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悪夢。
携帯が、水没した。
私の身に降りかかった不幸は、それだけでは無かった。
「──帰りの飛行機が取れないってどういうことですか!? 私は明日、卒業式なんです! 卒業式には、何が何でも行かなくちゃいけないんです!!」
卒業式の前日。
最後の撮影を終えて今から向かえば最後の便には間に合うはず、という私の期待を見るも無残なまでに砕くような一報が入ったことで、私の怒りは限界を迎えていた。
いつになく感情的になる私を見て本格的に「不味い」とでも思ったのか、私が詰め寄る事務所のスタッフは青い顔をしながら額に冷や汗を浮かべて私のことを宥めようとしてくるが、私の体の中で燃え滾るような怒りの感情は爆発寸前であり、それを止めるには帰りの飛行機のチケット、それ以外にはありえなかった。
「い、今、キャンセル待ちしていて……」
「……いつ、分かるんですか」
「明日の、朝までには……」
「……」
「あ、ちょっと、待っ──」
それだけを聞き届けた私は、眉間を抑えながらホテルの一室へと戻っていく。
他の演者やスタッフが見ている中での一幕であったからか、舌打ちの一つも出来ないことが私の苛立ちを加速させる中、私はスタッフの人の制止の声に足を止めることなくホテルの中を進む。
もちろん、帰り支度をするためである。
私の中で大切な思い出となっている彼と一晩を過ごした高級ホテルとは格が違うとは言え、ここも決してグレードの低いホテルではないというのに、彼のいない場所なんていうのは私にとってみれば色褪せているとしか思えなかった。
母親譲りの優れた容姿は、その代償とばかりに可愛げの欠片も有していないことをこれまでの人生でどれだけ恨んだことか。
それでも、今この瞬間ばかりはその可愛げの無さが私の怒りを更に押し上げて印象付けることに一役買っているのだが、そんなこと、嬉しくもなんともなかった。
叶うのなら、もっと愛想よく、自分の気持ちに素直でいられればこんなに苛立つことも、不安に駆られることもなかったというのに……。
事務所にも事務所の都合があるのかもしれない。
スタッフはただ言われた通りに仕事をしているだけなのかもしれない。
そんなこと、誰かに言われるまでもなく頭で理解できているというのに、こうして八つ当たりのように怒鳴り散らかすという自分勝手で他人を慮れないようなこんな可愛げのない姿を見られたら、結月くんに失望されてしまうかもしれない。
彼の前でなくとも、忌々しい元父親を思い出すような真似のような行動を取った自分に嫌悪感を抱き、同時に不安を通り越して恐怖が湧いてくるも、彼との約束を果たすためにはこうする他無かった。
私は現在、モデルの仕事で九州にやって来させられていた。
文化祭でのランウェイが切っ掛けで、私の元にはたくさんの仕事が舞い込んでくるようになった。
受験も終わり、進路が定まった今ならモデルとして大成する好機だと踏んだからこそ、舞い込んでくる仕事は出来る限り受けるようにしたお陰で、去年の暮れから今に至るまで、文字通り目が回る忙しさだった。
お世辞にも大手とは言えない事務所も、舞い込んできた仕事を全面的にバックアップしてくれて、たくさんの仕事を熟してきた。
成功体験を重ねていくことで、着々と自分の夢に近付いているような、一つずつレベルアップしていく感覚は確かなものだった。
しかし、私の仕事が忙しくなればなるほど、彼と……、結月くんとの時間は削られていく。
忙しすぎて困る、というのは嬉しい悲鳴であると同時に、結月くんと一緒に過ごす高校生活最後の時間が削られていることへの不満でもあった。
それでも、結月くんならきっと私が夢に向かうことを望んでくれると分かっていたから、私は彼に会いたいという欲求を必死で堪えて仕事に励んだ。
そのお陰で、遥か高みにいると思っていたモデルの先輩たちに少しだけ近付けたような気がして、これまでで一番自分の成長を実感できていた。
そんな忙しい日々の中で隙間時間を縫うようにして結月くんに唯一会いに行けたのが、彼の合格発表の日だった。
余りにも激動の、そして激務の日々で肉体的にも精神的にも疲れ切っていた私は、彼との貴重な時間を削るように眠りこけてしまっていたが、その日はどうしてか、ここ最近で一番よく眠れたような気がした。
そしてその日は、余りにも衝動的だったという他無いのだが、私にとって大きな一歩を踏み出した、特別な日でもあった。
私は彼に……、あの日、あの時、あの場所で──キスをした。
恋人同士が愛を確かめ合う神聖な行為を、私はお互いの愛を確認すると言うステップをいくつも踏み越えて、彼の唇を奪ってしまった。
彼のお姉さん、姫和さんの結婚式でホテルの同じ部屋に泊まった時から我慢していた衝動を、久しぶりに彼に会えたことの喜びと、これからまたしばらく会えなくなってしまうことへの精神的な負荷も相俟って、私にとっても初めてのキスを、あんな風に衝動的に済ませてしまったことは反省すべき点ではあるものの、彼の唇を奪えたことも、私の唇を捧げたことも全て、後悔はしていなかった。
むしろ、今でもあの時の彼の柔らかくて少しだけ乾燥していた唇の感触は明確に思い出せるし、その後しばらくの間は彼の匂いに包まれていた気分の高揚は、思い出すだけで胸が高鳴るというもの。
それに何よりも、あの日に私は約束したのだ。
キスの返事を卒業式で聞かせてくれ、と。
だから私は、卒業式に──否、その後で待ち合せる二人だけの時間には間に合わなくてはいけないのにもかかわらず、事務所はその大事な卒業式にまで仕事を持ち込んで来た。
三か月以上前から、そう、年を越す前の時点からその日だけは絶対に仕事は入れないでくれと頼み込んでいたのにもかかわらず、事務所は卒業式の日に終わる日程で仕事を取り付けてきたのだ。
これが事務所のために身を粉にして働く私への仕打ちなのかと恨んだりもしたが、マネージャーから「お世話になっているスポンサーさんからのご依頼だから」と泣き付かれてしまっては断るわけにはいかなかった。今思えば、この時点で断るべきだったのだと悔やむばかりではあるが、後悔先に立たずである。
とは言え、予定はあくまでも予定。
日程は予備日として取ってあるだけということもこれまで多くの撮影の仕事をこなしてきて学んでおり、撮影が巻けば遅くとも卒業式の前日には帰れるはず、と考えて苦渋の決断として首を縦に振った次第であった。
……その結果が、この様だ。
「ご機嫌斜めね、陽葵ちゃん」
「っ、由夢先輩。止めないで下さい。私は、行かなくちゃいけないんです」
「行くって、どこに? こんな時間じゃ、バスも、タクシーも無いわよ。それに、飛行機だって取れてない。出て行ったところで、ホテルにとんぼ返りする羽目になるだけよ」
開けっ放しにされたホテル部屋の扉にもたれかかってそう声をかけてきたのは、私がモデルをし始めた頃からお世話になっている、由夢先輩。
この事務所のナンバーワンの稼ぎ頭と言っても過言ではない程に、雑誌のみならず各種メディアでも熱狂的な人気を誇るカリスマモデルの由夢先輩は、キャリーバッグに荷物を詰めていく私に対して「落ち着きなさい」と言いながら頭を慣れた様子で撫でてくるのだが、今はその優しさすらも鬱陶しく思えてしまう。
右も左も分からなかった私に手取り足取りこの業界のことを教えてくれた親切で心優しい存在。
所属する事務所の新人のみならず、スタッフからも慕われている様子から、事務所の母とも名高い女性。
しかし、この業界で長い間第一線で活躍していることからも分かる通り、一癖も二癖もあるような人であることを表面上には出さないことも知っている。
そんな由夢先輩が憐憫を向けて来た時点で次に何を言うのかも分かってしまえるのは、私もこの世界に染められてきている所以だろうか。
「冷静になって考えてごらんなさい。今出て行くより、明日の便を待った方が確実でしょ? 空港で寝泊まりなんかして酷い顔のまま卒業式に出るつもりなの? 愛しの彼に会いに行くんでしょ?」
「……でも」
「スマホも壊れちゃってるんでしょ。地図も何も無しにどうやって空港まで行くつもりだったの。保護者には、事務所の方から連絡しておくように伝えておくから、今はとにかく休んでいなさい」
由夢先輩はいつだって事務所ファーストな考えを持っている。
だからこそ事務所からも信頼されているし、こうして私のような壊れそうな新人と事務所の間に入ってくれることも多々あって。
由夢先輩の言うことは尤もだし、事務所の方から連絡が行けばきっとお母さんが学校に連絡してくれるはずだと考えて、私は帰り支度をする手を止めるに至ってしまうのだった。
事実、衝動に任せて出て行ったところで、私にできることは何も無い。
見かけがいくら大人びていようとも、私はまだ高校生の分際。大人程、多種多様な選択肢を持っているわけではないから。
「……私もね、高校の卒業式には行けなかったの」
「由夢先輩も……」
「正確には、私は行かなかったんだけどね。でも、この業界に入ったからには私生活を犠牲にする覚悟は必要よ。どんなに外したくない予定があったとしても、仕事を優先しなきゃいけない時が来る。ここは、そういう世界だから。だから私は、陽葵ちゃんを引き留めたの。あなたはきっと、もっと上を目指せる存在だと思ったから」
「私、は」
由夢先輩は、憧れだった。
私の持っていないものをいくつも持っていて、それでいて決して驕ったりしない。そんな由夢先輩のようなモデルになりたいと常々思っていたからこそ、私は由夢先輩の言葉を受けてそれ以上の反論を口にすることはできなかった。
由夢先輩の善意で私と事務所の間に生まれた軋轢を解消しようとしてくれたのを、私の勝手でもう一度鎮めた火を再燃させる程、私は子供じゃなかったから。
子供じゃないと同時に、何もかもを許して笑って済ませられる程大人でもないからこそ、その日は肌身離さず持ち歩いているネックレスを握って、彼のことを考えながら浅い眠りについたのだった。
「……おはようございます」
「ひっ、お、おはようございます……!」
不安と焦燥が入り混じった感情のまま迎えた卒業式当日の朝は酷く気分が悪いもので、昨日怒鳴りつけてしまった事務所のスタッフは私の顔を見るなり逃げて行ってしまう。
遠巻きに感じる畏怖の念を受けても私の胸に罪悪感が浮かんでこないのは、それだけあの人のことを、否、事務所のことを恨んでいるからだろうか。
一晩経っても私の怒りは収まるどころか彼らに対する不快感へと変貌を遂げており、目が合った由夢先輩からは同情の念が送られてくる。
私のこの想いは、事務所がどうとかそんな大人の事情程度で止められるようなものではないと、私は改めてその思いを強く胸に宿した。
彼に会いたいがばっかりに苛立ちだけが募っていく中、昨日は席を外していたこの撮影を管理する事務所の人を見つけて詰め寄っていく。
今度は声を荒げたりせず、淡々と、滔々と。
「随分と平気な顔していますね」
「んぐっ……、き、昨日は、ごめんねぇ。昨日はちょーっと、席を外せなくってね」
「どうでもいいですけど。チケットは取れたんですか?」
「い、一枚だけなら……」
「それで十分です。何時の便ですか」
「十六時の便で……」
「は?」
「い、今の時期繁忙期なんだよ。元々埋まってるわけで、そこに無理矢理割って入る訳にも行かなくて……。キャンセル待ちが出たのがその時間だけって訳なの! 一応、今もキャンセルが出てないか確認はしてるけど、それより早い時間は無くって、ですねぇ……」
「そうですか。なら、それで結構です」
「そ、それでね、今日はスポンサーさんが一緒に昼食でも、って──」
「撮影は昨日で終わりましたよね? お断りさせていただきます。時間まで部屋にいるので、時間になったら空港までの手配だけ、よろしくお願いします」
「あ、ちょっと──!!」
これ以上は、付き合っていられない。
くたびれたスタッフを置き去りにして、私は部屋へと帰る。
裏でどんな話し合いがされているのかなんて、興味がない。
罪悪感を抱かれたところで、この件は一生根に持つつもりだ。
もしもこの一件で事務所から外されたとしても、それでいいとすら思えていた。
翻って事務所が引け目を負うなら、それでいい。
私が今欲しいのは、結月くんに……彼に会えるかどうかだけなのだ。
それがまさか、仕事でもない、たかだか食事会のためだけに私の意見を無視して大切な卒業式と日程を被らせたのかと思うと腹立たしくて仕方がない。
そう思って時間まで部屋に閉じこもっていると、由夢先輩が他の先輩たちを連れて部屋に遊びにやって来た。
何を考えているのかと思っていると、先輩たちは口々にが私と結月くんを応援すると言い出した。
「陽葵ちゃん! 応援してるからね!!」
「上手くいったら、紹介してね?」
「先輩……」
「昨日は事務所を立てる名目でああ言ったけど……、あそこまで堂々と言い切れるなら、陽葵ちゃんは大丈夫。もしも事務所から不当な扱いを受けるようだったら、私達が守るからね」
「由夢先輩……!」
「それと、出来ればでいいから二人の恋模様をもっと聞かせて頂戴?」
事務所の三大巨頭とも言うべき先輩達が張り切った様子で味方に付いてくれるらしく、私は感謝の言葉を口にするのであった。
先輩達の大好物が恋バナであることは知っていたが、まさかそこまでとは、と思いつつも、初めからそっちが目的だったかのように誘導する由夢先輩の手腕は、流石の一言に尽きる。
それでもやはり事務所に対して腹立たしい思いは変わらないままで、時間が来るまでストレス発散とばかりに結月くんとの最近の出来事を話して盛り上がるのだった。
昼過ぎには先輩達に見送られてホテルを出て、空港の発着ロビーで待機していたものの、結局キャンセル待ちは出ずに初めに予定された16時の便で私は撮影地を後にする。
「間に合って……!」
事務所のスタッフに見送られて飛び立った飛行機の中で、私は必死で祈る。
もう既に卒業式が終わっていることくらい、見当がついている。
それでも、祈らずにはいられなかった。
飛行機が辿り着く先は、羽田空港。
そこから、事務所が呼んでくれたタクシーで学校に向かったとしても、時刻は十九時を過ぎるだろう。渋滞に巻き込まれれば二十時、二十一時となってもおかしくはない。
その時間まで結月くんが待ってくれているかどうか。
とにかく襲い来る不安に見舞われる中で、私はただひたすらに祈り続けるばかり。
「結月くん、結月くん……!」
恐ろしいくらいの不安に包まれたお陰で私は飛行機の中で一睡も出来ていないまま、空を渡っていく。今この瞬間こそが、悪夢であればいいとすら願いながら。
しかし。
目で、耳で、肌で感じる感覚は行く時も感じた現実のものであることには間違いなく、ようやく降り立った空港で乗り込んだタクシーの中で時計を見たとき、私は改めて絶望するのだった。
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ハッピーエンドだから安心してください。




