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二十三ページ。
「……」
「……っ」
僕は今、映像研究部の部室にて窮地に立たされていた。いや、正しくは椅子に座らされているのだけれども、目の前から放たれるプレッシャーの圧から考えても椅子に縛り付けられているといっても過言では無い状態にあった。
目の前には、机を挟んで厳かな雰囲気を纏って佇む楠木さんの姿。机には補習課題が広げられているが、本来であれば本題であるはずのそれらが今やお飾りとなっているかのようにお互いに補習課題に手を付けるような素振りは無い。
僕は冷や汗を、楠木さんは無表情を湛えて向かい合ったまま、時計の秒針が正確に時を刻む音だけが静寂に包まれた部室の中に響き渡る。この時だけはどうしてか、放課後の喧騒が聞こえてこなかった。
「あ、あの……」
「早く。目を通して。感想を。どうぞ」
怒っているのか、笑っているのか、それとも軽蔑しているのか。
向かい合う楠木さんの表情も、抑揚のない声も、どれを取って見ても感情の機微の一つすら伺うことが出来ない。
彼女が一体なにを期待してどこぞの司令官を模したような態勢を取っているのか、僕に思い当たる節は一つしか無かった。
それは当然、僕が彼女の仕事ぶりが載っていると言う女性向けファッション雑誌【Elma】を隠し持っている以外には考えられない。
考えられないというより、実際に部室に現れるなりそれを「読め」と強要されたため、それしかないというのが正しいが。
そんな彼女の威風堂々たる佇まいは正しく女王様に相応しい振る舞いであり、しがない一般庶民である僕は委縮するばかりで拒否権など与えられていなかった。
そんな意図の読めない彼女の行動に、僕はすっかり呆気にとられるばかり。てっきり昼休みの騒動について問い詰められ責められるのかと思っていた僕は、彼女の考えることが何一つとして分からなくなってしまったことに加えて、彼女の普段と何ら変わらぬ態度が不気味に思えてしまって指一本動かせずにいた。
あれから、昼休みの騒動の後。
目立つクラスメイト達にも、陸上部の彼にもちょっかいをかけられることなく午後の授業を過ごした訳だが、今度は午前中に抱えていた不安とは異なる不安が湧いてきたお陰で全くと言っていいほど授業には集中できず、結果として僕は今日一日ろくに授業に取り組むことはできなかった。
楠木さんも、雑誌の話題が出た昨日の今日でまさか僕があんなにも大胆な真似に出るとは思っていなかっただろう。目立つクラスメイトに向かって「気持ち悪がることはない」と言ってはいたものの、行動に移る早さを前に内心ではもしかすれば気持ち悪がられていてもおかしくはない。
昼休みのアレは事故だったとは言え話を聞いた翌週に僕が雑誌を購入しているのは事実である以上、引かれていてもおかしくないくらいの行動をしているという自覚はあった。
だからこそ彼女が部室に現れるなり、椅子に腰を下ろすなり開口一番に「雑誌の感想は?」と口にしてきたことに驚きと戸惑いを隠すことができなかった。彼女の真意が、分からなかったから。
「……よ、読めば、いいの?」
「私が読者の目にどう見えているのか、具体的な感想を聞かせてほしいの。普段そう言う声は滅多に聞けないから」
「ぼ、僕なんかの意見じゃ、参考には……」
「いいから、さっさと目を通して」
普段、女性向けのファッション雑誌なんて読むはずが無いような人間に感想を求められても、と言いたかったのだが、楠木さんの鋭い眼が「さっさと読め」と眼光を放つ。それはまるで首元にナイフを突きつけられているかのようで、僕はそれ以上抵抗の姿勢を見せることなく、ファッション雑誌を開いていく。
「二十三ページに掲載されてるみたいね」
「う、うん……」
目次に目を通していると、頭上から楠木さんの声が聞こえてくる。
雑誌に視線を落としていて目線を上に上げることは叶わないのだが、楠木さんの声の端々からは、どこか浮ついたような、期待するような様子が織り込まれているようなそんな気がした。
それが僕の反応を楽しみに待っているのか、それとも別の意味で愉悦が待っているのかは定かではないが、首筋をくすぐるような彼女の弾む声音は、僕の精神衛生上大変よろしくなかった。
彼女の言う「二十三ページ」を目指して指先が一枚ずつページをめくっていく。
楠木さんの載っている【Elma】という雑誌は、どうやらメインターゲットは女子高生というよりかはもう少し大人な女性のようで、大人びたファッションアイテムを紹介するコラムだったり、男子の僕が踏み入ってはならない女性の領域について書かれたコラムであったり、なかなかに刺激の強いものが多かった。僕はなるべく分かりやすい反応をしないように「この紙で指を切ったら痛いだろうな」なんて関係のないことを考えながら、なるべく雑誌の中身については考えないようにページを捲っていく。
「……ぁ、これ」
「!」
ようやく辿り着いた二十三ページ。
そこには、晩春の今に丁度良い、夏を先取りするコーデに身を包んだ楠木さんの姿があった。
だがその雑誌に載っている彼女の姿は、普段学校で見るようなただ大人びているだけの楠木さんの姿とは大きく異なっているもので。
雑誌に載っているのは動きのない写真であるはずが、誰もが見蕩れる透き通った肌はプロの手による化粧で更なる輝きを宿していて、楠木さんを象徴するかのような切れ長の目は、天を衝くような長い睫毛と目尻と目頭を強調するように描かれたラインによって覗き込んだ人が吸い込まれてしまうような魔性の瞳へと生まれ変わっており、その瞳が放つ魅力はとても彼女を女子高生とは思わせない。これまでページを捲って来た中で最も目を引かれたのは誰かと問われれば、僕は間違いなく楠木さんの名前を挙げるだろう。それくらい、モデルとして輝く彼女の姿は筆舌に尽くし難い程に美しく、綺麗だった。
雑誌に載っている楠木さんの姿は学校にいる時とは全くの別人で、もし仮に彼女のことを知っている人が見たとしても、モデルとしての彼女はフランス人形か何かかと勘違いしてしまいそうな程の完成度を誇っていた。そして、彼女の手入れの行き届いた髪の毛は、スタイリストさんの手によって毛先までふんわりと波打つように整えられていて、服装と顔を邪魔しない程度に主張されていて、流れる髪から彼女の全身を覆う、夏に向かう声量感あふれる薄手の衣服へと、流れるように配置された視線誘導にまんまと目を引かれてしまうのであった。
「……凄い」
同じ高校生、同い年とは思えない程に大人びた彼女の姿を見て、僕は思わず感嘆の吐息を漏らす。
ほぼ無意識に彼女の写真に手を伸ばそうとしたその時、頭上から「ねぇ」と声が掛かって、僕は雑誌の中の人が目の前にいることを思い出すやいなや、我に返ったかのように咄嗟に手を引いて頭を上げる。すると、視線の先では相も変わらず表情の読めない楠木さんの姿がそこにはあった。
「それで? 感想は?」
僕の様子が変わったことに気付いているのか、いないのか。
そんな些細な反応の一つも見せない彼女に対して、人間観察に長けているわけでもない僕が見抜くことができるのは、彼女の瞳に俄かに期待が浮かんでいることくらいのものだった。
「えっと、す、すごかったよ」
「何が、どう、凄かったの」
「え……いや、何がすごいかと言われると……」
「は? 何、適当に言ったの?」
「いや、適当に言ったつもりは無いよ。本当に、凄いと思ったからで……」
「それじゃあ、どこかどう凄かったのか、あんたの言葉でまとめて言ってみてよ」
「それは……ほら、ここに書いてある通り、大人っぽくて、だけどちょっぴりふんわりガーリーで決めて──」
「……本気で言ってる?」
「うっ……。わ、分かったから、ちょっとだけ、時間を、下さい」
「はぁ、一分だけね。ちゃんとあんたの言葉で感想を言って」
妙なこだわりを見せる楠木さんに対して、僕は頭を悩ませる。
まさか僕なんかの言葉で感想を求められるなんて思ってもみなかったから。
その場を乗り切ろうと雑誌の彼女の欄に書かれた編集者のコメントをそっくりそのまま口に出したら余計な怒りを買ってしまったため、次は間違えられない。
だが、こんな僕に無限にもあるような美を称える言葉を彼女の意に添うように適切に配置して述べることなどできそうもない。
楠木さんは、モデルとしてもらえて当たり前の誉め言葉なんてのは聞き飽きているだろうし、そもそもそんなありきたりな言葉を並べたところで彼女の意に沿えるとは到底思えなかった。
では、彼女は一体どんな賞賛を待ち受けているのかと考えてみても、付き合いも浅い上に彼女が何を考えているかも読み取れない以上、僕が彼女の期待に応えることはまず不可能かに思えた。
であるならば、ここはもう開き直って、彼女の要望通りに僕の陳腐でありきたりな誉め言葉をぶつけてやる他無い。しがない男子高校生でしかない僕程度の語彙では、本の帯コメントのような美辞麗句を紡ぐことも叶わなければ、たった一言で様々な思いや物語を想起させるスローガンなんてものは思い付かない。例え楠木さんの期待にそぐわなくとも、彼女が要望した僕自身の言葉で、楠木さんを称える言葉を引きずり出そうではないか、と頭の中の語彙の棚をひっくり返す。
「──ほら、一分経過したわ。早く、感想を言ってちょうだい」
補習課題を広げてはいるものの、自分が提示した一分を数えている間は待ち切れない様子で一切補習課題に手を付けることはなく、スマホのタイマーの一音が鳴り響く間もなくタイマーを切った楠木さんは、僕の感想を催促する。
どんなに催促されたって君が望むような答えは言えないと思うけど、なんて口に出せない言い訳を心の中で零した後、僕は散らかった頭の中を整理するようにおずおずと話し始めた。
「っ。えぇっと、まず……綺麗だ。これ以外に表現する言葉は見つからないくらい、写真の中の楠木さんは、綺麗だと思う。同い年に思えないくらい大人っぽくて、他のモデルさんは年上なんでしょ? 負けてないくらい、綺麗で……かっこいい。……そう、かっこいいんだ」
「! ふーん、それで?」
「それから……楠木さんは、やっぱりとても可愛いと思う。さっきは大人っぽいって言ったけど、他のモデルさんにはない、幼さ、って言うのかな。悪い意味じゃなくて、それがアクセントというか、楠木さんにしか出せない魅力というか。それがほんのり感じられるみたいで、この写真の楠木さんは……とても、可愛い、です。でも、それはふわふわした柔らかさみたいなものじゃなくて、ちゃんと芯のある強さ、みたいなのも感じられて……。そこが、きっと君を可愛いだけじゃなくて、綺麗に見せているんだと、思う。……いや、僕はそこが、綺麗だと思ったんだけど……どう、かな?」
気が付けば、誉め言葉を放つ側の僕も聞く側の楠木さんも、二人して背筋がピンと伸ばされて向かい合っていた。その光景というのはきっと第三者から見ればおかしなものなのかもしれないが、生憎とこの部室には僕と楠木さんの二人以外に存在していない以上、僕達を笑う者はいない。
僕の言葉が切れた後、楠木さんはしばらくの間沈黙し、一つ、二つと溜め息を吐いた後にようやく口を開いた。
「……誉め言葉としては、ありきたりな言葉ね」
「うぅ、ごめん」
「謝る必要なんてないでしょ。むしろ、褒めているんだから」
「え……?」
「私は、時代がいくら移り変わっても不変な意味を持つそのありきたりな言葉が大好きだもの。そう言ってもらえて、その言葉を送るに相応しいと感じてくれたことが……私は何よりも嬉しいわ」
「っ……!」
嬉しい。そう言って笑って見せた彼女の微笑みは、明らかに僕の胸を高鳴らせた。
この胸の高鳴りは一体何なのか、と考える間もなく、彼女は笑みを消して僕の感想への品評へと移行していくのだった。
「まぁ、私のような美しい存在を目の当たりにした感想としては、及第点ってところね。ママ以外から貰う感想なんて初めてで私も緊張してたけど、これはこれで悪くないわね」
「……もしかしなくても、僕は君の自己肯定感をアゲるために感想を言わされたの?」
「そうに決まってるでしょ。むしろそれ以外の理由がある?」
「ない、ですけど……」
「それじゃあ、次もよろしく頼むわね」
「えッ!? 次も、って……?」
「次は次に決まってるでしょ? 私が載ることが決まったら教えてあげるから。ちゃんと買ってきなさいよ」
「な、何て横暴な。これが噂に聞く押し売りってやつか……!」
「昨日の今日で買ってきたあんたならどうせ買ってくるでしょ。人聞きの悪いこと言わないでよね。次はもう少しグレードの良い感想を用意してきてちょうだい。あ、それと、今日みたいなトラブルはやめてよね。折角のお昼がこんな埃っぽい所で食べる羽目になっちゃったじゃない」
「ここで食べたんだ」
その後、彼女は大きめの付箋を取り出して僕の言った感想をサササっと一言一句漏らさずにまとめたかと思うと、自分のページ貼り付けて部室の棚に置くという僕にとっての辱めの行為をいとも容易く行って見せる。
その行為に対して僕が分かりやすく嫌な顔をすると、楠木さんは「嫌がらせ」と短く言った後に何も無かったかのように課題に取り掛かり始める。彼女は再び感情の伺えない冷徹さを思わせる表情に戻ってしまったように見えたが、その裏ではきっと悪魔のような笑いを浮かべているに違いない、と分かるようになったのは果たして、良いことなのか、悪いことなのか。
たった数日、同じ時間を過ごしただけだというのにすっかり恒例となった放課後の補習課題の時間。
一週間が経過した、ともなれば課題の中身も大分進んできており、この日、僕と楠木さんは出されていた数学の補習課題を無事に終わらせるに至ったのであった。
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