65
約束。
「お疲れぇ~い!」
「お、お疲れ様……」
「結月~。まだ慣れてないのぉ?」
「澪奈さん、お酒臭いよ」
「やぁん、ダーリン、結月が冷たーい!!」
「はいはい、水でも飲んで落ち着きなって」
何度目かの乾杯の音頭を口にしながら、べろべろに酔っ払って顔を赤くした遊佐さんが絡んでくるのを僕は軽くいなしながら、手に持ったジンジャーエールを呷る。
生姜の鋭い辛みと炭酸の刺激が一瞬にして口内を攻めたてるものの、鼻に抜ける香りと爽快な喉越しが何度も口に運びたくなるような、癖になる感覚を覚えさせられる。
場所は、都内のとある居酒屋。
時折連絡を取り合っていた遊佐さん達から珍しく飲みに誘われた僕は、遊佐さんと陸上部の彼の二人と合流して「プチ同窓会~!」という遊佐さんの音頭とともに始まった三人での飲み会も、飲み始めてから早二時間が経過していた。
高校を卒業してから4年が経過した僕達は、高校時代以来の卒業を間近に控えていた。
大学に進学した僕は、一年次に父さんが仕事の都合で地方へ転勤していってから一人暮らしを始めたのだが、特に不便を感じることなく生活を送ることが出来ていた。
同時期にひめ姉の出産もあってか、ひめ姉を心配させまいという気概が僕に規則正しい生活を送らせていたのかと思うと、僕は本当に追い詰められない限り動けない人間なのだとつくづく感じさせられた。
そうして生まれたひめ姉と正紀さんの子供。第一子はひめ姉と正紀さんの両者にそっくりな女の子であり、僕はあっと言う間に叔父さんになってしまった。
自分よりずっと下の子供と接した記憶がほとんどない僕は方法を手探りながら、恐る恐ると言った様子で姪っ子を可愛がっていた。
その子がもうすぐ三歳になるのかと思うと、僕は大学に進学してから自分の身の回りで様々なことがあったと回顧する。
高校三年生の春の時点で赤点を取るくらい成績不振に陥っていたのが嘘みたいに僕は、自分でも言うのはなんだけど大学で優秀な成績を修めた。
実際に大学院への入学も勧められたものの、僕は就職への進路を決めた。
オープンキャンパスで良くしてくれた教授の下で実践的授業や研究に没頭しながら過ごした四年間は、ひめ姉が進路について教えてくれたように、非常に実りのある四年間だった。
あの僕が、同じキャンパス内の生徒達の輪に入って共に学びを深めることが出来るようになる程度の覚束ない社交性を身に付け、学びたかった学問についても真髄とまではいかずとも障りまでは到達することが出来ただけでも、かなり大きな進歩と言えるだろう。
その上で、僕はそれ以上の何かを成し遂げられるような存在では無いと自覚していたからこそ、大学院への推薦は辞退した。
これ以上僕のわがままで父さんに金銭的負担をかけるわけにはいかないから、というのは本音であると同時に、建前でもあった。
「それにしても、女王様──楠木さんは凄いな。本当に、あっという間に俺達の手の届かない存在になっちまって。あれから、涼村は会ったのか?」
「ううん。会ってないし、連絡も取ってないよ」
「そうか。たまには連絡してみろよ。お前なら、返ってくるかもしれないしな」
「……連絡先なんて、知らないよ」
この四年で変わることなく遊佐さんを愛し、遊佐さんに愛された陸上部の彼は、高校時代から比べて大きく変わった点はないが、人間的にも体型的にも少しだけ丸くなった彼は遊佐さんの良きパートナーとしての変化が見られるようになったかのように思える。
そんな彼の心遣いが感じられる言葉を受け、彼が「飲み過ぎて気持ち悪い」と顔をひくつかせる遊佐さんの介抱に向かった後で、僕はジンジャーエールを飲む振りをして独り言ちた。
突発的かつ比較的定期的に遊佐さんから招集の声が掛かって飲み会が開かれるのだが、その席は決まって僕と遊佐さん、それから陸上部の彼との三人が集められる。遊佐さんと二人きりにさせられるのも気まずいから陸上部の彼が居てくれるのは嬉しいのだが、遊佐さんは居酒屋を予約する際に決まって「四人」で予約するのだが、飲みの席にその一人が来ることはこれまでに一度も無かった。
その一人が誰なのか気になって尋ねたこともあったが、遊佐さんは「秘密~」と言って教えてはくれなかった。
そんな陸上部の彼の口から聞かされた通り、この四年間で最も大きな変化と言えば、楠木さん。あの日、あの時、あの場所に来ることが無かった彼女のことを語らずには、この四年間のことを語ったとは言えないだろう。
高校を卒業してからの彼女は、正しく躍進の時を迎えたかのように世間の人々のみならず業界の人の目にすら留まるような存在へ瞬く間に駆け上がって行き、気が付けば彼女には無数のスポットライトが当たるまでに成長を遂げていた。
そしてもちろん、僕は彼女の成長の軌跡の全てを追っている。
それが僕のどんな感情から起因する行動なのかは言わずもがな自分でも把握しており、僕を突き動かす感情の正体は、紛れもなく彼女への好意であることに間違いない。
あの日、どうしようもないくらい膨らんで、あの時、どうしても捨てきれなかった、僕が彼女へと抱く恋心こそが正体であると自覚していた。
僕は結局、あの日に背負った傷はそのままに、彼女に抱いた恋心は捨てきれなかった。
捨てきれなかったものの、僕のこの想いは決して叶うことが無い感情であると諦めていた。
だからこそ、僕は彼女のことが好きだった──否、今でも変わらずに好きでいることの証明として、彼女の載っている雑誌はいつも発売当日に買うことにしていた。
その行為が、どれだけ女々しくて気持ちの悪いことか。
叶わないと知っていながらその恋を未練がましく引き摺って、彼女に執着している。
これを気持ち悪いと言わずに何と言うのか、僕は知らない。
もしかしたら遊佐さんや陸上部の彼に聞けば答えが返ってくるのかもしれないが、僕はその答えを知った時に果たして無事でいられるかどうか分からない。メンタル的な意味で。
それくらい、自分でもそう思わざるを得ない程に僕の行動は矛盾していた。一歩間違えれば、ストーカーと思われてもおかしくはないくらいに。
口では諦めたと言いながら、僕は四年が経った今でも彼女への思いに縛られたまま。僕はあの日、『来ない』という選択でもって彼女の答えを知った。だというのに、彼女にも事情があるかもしれないから、なんて都合の良いことを考えてしまったがばかりに、僕はこうして歪んでしまったのかもしれない。
とどのつまり、僕は四年前のあの日から、ずっと変わることが出来ずにいる、ということだ。
僕の心は四年前のあの日、あの場所に囚われたまま。そして永遠に解放されることのないままこれからも時間だけが流れていくのだろう。時間が解決するには、後どれだけの時間がかかるのか、分かったものではない。
要は、僕が彼女に会う会わないの踏ん切りがつくかどうか。
どちらかに天秤が傾くだけで僕は変わることが出来るということを分かっていながら、僕は勇気を出すことは疎か、彼女のことを忘れ去ることも出来ないでいた。
このままずるずると一生の間引き摺り続けると考えれば、合理的とは呼べないような状況だからこそ、何度もこの想いを四年前のあの日に置いたまま忘れ去ってしまいたいと思ったことがある。
けれども、それを実行に移せるほど僕は人間として完成されているわけではないし、感情は合理的なだけで動かしていいものではないと彼女と関わる上で教わったからこそ、こうして今も未練たらたらの状態で生きているのだった。
自慢ではないが、四年間も失恋を引きずってきた拗らせた初恋をそう簡単に切り捨てられる程、僕の未練がましさは伊達ではないのだ。
もしかしたら、こうして二人が呼んでくれる飲み会に参加しているのも、二人から「もう諦めなよ」と言われるのを待っているからなのかもしれない。自分一人じゃ、この未練がましい思いを断ち切ることが出来ないから。
「……それでも、ここに来ると思い出さずにはいられないんだよなぁ」
彼女のことを、何度も忘れようとした。
けれども、その度に遊佐さん達に呼び出され二人の顔を見ると否が応でも高校の時を思い出し、連鎖的に僕の高校生活の記憶のほぼ全てに関与している彼女のことを思い出してしまう。そして彼女のことを思い出した夜は決まって、眠れなくなる。あの日のことを思い出して、夢見が悪くなるのが常だった。
今夜も眠れないんだろうな、なんて考えながら会計に立った陸上部の彼が戻る間、テーブルに置かれたお皿やコップの類を片付けやすいようにまとめていると、壁にもたれかかっていた遊佐さんが僕の方をジッと見つめているのに気が付く。どうやら、少しは酔いが醒めたらしい。
「……結月は、どうしてお酒飲まないの?」
「え? 前にも言ったでしょ。普通に飲めないだけだよ」
「嘘だね。っていうかまぁ、知ってて聞いたんだけど」
「……」
「陽葵と、約束してるんでしょ。二十歳になったら、一緒に飲もうって。……飲めないんじゃなくて、飲まないんでしょ。そして、今も飲まないっていうことは、その時の約束がまだ残ってるって認識でいいんだよね」
先程の酔っぱらいの姿はすっかり鳴りを潜めた遊佐さんの声に、僕は片付けをしていた手を止めてしまう。
その反応だけで察しの良い遊佐さんは全てを察してしまったようで、はぁ、と大きく溜め息を吐いた後「もういいか」と投げやりに呟いてから言葉を続ける。
「陽葵はね、結月のこと、ずっと待ってるよ」
「!? そっ……、んな、こと……」
「そうだよね、信じられないよね。だって結月はずっと、卒業式の日から今まで、ずっとあいつのこと待ってるんだもんね」
「……そういう、わけじゃないけど」
「高校の時から言ってるでしょ。結月ってば分かりやすいって。飲みに誘う度に、結月が何を期待しているのかなんてあたしもダーリンも分かってたし。結月の方から言われるのを待ってたけど、正直もうあたし達の方が限界だから言うね。あんたらもう付き合っちゃえよ、ってね」
「ぜ、全然、言ってる意味が分からないんだけど?」
「分かるように言ってほしいの? でも、そのためには先に結月があたしの質問に答えてよ。そうじゃなきゃ、あたしはあいつに対して不義理を働くことになるからね」
あとはあんたの気持ち次第、とでも言う遊佐さんの言葉を受けた僕は思わず意識内で一人、後ずさりをする。
まるでその質問に答えるのを拒否するかのように苦い顔を浮かべる僕は、そんな自分のことまで見透かしているような遊佐さんの目から逃れようと顔を背けてしまう。
しかし、これは僕が心の底から待ち侘びていた機会。遊佐さんが切り出してくれたことで、未練を断ち切るためのルートは見えた。後はただ、「何の話?」ととぼけるだけで全て終わる。それこそが僕の今後の人生のため、楠木さんの今後のため、僕が取るべき最良の選択であると自分に言い聞かせる。
これで全て終わると言うのに、僕はその道を進み出した彼女の詮索から逃れようとする自分自身の手を引いて引き留めてしまう。
自分の気持ちに嘘を吐いてまでも傷付きに行くメリットなんて、何一つとして無いということを分かっていながら進んでいく自分のことを、僕は見捨てられなかった。
周りの皆が見出してくれた価値ある自分を傷付ける行為など、到底容認できるはずがないから。
「分から、ないよ……。だって僕は──」
「フラれたから、って言いたいわけ?」
「っ!」
遊佐さんは僕の言葉を遮って、核心へと触れてくる。
大人になった僕達にはそれが無作法であることを理解していると同時に、そうやって無遠慮に踏み込める勇気を持った遊佐さんに僕が憧れを抱いているのは、紛れもない本心だった。
「フラれた、フラれた……ね。それって、本当にそうだったの?」
「……」
その質問に、僕は答えられない。
だって僕は──。
「そうやって思い込むことで、自分を守ってるんじゃないの? 陽葵に、会いに行くのが怖いんじゃないの?」
「っ」
図星だった。
全て、遊佐さんの言う通りだった。
僕は、楠木さんに会うのが怖い。
あの日、あの時、あの場所で得られなかった答えを知りたいと強く願う傍ら、僕が思い込んだ答えが確定する可能性があるかもしれないと思うと、僕は今のまま叶わぬ恋心を抱き続ける方がマシだとすら思えていた。
だがそれは、間違いだと遊佐さんは言う。
「そんなの……結月が不幸であるための言い訳みたいじゃん。不幸で居続けようとするのは、何のため? 惰性で不幸に身を置くなんて、陽葵にも、結月自身にも、失礼だよ。それに何より、幸せになれるのになろうとしないなんて……卑怯だよ」
「!」
遊佐さんの苦しそうな表情から絞り出された言葉に、僕は脳天から雷が落ちたかのような衝撃を味わう。この感覚は、随分と久しぶりだった。
なんのために変わりたかったのか。
なんのために変わったのか。
まるで自分の根源に語り掛けるような自問自答の果てに、僕は遊佐さんと見つめ合う。
目は口程に物を言う、ということわざがあるように、遊佐さんの両目は僕から出る言葉を期待しているかのようであった。
だから僕は、力んで言い渋る口を何度も開いては閉じてを繰り返した後、四年もの間胸の奥深くに閉じ込めておいた本音を、遊佐さんに背中を押されてようやく絞り出せるのであった。
「……約束、したんだ。二十歳になって初めて飲むお酒は、二人一緒に、って。あの日も、来てくれるって、約束してて……。こんなことになるなら、もっと早く、勇気を出しておけばよかったんだって、何度も何度も自分を責めたけど、彼女のことも、約束も、どうしても忘れることなんて、できなくて……!」
「……結月、あんた」
頭を掻き毟りたくなるくらいの羞恥を味わいながら言葉にしてみると、思っていたよりもずっと気持ちが楽になったような気がして、僕は俯いていた頭をそっと持ち上げると、そこには会計から戻った陸上部の彼と遊佐さんの二人が驚いた様子で目を丸くしていた。
「涼村ぁ。お前、ようやく、言ったなぁ」
「あたし、ちょっと感動しちゃったんだけど。結月の成長が見られて嬉しいよあたしは」
「…………そんな反応されると、ちょっと困るんだけど」
僕としては、一世一代の告白のようなつもりだったのに、遊佐さんと陸上部の彼のカップルからはそんな僕の覚悟を微笑ましいものでも見るかのような反応が返ってきて僕は困惑せざるを得ない。
しかし、いざ実際に蓋を開けてみれば、その程度の反応が返ってくるようなことだったとという証左に他ならず、僕が勝手に誇大妄想を捗らせていただけ、という結論が導き出される。
二人はただ、僕が向き合う準備を何も言わず、急かさず待っていてくれただけなのだから、感謝こそすれ、責める筋合いは僕には無い。
……とは言え、子供を褒めるみたいな対応には僕も若干拗ねてしまってもおかしくはないんだけれども。
「とりあえず、歩きながら話そうぜ」
僕達は居酒屋を出て、お酒も相俟って陽気になった二人と一緒に駅までの帰り道を歩いて行く。
「ようやく涼村にこれを見せることが出来る日が来たぜ」
「ん? 何それ?」
陸上部の彼はそう言ってスマホを見せてくると、一瞬暗転した画面にお酒も飲んでいないのに赤くなった僕の顔が映った直後、彼はとあるSNSの写真を見せてくる。
「ほら、涼村ってSNSやってねぇだろ? だから楠木さんのこういうSNSの写真は見たことないと思ってな。まぁ、滅多に更新されるもんじゃないが、いわゆるオフショットと言われるような奴でな。ほら、なんか気付かねぇか?」
「……カーネーション」
「そ。陽葵ってば、カリスマモデルと呼ばれるまでに成長して、それはもうあたし達の理解の範疇を越える富と名声を得ても尚、あんたから貰ったネックレスを絶対に手放したりしてないの! 流石の結月でも、これがどういう意味かなんて、あたし達から言わなくても分かるでしょ?」
「で、でも、雑誌には──」
「載ってるわけ無いでしょ。雑誌に載るのはモデルとしての楠木陽葵。普段のおバカな楠木陽葵はプライベートなものなの。SNSに載ってるのだって奇跡みたいなものなんだから。って言うか、陽葵のことだからきっと結月が見ていることを想定してわざとネックレスが映るように撮ってるわね。実際は結月はSNSをやってないから空回りだったんだけど。……正直あたしから見れば、結月と陽葵の二人とも未練がましさで言ったらトントンよ、トントン」
「そこまで言わなくても……」
「いいや、言うわよ。四年間、あたしがどんな思いでいたか、知ってもらわなきゃ報われないからね!」
「まぁその……なんだ、涼村。聞いてやってくれ」
駅までの真っ直ぐなはずの道のりは横道に逸れに逸れ続き、遠回りしたはずなのに遊佐さんの愚痴は駅前に着いても終わる気配は無かった。
「──大体ねぇ、四人で予約したんだからあいつも来いよって話なの! いっつも直前で『やっぱり行けない』って何なのよ!! 毎回お店側に配慮してあたしが少し多めにご飯とか食べちゃったりいらない気まで回してさぁ! そのせいで卒業してから5kgも太っちゃったんだけど!? そのくせ、飲み会が終わってからは毎回毎回結月はどうだったか、お酒は飲んでたのか、とか細かいことまでメッセージで聞いてきて……。あー、もう! 思い出したら腹が立ってきた!! そんなに気になるなら自分が来いや、って何回思ったことか……」
愚痴の対象は主に楠木さんに対してだったが、それも全部僕がはっきりしないからだと思うと、遊佐さんの怒りを収めさせるわけにもいかず、僕はただ黙ってその愚痴を受け入れる他無かった。
猛り狂ったお陰ですっかり酔いも醒めた様子の遊佐さんに反して、そんな彼女を止められる唯一の存在である陸上部の彼に至っては、まるですべらない話でも聞いているかのようにお腹を抱え、体を反らして大笑いをしている最中であった。
「……そんな僕と陽葵さんを見て、嫌にならなかったの?」
「なったよ、そりゃあね。当然、今言ったみたいにイラつくことだってたくさんあったけどさぁ……なんて言うか、放っておけなかったんだよね。だってあたし、二人の親友だし?」
「親友……」
「結月~? 何ちょっと嬉しそうな顔してんのさ」
「嬉しかったからだよ」
「お、そう来るか~。……とまぁ、そんなことを言ったけど、あたしが頑張るのはここまで。次は、結月が頑張る番でしょ」
「そうだね。そう、なんだけど……。陽葵さんの連絡先って──」
「ちょいちょいちょーい! 結月さぁ……、な~んであたしが今日この日を選んだか分かってないの?」
「え、今日は、みんなの卒業を祝うためって名目だったんじゃないの?」
「……しょうがないか。ほら、ダーリンいつもの言ったげて」
「へい、涼村ぃ。明日は三月三日。何の日だったか忘れた、なんて言わねぇだろ。お前達の、因縁の日だろ?」
「因縁って、まぁ、言い得て妙と言うか、卒業式のあった日、だけど……。──っ、もしかして!?」
「言ったでしょ? 陽葵はずっと、待ってる、って」
それを最後に二人とは別の電車に乗って家に帰った僕は、久し振りに彼女の夢を見た。
そして、来る翌日。
陸上部の彼が言うには、僕と楠木さんの因縁の日だそうだ。
僕は昼前に家を出て、四年振りに高校までの道のりを歩いて行く。
その足取りは決して軽いものとは言えなかったが、どうしても向かわなければならないという僕の想いが背中を強く押してくれているかのようだった。
「……なんか勢いで来ちゃったけど、入っていいのかな」
懐かしの母校に到着した僕は、卒業式の立て看板が校門に飾られているのを見て、ふと冷静さを取り戻す。アポイントメントを取っていなければ、そもそも本当に彼女が来ているかどうかすら分からない。そうなれば僕は晴れて卒業式を行う母校に侵入を企んだ不審者としてお縄についてしまうのだが、校門の前で立ち尽くしていたところに、懐かしい人物から声が掛かったのであった。
「──あら……涼村くん?」
「て、勅使河原、先生。お久しぶりです」
「あらあら、あらあら!! 大きくなったわねぇ。もう大学は卒業したの? 就職するの? まぁ、卒業生が会いに来てくれるなんて嬉しいわぁ」
声を掛けてくれたのは、この学校の生き字引として名高い、僕も大層お世話になった勅使河原先生だった。
勅使河原先生は僕の姿を見るなり近付いてきてきゃいきゃいとはしゃぐ姿を見せる。成長の止まった身体が四年経った程度でそう大きく変わるものか、と思う反面、こうして再開を喜んでくれるのは素直に嬉しかった。
「……でも、そうね。今年はちゃんと、約束してきたのね」
「今年……?」
「あら、違うの? でも、いいから入りなさい。はいこれ、許可証ね。待ってるから、行ってらっしゃい」
勅使河原先生の零した独り言のような音に反応を示したのも束の間、胸元に許可証を挟まれて押された背中は、自然と脚と動き出して僕の体は後者へと吸い込まれていく。
正しいことが何かは分からないけれど、僕は今すぐにでもあの場所へと向かわなければならない、と突き動かす衝動に身を任せ、僕はスリッパの走りにくさも感じられないまま、走っていく。
「はぁっ、はぁっ──」
校舎に懐かしさを覚える暇もないまま辿り着いた、技術棟の一階にある映像研究部の部室。いや、元部室だろうか。
そこには僕達のいた証拠とも呼ぶべき看板は既に取り外されており、ここに誰かが居たということを今でも知るのは、それこそ生き字引である勅使河原先生と、僕と楠木さんのみ。
在学時から変わっていなければ、この部屋の扉の鍵は壊れていて誰でも開けられるようになっているはず。
そう思って扉に手を掛けると、ようやく感じられた懐かしい重みがカラカラと音を立てて開いていく。
その速度は、僕が思っているよりも遅い。
遅く感じられるのは、開くのが怖いと思う僕の心がスローに感じさせているからか。
それもそのはずで、この扉の向こうで待っているのは、四年前のあの日の出来事だ。
伝えられないまま終わった、あの日の僕がトラウマとして瞼の裏に蘇る。
途端、扉を開ける手が更に重たく感じるようになる。
それでも、昨日の遊佐さんの言葉を思い出す。
──惰性で不幸に身を置くなんて、陽葵にも、結月自身にも失礼だよ。
僕は四年前の今日から四年後の今まで、変わることを恐れていた。
高校三年生の時、たった一年でこれまでの九年を大きく変えることが出来たというのに、僕はこの四年間、現実から目を逸らし続けることで変化することを拒絶してきた。
ただ一歩踏み出すだけで僕は変われたかもしれないのに、その一歩を踏み出すのに四年もかかってしまった。
だからこそ、僕は今日、四年前に止まったままの時間を、動かしに来たのだ。
四年前の約束を、果たしにやって来たのだ。
そう意気込んで、僕は重い扉を開いていく。
そして、その扉の先で待っていたのは──。
「……陽葵、さん」
「ずっと、待ってた……!」
体の前で手を組んで、栗色の髪を揺らす女性。
燦々と輝く太陽のように僕を照らし続けてくれた彼女の名は、僕の最愛の彼女の名は、楠木陽葵。
あの日、あの時……この場所で待ち焦がれた彼女が、四年経ってより一層磨きがかかった美しさを誇る彼女が、見開かれた目にいっぱいの涙を湛えて、出迎えてくれた。
「ずっと、会いたかった……!!」
「ひ、陽葵さ……んっ!?」
歓喜に沸く彼女に反して、どんな顔をしていいか分からないままだった僕に向かって、彼女は何の前触れもなく飛びついてくる。
その勢いは相当なものであって、僕は思わず一歩、二歩と後ろに下がってしまったものの、胸に埋められた彼女から漏れ聞こえる嗚咽に、僕はそっと彼女の背に腕を回すのだった。
胸元がしっとりと濡れていくのを感じる中で、次第に嗚咽が収まっていく楠木さんは、胸に顔を埋めたままぽつりぽつりと謝罪を口にしていく。
「ごめんなさい、ごめんなさい……っ。あの日のことを、ずっと謝りたかった……! でも、どんな顔で会えばいいのか、分からなくて……。自分が傷付けた結月くんに何も出来ていないまま会って、もし拒絶されたらって思ったら……会いに行く勇気が無かったの。本当に、ごめんなさい……! こんなこと言っても、結月くんには言い訳にしか思えないだろうけど……、また、結月くんに会えて、本当に嬉しいの」
「……謝るのは、僕の方だよ。僕が、もっとはっきりしていたら良かったんだ。もっと早く、陽葵さんに会うべきだったのに、僕が、逃げてばかりだったから。……君に会って、君があの日来れなかった理由、君が僕のことを嫌いになったから、という妄想が現実のものになるのを恐れたばっかりに、陽葵さんを四年も待たせたんだ」
「っ! 違う! 嫌いになんか、なってないわ!!」
お互いに滔々と語っていた言い分であったが、僕の言葉が終わるよりも早く顔を上げた楠木さんは、僕の声に被せて否定の言葉を吐いた。
その様子からして嘘を言っているようには思えない、と考える思考を頭の外に追い出す。
最早、疑う余地などありはしないだろう。
その余計な思考は全て、僕があの日自分で作り出したあるはずのない妄想。僕が傷付きたくないからと作り出した、楠木さんの幻影に過ぎないのだから。
「好き……前からずっと、あなたのことが大好きなの。結月くんと、ずっと一緒に居たい。もう、離れたくなんかない。だからまた、前みたいに一緒に──」
楠木さんは僕を見上げ、最早我慢ならないと言った様子で口を滑らせる。
僕は大馬鹿だ。
楠木さんを四年も待たせた挙句、彼女に泣きそうな顔まで浮かべさせている。
その事実がどこまでも不甲斐なく、自分で自分が嫌になる。
それでも、僕がここに来た理由は、楠木さんに会うためだけではなかった。
あの日、あの時。
四年前からずっと、この場所に囚われたままの僕を連れ出してあげなければならない。
「……前みたいには居られないよ」
「えっ……」
そっと体を離した上で、僕は言う。
決して離れたくなんて無いと言葉でも体でも訴える彼女と手だけを繋いだまま、僕はあの日の僕の言葉を代弁する。しなければならなかった。
困惑した様子で目を見開く彼女の顔を真正面から見つめ、意を決する。
不思議と、緊張は無かった。
「──陽葵さん。いや、楠木陽葵さん。僕は、涼村結月は、君に会えて、人生が変わりました。君と出会えたことで、僕は自分を好きになれた。そしてそれ以上に陽葵さん、あなたのことが、好きです。大好きです。だから、僕と……僕と……」
「……はい」
愛の告白を紡ぐ中で、彼女は何度も目を瞬かせ、本当に嬉しそうに目を細めていく。
しかし、ここで僕の悪い癖が蘇る。
言いたいことがあるのに、本当の想いを口にしようとした際の極度の緊張で、僕は言葉が上手く出て来なくなる。
それでも、楠木さんは僕の言葉が紡がれるのを待っているようで、僕は一度だけ深呼吸を挟んでから、言おうと決めていた言葉を、口にするのだった。
「──結婚、して欲しい」
……待て。
待って待って待って。
ちょっと待って。
待ってほしい。
僕は今、何て言った?
何を言うつもりだったかも忘れて、僕は今し方自分の口から放たれた言葉に自分でも分からなくなって困惑に陥る。
しかし、混乱しているのは僕だけでなく楠木さんも同じだったようで。
「…………。…………。──ケッ!?!!!?!?!!?!?!?!??!?!?」
僕の声に遅れて彼女の顔が赤くなったかと思うと、まるで爆発したみたいな音を立てて楠木さんの顔から煙が上がる。
彼女の美しさを際立たせる切れ長の目はいつになく限界まで開かれていて、その驚きようをはっきりと表しているかのようではあったが彼女の鏡のように澄んだ瞳に映る僕も、同じような顔をしていたかに思える。
「ち、違っ……! いや、違くはない、んだけど……、違くて……! えぇと、えぇっと……、僕はただ陽葵さんに好きだって言いたかっただけで……」
あんなに覚悟も決まっていたのにどうしてこうも締まりが悪いのか、と自己嫌悪に陥ったのも束の間、目を瞬かせていた楠木さんは僕の反応を見てようやく我に返ったかのように吹き出してしまうのだった。
「──ぷっ、あはは……! そう、そうよね。結月くんは、全然変わってないのね。本当に、私の好きな結月くんのまんまだわ」
「い、言い直すよ」
「ううん。言い直さなくていいわ。私も、結月くんと結婚したいし」
「……そういう陽葵さんこそ、恥ずかしがらなくなったね?」
「恥ずかしいわよ? でも、それ以上に『嬉しい』が勝ってるの」
「……四年も待たせて、ごめん」
「ううん、いいの。私、結月くんのことを待っている時間は、嫌いじゃないから」
そう言いながら、僕達は見つめ合って繋いだ手を確かめ合うように何度も何度も握りを強めたり弱めたりをし合う。楠木さんはあの頃から、手を繋ぐのは好きなままのようだった。
「……それでも、もう一回言い直すチャンスをくれない?」
「初めての告白がプロポーズだなんて、逆に私達らしいじゃない」
「それでも、だよ。あの時の僕の答えを、聞いてほしいんだ」
「……我慢できないかも」
「すぐ終わるからさ」
「なら、どうぞ」
なんだかソワソワしている楠木さんに、僕は一呼吸置いてからもう一度彼女の目を真っ直ぐと見据える。
遠くから聞こえてくる卒業式の声すら掻き消すような静寂に包まれた部室は、物置となってから久しいというのに埃臭くないのは、勅使河原先生が手入れしてくれていたからか。
放課後の限られた時間だけが好きだった僕にとって、いつの間にかこの部室で楠木さんと過ごす時間は制限なく好きになっていった。
だからこそ、あの日、あの時に彼女に会えたなら言おうと思っていた言葉を、ようやく口にする。
「……楠木陽葵さん。好きです。良かったら僕と、付き合って下さ──」
「はいっ!!」
「~~ッ!?!!!?」
しかし、楠木さんは僕の答えを聞くまでもなく決まっている、とばかりに答えを被せてくる。
僕の首の後ろに回された手、触れ合う唇、間近で感じられる息遣い。
それら全てが折り重なって、僕と彼女の青春に幕が下ろされていくのを感じる。
あの日の僕が、あの日の彼女が救われていくような、そんな幻を瞼の裏に描きながらゆっくりと閉じていた目を開いていくと、同じタイミングで彼女の目が開く。
物足りないような卑しさを感じながら、僕達はお互いを求めるかのように、離れていた時間を取り戻すかのように、息継ぎもそこそこに再び唇を重ね合うのであった。
もう二度と、離れることが無いようにと。
もう二度と、この手を離すことが無いように、と。
──今度は歯は、ぶつからなかった。
あの日、あの時、あの場所で。~完~
『日は夜を知らず、月は昼を知らず』
この物語の題材になった一文です、
この一文に付け加えるとすれば、二人を倣って──
『されど二人は、決して離れることはない』
と言ったところでしょうか。
最終回は、登場人物たちへのご褒美という訳で、ハッピーエンドでした。
最後までお付き合いくださった読者の皆様、本当にありがとうございました。
後半、更新ペースがガタッと落ちてしまいましたが、無事に最終回にまで彼らを導くことが出来て私自身感無量でございます。
アクセス数だったり評価数を見ないようにしていたりとモチベを保っていましたが、やはり感想を貰えたことが一番嬉しかったです。
校長先生の話と後書きは短い方がいい、ということで、総括もここら辺にしてお別れしたいと思います。
拙い文章ではございましたが、結月と陽葵の青春を見届けて下さった皆様、本当にありがとうございました。
最後によろしければ、下の評価や、お疲れ様の感想を貰えると嬉しいです。




