


 姉のそんな姿が見たかった訳じゃない。無理をさせたかった訳じゃない。

 あの母さんの意向を突っぱねるような姉の性格だから、僕が何を言っても聞いてなどくれないだろうが、せめて、せめて姉の負担にならないようにしよう。そう心に決めたのが、中学一年になったばかりの春のことだった。

 姉は僕が心配だから様子を見に来るのだと分かっていた。だからこそ、休みがちだった学校にも毎日通うようになったし、勉強だって躓きながらも頑張るようになった。友達付き合いだけはどうしても難しかったが、反抗期だ、と言って姉の到来を週に一度から月に一度にまで減らせたのは努力と言えなくもない。本来なら数か月に一度程度の頻度でも構わないとも言ったのだが、逆に泣き付かれたためその頻度に決定したのは笑い話ではない。


 せめて、せめて姉の高校生活を僕なんかの為に棒に振らせた責任として、これ以降は姉の世話になってなどいられない、と心配を掛けまいと張り切って努力したお陰か、姉の口からは頻繁に大学生活の話をよく聞くようになったし、当初の予定通りに姉の到来を月に一回まで抑え込むことが出来るようになった。

 その分、SNSで毎日のように逐一連絡という名の愚痴や報告が送られてくるようになり、執拗に求められるようになったのは少しだけ、本当に少しだけだけど、厄介と思わざるを得ない。


 今こうして高校生活を謳歌できていないのは、姉の高校生活を棒に振らせたという引け目があるから──なんて言い訳を口にした暁には、姉どころか楠木さんにまで怒られるのが目に見えているため口にすることはないが、僕だけはその事実を決して忘れてはならないとも同時に思う。

 僕は、一生をかけて姉に恩を返すべきだと思っているから。

 だからこそ、姉が離れていくのを悲しむ半面、姉が幸せになってくれればそれでいいとすら思えていた。


「その、進路のことで、色々相談したくて……」

「っ、ゆーちゃん!! それはもしかしなくとも、お姉ちゃんを頼ってくれてるってこと!? や~ん、もうっ! お姉ちゃん張り切っちゃうわよ! さぁ、そうと決まれば早く行きましょう!!」


 家の中で適当に……と思って声を掛けた途端、姉はすっくとソファの上に立ち上がって、まるでお風呂上がりのビールみたいに腰に手を当ててココアを飲み干したかと思うと、ぐいっ、と口元を拭った姉はTシャツと下着姿のまま僕の手を引いてそのまま外出しようと試みるものだから、僕は慌ててそれを止めに動く。


「で、出かけるにしても、まずは着替えてから! ……ちょっ、力、強くない!? ひめ姉、聞いてる!?」

「ふんすっ」

「ふんす、じゃないが!? ほ、ほら、出かけるなら、ふ、服を、見繕っていいから……!」

「本当ッ!? 普段はゆーちゃんそういうの嫌がるもんね! 今日は特別だわ~!」

「……はぁ、相変わらず強引なんだから」


 止めなければ本気で下着姿のまま玄関のドアを開ける寸前だった姉は、初めから僕のその一声を期待していたかのように動きを止め我を取り戻したかと思うと、来た道を戻っていく。

 姉は人から見れば天然のように見られがちだが、彼女は常に計算高く、目的のために外堀を埋めるなんてのは朝飯前。姉の愛らしさにニコニコ付いて行った終いには袋小路に追い詰められていた、というのは彼氏の正紀さん談である。


 ただまぁ、そんな無茶な真似をしても怒られないのは、僕には無い愛嬌があるが故だろうか。

 父さん似の僕とは似ても似つかない、整った目鼻立ちを持つ母さんにそっくりな姉は、楠木さんとは違う可愛い方面のベクトルで美人だと、弟の贔屓目を抜きにして見てもそういった評価を下せるくらい整った顔をしていた。


「さぁ、街に繰り出すわよ、ゆーちゃん!!」

「はぁ……」


 ただ一つ僕が不満を口にするのであれば、姉のファッションセンスだろうか。


 僕はおとなしめの、シンプルな恰好で十分だというのに、姉は何処で見つけて来るのか、バブル最盛期の大人のおじ様が纏うようなギラギラしたシャツやジャケットだったり、スラックスといった礼服のようにバチバチに決める服装ばかりを「絶対似合うから」と太鼓判を押し付けてくる。しかし、正直言って着方の分からない洋服が並んでいても手を出しづらい、というのが本音であり、姉には悪いがそれらはたんすの肥やしにしていた。

 それを姉は家にやって来る度にぶーぶーと可愛らしい文句と共に着せようとするため、せめて家の中だけという約束で折れていたのだが、今日は姉の痴態をも天秤にかけてでも外出させようという気概を見せてきたため、僕は力なくそれを受け入れる他ないのであった。


「わ~! ゆーちゃんってば足が長~く見えるよ! かっこいい~!!」

「……お世辞でしょ」

「もー! ゆーちゃんはばっちり決めればかっこいんだからもっと自信持っていいのに。あ、普段のゆーちゃんも可愛くて私は大好きだから安心して?」

「ぅぐ……っ。ほ、本当に、大丈夫? 変じゃ、ない……?」

「大丈夫、大丈夫っ。背筋をピン、と伸ばして歩いていればみんなが振り向くくらいかっこいいってば。もしかしたら、カップルに間違われちゃうかも!? なーんて!!」

「ひめ姉……」


 予めこの展開を読んでいたかのように用意の周到な姉の手によって瞬く間に着替えさせられた僕は、玄関先で姿見を見て何度も何度も似合ってるか不安になっては姉に繰り返し確認を取る。


「きれいめスラックスでゆーちゃんの細身のシルエットをより目立たせて……足長効果も! それに反して、上の白シャツはベルスリーブでゆったりとした印象を持たせて、ベストは燕尾服モチーフのリッチな仕様! 二股のアスコットタイをカジュアルに付けることで首元をゴージャスに! ……うふふ、我ながら良すぎる出来ね! 私達の遺伝子やっぱ恵まれてるわぁ……!! んん~!! ゆーちゃん最高ッ!」

「八割くらい何言ってるのか分かんないんだけど……」

「まぁまぁ。あ、靴はこれ履いてね? 上げ底!」

「頭がごわごわする……」

「うふふふふ……。私ってば天才過ぎるわ……! ゆーちゃん、最強の執事って感じが出てて実に良いわぁ……! 私のお姫様コーデと合わせると、私ってば完全にお姫様過ぎる……!! 後でたくさん写真撮ろうね? きゃ~! 早く、まー君に写真送りつけたい~!!!!」

「それが本音……」


 きゃいきゃいとはしゃぐ姿で繰り出されるファッションの解説はほとんど何を言っているのか理解できぬまま進んでいく。

 姉の顔に浮かんでいた愉快な笑みがいつの間にか姉の悪い笑みに変わっていくのに気付いた僕は、遂に本性を現した姉に対して「やっぱりか」と溜め息を吐く。


 姉は、彼女はそう……、楠木さんが「女王様」であるように、ひめ姉は「お姫様」なのだ。

 それも、特別わがままでお転婆な、自分の欲しいものは自分で手に入れに行くストロングタイプの。


「さぁ行くわよ、ゆーちゃん! 私の、いいえ私達の輝かしい姿を外民の皆さまの目に焼き付けさせてあげに出発よ!!!!」

「……僕の、進路の話は」

「さぁ!!!」

「……拒否権は」

「さぁ!!!」

「はい、行きますよ、お姫様……」

「わ~い。さっそく腕組んでるとこ送っちゃおうっと」


 姉は、玄関を出て一歩目で意気揚々と写真を撮った瞬間、加工する暇もなく正紀さんに送りつけたかと思うと、エレベーターで下に降りるまでに僕のスマホがバイブレーションによって通知を知らせてきたため覗き込むと、そこには正紀さんからのメッセージが表示されていて。


『ご愁傷様。』


 この一文と共に不細工な犬が笑いを堪えているスタンプが送られてきて、僕は一体どんな顔をすれば良いのか分からなくなってしまった。

 申し訳程度に「結月君もめっちゃかっこいいよ!」と付け加えられているのは、姉の趣味に付き合わされる犠牲となった僕へのせめてもの労いなのか、僕は『Help』とだけ送った後、姉の手によって都内引き回しの刑に処されるのであった。









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