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夢。


 我が校における補習対象者というのは、各学期における中間、期末テストにて赤点を取った者を指す別称であり、学年の平均点の半分が赤点のラインとなる。

 今回僕は数学にてそのラインをたった一点だけ下回ったがために補習対象者の仲間入りを果たしてしまったのだが、楠木さんはどうやら悪い意味で僕とは違うようで、彼女は中間考査における五科目中四科目で赤点を獲得しており、補習課題の量は単純計算で四倍であった。


 ゆえに、例え一緒に課題を進めて一つの課題を終わらせるに至ったとしても、彼女にはまだあと三教科分の補習課題が残されていた。その上、補習課題の提出期限は来週末。今日が土曜日であるからして、楠木さんに残された時間は後、一週間しか無かった。


「……何しに来たの」

「何しにって、部活だけど」

「……裏切り者」


 昨日終わりを迎えた数学の課題を宮野先生に提出しに行った際に「涼村はこれで終わりだな」と言われた瞬間の楠木さんの驚愕と怨嗟に満ち溢れた表情は、正直言って忘れられない。思い出す度に怖気が走るような、殺気にも似た何かを宿していた視線は一刻も早く忘れたいものだ。

 美人が本気で睨み付けるとあんなにも恐ろしいなんて事実、知りたくなんてなかったのだが、帰り道の間もずっと僕は「裏切り者」呼ばわりされていた。


 それから一日が経った今日。

 高校も三年生になるというのに、まだに慣れることのない土曜授業。

 半ドンで終わった放課後ともあって放課後の賑やかさは週の中でも一番の興奮に包まれている中、部室に足を運ぶと僕を出迎えてくれたのは、ジトっとした目つきの楠木さん。

 昨日の帰り道と同じ、自分を置いて先に補習から抜け出した僕を恨むような、そんな目線をぶつけてくる彼女に対して、僕は苦笑いを浮かべる他無かった。


「裏切ったつもりはないんだけど……。それに、課題は僕も手伝うって話が宮野先生からあったでしょ」

「言われてみれば、そうだったかもしれない」

「でしょ? ほら、課題の手を止めている暇は無いんじゃないの?」

「あんたは何してるの」

「えっと、映像研究部だし、映画でも見ようかな、って」

「……ここで見られたら私、集中できないんだけど」

「パソコンでも見れるし、イヤホンすれば邪魔にはならないでしょ? まぁ、今日は僕もやることがあるんだけど……」


 一晩経ってみれば、彼女の怒りも少しは落ち着いた様子。

 それでも不愉快さを隠そうともしない楠木さんの表情は、彼女がこんなにも表情豊かだったのかと思い知らされるかのよう。

 楠木さんのその端正なお顔立ちから繰り出される人を殺せるような眼光さえ向けられなければ、彼女が僕のやること成すこと全部に噛み付こうとしてくる姿はまるで、猫や犬といった愛玩動物のような可愛らしさすら湧いてくるようで、ぶすっ、とそっぽを向く彼女は年相応の少女なのだと分かる。


 あの雑誌に載っていた大人びた空気を纏った彼女と同一人物であるとは到底思えないような幼さに、僕は張り合うのも馬鹿らしく思えて彼女のやっかみをスルーしつつ一枚の紙を鞄から取り出す。


「何それ。進路希望調査? まだ決めてないの?」

「ま、まぁ……」


 取り出した紙を反対側から覗き見てどこか勝ち誇ったような様子を見せる楠木さんに対して、僕は力なく頷き返す。


 楠木さんの補習課題の提出期限が来週末までなのは、担任の宮野先生が各教科の先生に交渉してくれたからで、僕の課題の提出期限は予め予定されていた今週の金曜日……即ち昨日であった。それをクリアした僕の前に次に立ちはだかるのは、来週の月曜が締め切りの進路希望調査という名の巨大な壁だった。


 締め切りを越えた先には、また新たな締め切りが迫る。

 今の僕はまるで人気連載漫画家のような気分である。

 しかしその実態は、自分の将来すらも決められない優柔不断な一人の学生に過ぎない。


「将来の夢とか、ないの?」

「将来の夢、か……」


 楠木さんは、自分の課題に取り組む手を止めて、僕の方を見上げてくる。

 彼女にとってみれば数学が一番の難敵であったらしく、他の三教科は「簡単よ」と宣言しておきながら、堂々と分からないところは分からないと聞いてくる。そんな風に素直に打ち明けられる彼女の姿は僕の目には羨ましく映って仕方が無いのだが、そんなことをおくびにも出さずに彼女の問いかけについて考えを巡らせてみる。


 将来の夢。

 小学校に上がりたての頃、それをお題にした作文を書かされたことがあった。

 あの時、僕は何になりたいと言っていただろうか。

 そして、いつの頃からその夢を忘れてしまったのだろうか。

 いくら考えてみても思い出すことはできないし、思い出したところで今の僕とはまるで違う考え方をしていることだろう。きっと参考にもならない。


 いつから、夢を見ることが無くなったのか。

 それは覚えている。朧げながらも、はっきりと。小学生の頃だ。

 夢と希望を胸に秘め、両親の期待をランドセルと言う形で双肩に背負って入学してから、三年が過ぎた頃だった。

 僕の両親が、離婚したのだ。九つ離れている大人な姉は母さんに、乳飲み子から可愛さだけを抜き取ったような馬鹿な子供だった僕は、生育環境を鑑みて父さんに引き取られた。父さんが僕を引き取った理由は、分からない。聞いたこともなければ、聞きたくもなかった。何故なら、聞くのが怖かったから。

 父さんは僕になんでも与えてくれた。習い事がやりたいと言えばやらせてくれたし、辞めたいと言えば辞めさせてくれた。あれが欲しいと言えば玩具はすぐに買い与えられたし、なんだって手に入れてくれた。

 だからこそ、こうして自分一人では何も決められない、与えて貰わなければ何も手に入れることが出来ないような、空っぽの人間が出来上がったのだ。将来の夢も無ければ、特徴も無い。魅力も無ければ、力も無い。そんな何も持ち得ない僕が出来上がったのは、そうした経緯が全て。

 その結果、父さんの都合で越した先の中学では、人の好きな物を好きと言って、嫌いなもの嫌いと言って周囲に馴染もうとした結果、僕は八方美人と化して誰にも好かれることも嫌われることもない、退屈で、変化のない学校生活を送った。それがどれだけ寂しかったことか、僕はよく覚えている。


 だから、僕は僕のことが嫌いだった。

 人と関わる度に、自分がどれだけつまらない人間か、どれだけ惨めかを思い知らされるから。

 そしてそう思ってしまう自分が、何よりも一番嫌いだった。


 だが、それは父さんのせいではない。

 全て、僕が悪い。習い事もすぐに投げ出して、買い与えられた玩具も興味が失せれば捨て去って。

 何かを与えられるのを待つだけの人生を過ごして来た僕には、普通の人が通る道であるはずの、何かを得るために自分から動く努力を怠ってきた。

 それが、全ての元凶。今まで自分のために選び、勝ち取ってきた経験が無いから、僕には自分の将来が、進むべき道が分からない。それは全て、これまでその責任から逃げ続けてきたツケが、今ここで清算されているのだろう。


 それを理解した時。高校生になってようやくその事に気が付いて自分で何かを得ようとした時には、既に何もかもが遅かった。


 友達を作ろうにも、与えられたことが無いので作り方が分からない。

 人との距離の取り方というものを、父さんは教えてくれなかったから。

 それらも含めて、全ては僕が自分から動こうとしなかったことが全ての原因。両親が離婚して、母さんと姉さんと離れ離れになってから今まで、僕は自分で何かを得ようとする努力から逃げ続けてきたのだ。そのツケが今になって自分の将来に直接関わってくるなど、誰も教えてくれなかった。僕は、知ろうとしてこなかった。

 度重なる父さんの転勤も、今にして思えば僕はそれを逃げ道にしていたのかもしれない。友達が出来なくても仕方が無い。すぐに居なくなるから、なんて。そう言って人の和を乱すだけ乱して逃げ出して。誰とも向き合おうとしてこなかった。父さんとも、自分とも、将来の夢とも。


 夢ならば、何もしなくても叶うものだと、そう思っていた。

 だって夢じゃないか。夢が叶わないなんてことが、あっていいはずがない。


 そんな子供じみた傲慢な考えを中高生になってもまだ持っていたからこそ、今になって後悔しているのだ。

 ならばせめて勉強面だけでも必死になった方がいいんじゃないか、と転校先に進学校を選んでみたところで、転入試験に受かったのも奇跡に近く、こうして補習課題を受けているくらい、僕の成績は大したことなかった。


「……覚えてない、かな」

「……私、なんか変なこと聞いた? あんた、顔色ヤバいけど」

「えっ!? あ、いや、これは、なんでもない。本当に、なんでもないんだよ。ただちょっと、考え過ぎて具合が悪くなっちゃった、みたいな」

「あっそ。でも、将来の夢が無いっていうのはアレね。つまらないんじゃない? 人生」

「えっ……」


 不意に零された楠木さんの言葉に、僕は思わず言葉を失ってしまう。


 つまらない。


 言われてみれば、確かにそうかもしれない。そうなのかもしれない。

 流されるがままに、父さんの言う通りに動いて来た今までの人生が楽しかったかと問われれば、僕は頷くことが果たしてできるのだろうか。


「楠木さんは、将来の夢はあるの?」

「あるに決まってるでしょ」

「聞いても、いいかな」


 そう問いかけてみるが、彼女の将来の夢というものに思い当たる節はあって、僕は部室の映画の円盤が数本並んでいるだけの棚に置かれた異質な存在。その棚に悠然と佇む女性向けのファッション雑誌にチラりと目線を落とした後に、彼女の口から夢が語られるのを待った。


「……夢は口にすれば叶いやすくなるって言うしね。夢のないあんたにも教えてあげる。私は将来、モデルとして世界一のファッションショーの舞台、パリ・コレクションに出るのが夢なの」


 彼女の口から聞かされたのは、僕が想像していた夢を一回りも二回りも大きくしたような、盛大な夢。

 ファッションには一切興味がない僕でも聞いたことがあるような、ニュースや情報番組から聞こえてくる名前を楠木さんは、「憧れ」ではなく「目標」として口にした。

 その事実を前に、僕は自然と笑みを零していた。

 それは楠木さんの夢を笑いたかった訳ではなく、夢を語る彼女の姿が、何よりも輝かしく、美しく思えたからだった。


「それじゃあ、卒業したら、モデルに専念するの?」

「進路希望には、進学を選んで提出したわ」

「夢や目標がしっかりしてるのに、どうして……?」

「夢や目標が定まっているからこそ、大学には行くの。モデルは馬鹿には務まらないからね。デザイナーさんが作り出した服を最大限理解して、その魅力を引き出すのがモデルの仕事。そのためには語学も、教養も必要なの。だから私は進学することに決めたの」

「大学に行ってる間は、モデルはどうするの?」

「続けるに決まってるでしょ。高卒で専業になれる程甘くはない世界だって知ってるし、今はまだこのままバイトで続けていくつもり」

「それって、大変じゃないの……?」

「さぁね。始まってみないと、やってみないと分からないけれど、大変なんじゃない?」

「それでも……。大変でも、苦しくても、やるの?」


 僕がそう問いかけた瞬間、楠木さんは先程から少しも動いていなかったシャーペンを机に置いて僕のことを真正面から睨み付ける。まるで品定めをするかのような、獲物の様子を伺う肉食獣のような目を向けられてようやく、僕は今の言葉は失言だったと気付く。


「さっきからあんたの質問は正直、全く要領を得なかったんだけど……ようやく分かったわ。あんた、()()()()()()()()()()んでしょ」

「諦める、理由……?」

「自覚無し、ね。あんた、夢なら何もしなくても叶えよ、とか思ってるんじゃないの?」

「っ!」

「別にそれはそれでいいと思うけど、私は違う。私は、夢を夢のままで終わらせたくなんてない。夢だからこそ、絶対に叶えたいの。その夢に向かう道がどれだけ険しくても、大変でも、苦しくても、私が私の夢を諦める理由にはならない。私に夢を諦めさせたいのなら、手足の一本や二本もいでみろ、って言ってやるわよ」


 ふんっ、と鼻息を荒く吐いて言ってのけた楠木さんは、やっぱり格好良くて。

 僕は頭の中で何度も何度も彼女の言葉を反芻させるたびに、彼女への興味が湧き出て止まらなくなる。


 楠木さんは、僕とは正反対の人だ。

 真逆に位置する人だからこそ、もっと彼女のことを知りたいと、そう思ってしまう。

 そこで僕は、この話が始まってからずっと聞きたかったことを、彼女に聞くのだった。


「……夢に向かって努力するのは、楽しい?」


 すると、彼女は「何をいまさら」とでも言いたげに口をへの字に曲げて、言い放つ。


「楽しいだけじゃないわよ。当然、辛いことだって悔しい思いだってする。でも、楽しいか楽しくないかで聞かれたら、楽しいって答えるに決まってる。だって、絶対に叶えたい夢に向かっているんだから」


 にやり、と悪戯が成功したとでもいうように笑って見せた彼女は、続けざまにこう言い放った。


「それと……。ここ、分かんないんだけど」


 そう言って、補習課題を広げてから数十分が経過して初めて、彼女の持ったペンが動くのを見て、僕はすっかり気が抜けてしまったかのように吐息と共に笑みを零す。


 そんな風に自分の好きな物を好きだと語れる楠木さんがどうしようもないくらい格好良く見えて仕方がない僕は、なんだか下らないことで悩んでいる自分が馬鹿らしくなってくる。


 諦める理由を探すのは止めて、僕も彼女のように『好き』に向かって一直線に進めるような、そんな『好き』を見つけられるようになりたいと密かに強く願い、進行度の遅い楠木さんの課題を手伝うのだった。









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