47
引け目。
「それじゃあ、行ってくるから」
「うん。行ってらっしゃい」
「……もう一回言って」
「え、何を?」
「今の。もう一回」
「い、行ってらっしゃい……?」
「応援もして」
「が、頑張って……?」
「繋げて言って」
「~~っ。楠木さんなら、大丈夫! 頑張って! 待ってるから! 行ってらっしゃい!」
十月の末。
今日は楠木さんの推薦試験当日。
僕は楠木さんたっての要望で、彼女が受験する梅ヶ峰女子総合大学のキャンパス前にまで彼女を見送りにやって来ていた。
そのキャンパス前で、続々と受験会場に足を運んで行く同年代の受験者たちを横目に、楠木さんは僕の手を取って固く握り締めていた。
楠木さんも、普通の人間。
どれだけ強がって見せたとしても、自分の人生が大きくかかった舞台で緊張しないはずもなく、掴んだ彼女の手からは微かな震えが伝わってくる。
まるで緊張が伝播するみたいにして、僕が試験を受けるわけでもないのに緊張しそうになる中、これから大一番に臨む彼女の不安を取り除くのが僕の役目だ、とばかりに強がりながら緊張をひた隠してエールを送ると、楠木さんからは次から次へと注文が出てくる。
それでも、楠木さんのために僕が出来ることなら何でもしてあげたい。
意を決して彼女の目を見つめると、いつになく弱々しい目付きが、僕に覚悟を決めさせる。増えてきた周りの目線が気になるなんて言ってられない。
そう思って一思いにエールを送ると、楠木さんの目はたちまち光を取り戻したかのように輝きを放つのだった。
「行ってきます」
最後にそう言ってきゅっと僕の手を強く握ったかと思うと、楠木さんはその身を翻して戦いの舞台へと威風堂々と歩みを進めて行く。
その背を、僕は僕の手に残る彼女の熱が、秋めいて来た風によって冷たくなるまで見つめていた。
「……おかえりぃ。なんだか新婚さんみたいだったねぇ」
「何言ってるの」
「終わるの何時だっけ?」
「十四時、って言ってた」
「そっかぁ。……まだ連絡先交換してないの?」
「それは……」
「不便じゃないの?」
「不便、だけど……なんか、今更って感じになっちゃって」
「私が教えてあげようか?」
「ひめ姉は何もしないで。これは、僕の問題だから」
「あら~。ゆーちゃん反抗期かしら~?」
「そんなんじゃ、ないよ……」
車に戻ると、僕と楠木さんの一部始終を目撃していたひめ姉に冷やかしの言を投げかけられる。
ひめ姉は昨日の晩、僕の口から明日は楠木さんを見送りに行く、と聞くと、せっかくの休みなのに「私が車を出す」と言って聞かずに朝から車を出してくれた。
本来なら普通に楠木さんと二人で電車で向かう予定であり、そこまで言うならと断る意味も無かったため感謝の言葉と共に頼み込むとひめ姉伝いに楠木さんにも連絡が行き、朝は二人で後ろの席に座って大学までやって来ていた。
今年の夏もようやく終わりを迎え、未だに暑さに慣れた体では急激な温度の変化に対応できないからか、秋の訪れとともに一気にガクッと下がった気温に対応できない僕とひめ姉は車の中でぬくぬくと過ごす。
楠木さん以外にも他の受験生も親に車で送迎されている人は少なくない。そのためにキャンパス内の駐車場を解放しているらしく、都内の大学にしてはかなりの敷地面積を有しているのが分かる。
楠木さんと一緒にオープンキャンパスに行った寛永大よりも遥かに広くて大きいのは、総合大学がゆえか。
「懐かしいなぁ、梅女」
「変わってる?」
「卒業したの五年も前なんだよ? そりゃあ全然違うに決まって……いや、全然変わってないや」
「ひめ姉はどの学部だったの?」
「私は経済学部だったよ。お姉ちゃん、こう見えても主席だったんだから」
「知ってるよ。父さんが褒めてたから」
両親が離婚する前から、ひめ姉は出来の良いお姉ちゃんだった。
僕とは比べ物にならないくらい頭もよくて、要領もよかったひめ姉が両親から、学校の先生から、友達から、果てには近所の人にまで。周囲のあらゆる人達から褒められているのを、僕は見ているばかりだった。
何かと比較されることが多かった僕とひめ姉。不器用な僕とひめ姉とでは比べるまでもないような結果が続いて、出来の良さではどうやっても勝てっこないひめ姉とは違う、と言われてきた幼少時代。
それでも、僕にとってひめ姉は自慢できる存在であり、「お姉さんとは違うんだね」と言われることはひめ姉が褒められていると勘違いして喜んでいたのを覚えている。
中でも母さんの態度は実に顕著であり、僕が母さんに期待されていなかったことに気付いたのは、両親が別れた後のことだった。
それが愛されていないことに繋がるのかどうかは分からないし、分からないままでいいと思っているのだが、ひめ姉はそうではない様子。
滅多に人のことを褒めたりしないどころか、家族としての会話もほとんどしない父さんがひめ姉のことを褒めていたことを口にすると、ひめ姉の楽しそうな表情が一瞬にして曇っていく。
「……ゆーちゃん。あの話、答えは出せそう?」
「一緒に暮らす、って話? まだ、だけど」
「そっか。……ゆーちゃんには受験があるし、そっちに集中してもらいたいって言うのは本音。だけど、出来ることなら、私は一刻も早くゆーちゃんと一緒に暮らしたいと思ってる。……ゆーちゃんがいつ答えを出しても良いように引っ越しの準備だって出来てる。ね、ゆーちゃん。今からでも遅くないから、私達と一緒に暮らそう? そっちの方が、きっと──」
助手席に座った僕に向かって身を乗り出してくるひめ姉は、矢継ぎ早に言葉を紡いで迫り来る。
いつだって僕達のような高校生とは違って大人の余裕を身に付けていたひめ姉とは打って変わって、その様子は切羽詰まったような、不安が先行した様子を見せる。
表情に影が差したひめ姉を見るのは片手で数えられる程しかないが、それでも僕が勝手にひめ姉には笑顔で居てほしいと願っているからか、僕の手は自然とひめ姉の涙を拭っていた。
「泣かないでよ。ひめ姉が僕を想って行動してくれてるのは分かってる。分かってるから、ちゃんと考えて、ちゃんと答えを出したいんだ。後悔、しないためにも」
「ゆーちゃん……。うん、ごめんね。ちょっと、焦っちゃったみたい」
「化粧、崩れちゃった?」
「送り迎えだけだからすっぴんのままですー。デリカシーのないことを言った罰として、ハグハグの刑に処します。えいっ。……陽葵ちゃんにはそういうこと言っちゃ駄目だからね?」
「うっ……。言っちゃうかも。気を付けます」
「ゆーちゃんには女心はまだ早かったか……。でも、もう少しだけハグさせて?」
ひめ姉は時折、こうして弱々しくなる。
基本的には正紀さんに癒してもらっているらしいが、今回は僕が口を滑らせたことが原因である以上、受け入れるしかないだろう。
楠木さんと違って、細身ではあるがしっかりとした肉付きのあるひめ姉の小さな体は、僕にとってみればとても大きな存在だった。
青春を全て擲って、僕をこれまで育ててくれた人。
両親から置き去りにされて、本来であれば愛と言うものを知らずに育っていくはずのところを、僕が愛されているという実感を知ることが出来たのは、間違いなくひめ姉が居てくれたからだ。
だからひめ姉には、僕と言う縛りから解放されて幸せになって欲しいというのが僕の一番の願い。
けれども、肝心のひめ姉が思い浮かべる幸せの像に僕の姿があるのなら、このままひめ姉と正紀さんにお世話になるのも吝かではないと考えるもう一人の僕が囁いてくるのだが、それはきっと、正しくない。
そう、二人の提案に僕が悩んでいるのは、それが本当に正しいのか疑問が浮かんできているからだった。
かと言ってひめ姉たちの提案が間違っていると言いたいわけでも無くて。
正紀さんが何を考えているかまでは分からずとも、ひめ姉が何を思ってこの提案をしてくれたのかくらいは分かる。ひめ姉が親身になってくれた分だけ、僕もひめ姉と向き合う機会が、時間があったということなのだから。
僕の数少ない誇れる経験則から考えるに、ひめ姉が僕を誘う最たる理由として挙げられるのは、ひめ姉が抱く僕への引け目と言ったところだろう。
引け目と言えば、僕がひめ姉に抱く【青春を奪った】という心的複合体。
それと酷似した感情を、ひめ姉が抱いているからに違いない。
僕がひめ姉に引け目を感じているのと同時に、ひめ姉もまた、僕に少なくない引け目を感じているのを僕は知っている。
何せ、解放感漂うビーチのど真ん中で、話を聞いた途端にその雰囲気にも負けないくらいの閉塞感に包まれた日から二ヶ月半が過ぎたにもかかわらず未だに答えを出せていない僕は、その間ずっと考え続けていたから。
受験勉強に比重を置きながらも、毎日毎日ひめ姉と正紀さんから提案された「一緒に暮らそう」という話について考える時間を設けた。
それでも答えは出ずとも、思考の海を漂った末に見つけ出した答えに辿り着く為のヒントがひめ姉は僕に対して引け目を感じているのでは、という推測。
そもそも、ひめ姉は僕に対しての執着が人一倍強い。
血が繋がっているとは言え、離れて暮らす弟のために自らの青春を擲ってでも片道一時間強かかるような場所まで通い続けるだろうか。
ひめ姉がいくら責任感が強いといっても、それは人並みであったはず。一緒に暮らしていたときの記憶を思い出してみれば、諦めるべきものであれば損切りの観点で切り捨てることが出来る人間だったはず。
だが、結果的に僕は切り捨てられなかった。そこに何かしらのヒントが隠されているのではないかと記憶を漁り、ひめ姉の立場になって考えたのだ。
そうして辿り着いたひめ姉の引け目というのが、【私が一人にさせてしまった】という両親の離婚に纏わる問題だと僕は推測した。
ひめ姉は両親の離婚の原因が自分のせいだと思っているのかもしれない。そう考えると、色々と辻褄が合うというか。
直接の原因は父さんの家庭を顧みない姿勢、というのは僕が寝た後で開かれた最初で最後の涼村家の家族会議に聞き耳を立てたことで知っている。だけれども、そこで出た結論全てを額面通りに受け取ったのは僕だけで、その場に居たひめ姉や父さんと母さんは、それぞれ異なる答えを得ていたとしたらどうだろうか。結局、人と人との繋がりは口にしなきゃ何も伝わらない。だが、誰も彼もが楠木さんのように自分の思っていることを吐き出せる程、強くなんかない。ましてや、その場の空気に呑まれて押し黙ることしか出来なくなるなんてのは、良くあることだ。とりわけ、父さんは口下手だし、母さんは頑固だ。一度答えの出た問題をもう一度掘り返すことができる人は、その場には居なかった。
それに加えて、母さんの日頃の態度だ。記憶を振り返ってみれば、離婚直前の頃はまともに僕を見ようとなんてしていなかった。もしかしたら家族会議が始まる前に、既に父さんと母さんの間ではどっちがどっちの親権を持つか決まっていたのかもしれない。そうなると、当然の帰結で、家庭を崩壊に導いた憎むべき父さんと同じ男である僕が、ただでさえ出来の悪い僕が母さんに選ばれるはずもなかった。
その結果、僕は父さんに引き取られ、半ば放置された末に栄養失調で倒れていた時に、ひめ姉が助けてくれた。それが余計に、ひめ姉の罪悪感を刺激してしまったのだろう。恐らくはそれを発端に、ひめ姉の中で僕という存在は『守らなければならない』、『放っておけば壊れてしまう』という認識にまで飛躍してしまったのかもしれない。事実、ひめ姉が駆け付けてくれていなければ、二日後に父さんが帰ってくるまで僕は倒れたままだっただろう。ひめ姉がそう感じるのは決して間違いでなかった。
それからひめ姉は、母さんの忠告も無視して僕の世話を焼いた。母さんはひめ姉がこうなることを危惧していたのかもしれないが、母さんの制止の声はひめ姉に余計な反発しか与えなかったのだろう。だからこんな、強硬手段に出たのかもしれない。
こればかりは自惚れではなく確信を持って言える。
何よりも僕を、涼村結月を優先して考えるひめ姉であれば、受験までのカウントダウンが始まって、それも最も大事な期間とも言える夏休みに、こんな大事な話をするとは思えない。
当初より進めていた結婚式、披露宴が今年の年末に決定したのは、母さんから何か言われたのかもしれない。
僕にとっては母さんにはあまりいい思い出は無いものの、ひめ姉からすれば母さんは自分を引き取って面倒を見てくれた大事な親である。だからきっと、母さんの言葉を無碍には出来なかったのだろう。
そして、だからこそ一つの節目を利用してひめ姉は僕を自分の傍に置こうとしているのかと思い至った。
ひめ姉のことだから、楠木さんも利用する算段だと思っている。それは決して悪い意味ではなく、僕がこの話を相談するなら楠木さんであると想定して、彼女の性格なら一緒に暮らす方を勧めてくれるのではないかと考えたのだろう。だからこそ僕は一人で答えを出すと決めたのだった。
全ては僕の憶測であって、全ての真相はひめ姉の頭の中にしかないにせよ、僕はこの考えはあながち間違っていないという自負があった。
それこそ血の繋がった姉弟だからこそ分かる──なんて言えれば格好がついたのだろうが、最も身近なひめ姉のことだからこそ分かったまでで、その憶測の答えに辿り着くまでに既に約二か月半もかかっているのであった。
「朝ごはん食べてないからお腹空いたね。この辺には大学の頃に通ってた美味しいお店があるんだよ。まだあるか分からないけどね」
「行ってみようよ」
答えは急がないと口では言いつつ、実際はひめ姉の中では答えは決まっているのだとすれば、僕はどうするべきなのか。
憶測で導き出したとはいえ、僕の取るべき答えとは大きくかけ離れているように思えて、僕は未だに正しい答えには辿り着いていなかった。言わばその憶測は、迷子になった森の中で見つけた、一軒の森小屋程度の存在。休憩するには事足りるが、この深い森を抜けるにはまだ何かが足りないように思えていた。
この流れに身を任せるべき。
そう訴える自分が居るのも、また事実。
だが、本当にそれが正しいのかと、いつまでもひめ姉に頼ってばかりいて、果たしてそれでいいのか、と声を上げる僕がそれを引き留める。
そうやって思えるようになったのも、受験という自己を見つめる機会が得られたことに加え、楠木さんと出会ったからなのは言うまでもないだろう。
太陽のように燦然と輝き、延々と続く夜空に満月として君臨する彼女は僕の憧れであり、僕に変革をもたらしてくれた恩人でもある。
そんな楠木さんが、僕には価値があると言ってくれたんだ。ならば、これまで価値のなかった自分に別れを告げるべきなのではないか。そう考えるようになりつつあった。
しかし、かと言って明確なビジョンがある訳でもなく。
「……目一杯、考えないとだ」
「ん? ゆーちゃん何か言った?」
「なんでもない。どれがオススメなの?」
「んーっとね……」
だけれども幸いにも、時間はまだある。
それまでに僕は受験勉強と並行して答えを出さなければならない。
尋常ならざる重荷のように感じられるが、こればかりは一人で答えを出すべきだと確信している。
この問題は、僕が一人で解決すべきもの。僕の人生における、乗り越えるべき分水嶺。
「……陽葵ちゃんのこと、明るい顔でお迎えするんだよ? って、暗い顔させてる張本人が言うことじゃないか」
「気付いてたの?」
「お姉ちゃん舐めんなぁ? ……でも、悩むってことはそう言うことだもんね。本当にごめんね、大事な時期に」
「ううん。いつまでも後回しにされるたり勝手に決められるより、こうして迫られた方が、嬉しいよ。ひめ姉は、いつもそうやって、どっちがいいかって僕の意見を尊重してくれてたもんね」
「ゆーちゃん……」
「ちゃんと考えて、ちゃんと悩んで、ちゃんと答えを出すから。だから、待っててほしい」
「……うん、待ってる。でも、陽葵ちゃんのこともほうっておいちゃ駄目だからね? 勝手に諦めるなんて、お姉ちゃんが許しません。思いは口にしないと伝わらないからね。本当、その通りだよ」
「ぅぐ。でも、楠木さんは……」
「まぁ、恋愛は告白してからが勝負だからね。どっちが先にワンアクション起こすか、楽しみにしてる。私は口も手も出さないからさ」
「……うん。そっちも、ちゃんと考えるから」
ひめ姉には隠し事の一つも出来ないや、なんて思いながら食事をして、キャンパスの周辺を散策した後、僕は推薦試験終わりの楠木さんを迎えた。
帰り道で楠木さんは、試験が余程疲れたのかもたれかかる形で寝入ってしまい、僕も受験当日はこうなるのか、なんて想像して一人で勝手に震え上がるのだった。
結局、この日は悩み事が一つ解消されるどころかむしろ一つ増えて、更には元よりあった受験への不安が更に増して終わった。
キャンパスから戻ってくる楠木さんを迎えに行くと、不安そうな顔付きが晴れやかに変わっていくのが見えたのだが、それは試験が上手く進んだからに違いないだろう。ひめ姉に語っていた試験の感じも終始明るい報告であったし、きっとそうだ。自惚れてなんか、ない。
そうして今日一日で増えた僕の悩みはきっと卒業するまで続くのかもしれない、なんて考えながら、来た時と同じように後部座席に並んで座って、ひめ姉の運転で帰路につく。
肉体的ではなく、受験という精神的負荷によって疲労を覚えたからか、車が動き出してからは楠木さんはすぐに寝息を立て始めた。そしてそのまま右半身にもたれかかってきた楠木さんの重みと熱を感じながら、僕の太腿に置かれた彼女の手にそっと自分の手を重ねるのだった。
「……お疲れ様」
評価と感想下さい。




