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拗らせた好意。
「いよいよ今週末だね」
「緊張しすぎてお腹痛い」
「大丈夫……?」
「背中擦って」
「え、えぇ……?」
夏休みが明けたかと思えば、瞬く間に九月は過ぎ去って十月も下旬に差し掛かっていた。
二学期最初の中間テストも、受験勉強に死に物狂いな生徒からすれば邪魔でしかなく、多くの生徒が受験勉強に割合を多く割いていたため、全体的なテストの結果は下降気味で、そのお陰か僕も楠木さんも赤点は免れた。というかそれ以上に、楠木さんはテスト順位において過去最高の成績を収めており、志望校に送る直近の成績がこれなら申し分ない、と宮野先生からお墨付きを貰えたほどだ。
ちなみに、僕のテスト結果は順位を10位下げる結果で、可もなく不可もなくといったところだ。
今はそれ以上に受験勉強に必死で、志望校が定まった以上模試にも積極的に受けていかなければならない。つい最近に受けた模試結果で『B判定』を得られたのでそこまで切羽詰まってはいないが、それでもまだまだ安心できないのが受験戦争なのであった。
そんな中で間もなく迎える楠木さんの推薦受験の日。
その日が近付くにつれて彼女の顔色が悪くなっていくのは目も当てられず、遂に試験まであと一週間を切った月曜日。楠木さんはうんうん、と唸って部室で机に伏せていた。
いつだって強い女性を地で行くような楠木さんが珍しく弱っている姿を見せているのを目の当たりにして、僕は大きな心配の陰に隠れた独占欲が顔を出さないように抑えつける。しかし、弱っている楠木さんの姿を目の前にした愉悦だけは、隠し切れずに彼女から指摘を食らうのだった。
「何笑ってるの」
「わ、笑ってないよ……? ただ、楠木さんでも緊張するんだな、って」
「するに決まってるでしょ。人間なんだから。むしろ、私は緊張しやすい方なの。そのせいで顔が強張っちゃうし……。って、そんなことはどうでも良いの。あんたが笑っていられるのも今だけなんだから。そう遠くないうちにあんたもこの緊張を味わうんだからね」
「うっ、そう言われると一気に笑えなくなってきたよ……。これくらいでいい?」
「やっぱり笑ってたんじゃない。……もっと優しくして」
「あはは……。このくらい?」
「そのまま」
言われるがままに楠木さんの隣に椅子を持ってきて、彼女の細い体に手を伸ばす。
男の僕の体とは違う、薄くて、細くて、柔らかな女性の体。制服越しとは言え、彼女の体の熱を直に感じられるその距離感は、考えないようにしている下心を持った卑しい僕が鎌首をもたげるかのように顔を出す。
必至でそれに蓋をした後、心の中で必死になって般若心経を唱える僕は人の目で見れば滑稽に映ることだろう。
仏説・魔訶般若波羅蜜多心経──。
そうすることで心を無に、己を無にすることで楠木さんに触れる手指の感覚を失して、僕の四肢の先端は宇宙と繋がるのであった。
「……ねぇ」
「はいッ!?」
「そのまま、聞いて」
「はい……」
じんわりと熱を持ち始めた掌を意識しないよう留めて、囁くように言葉を紡ぐ楠木さんの声に僕は耳を傾ける。
楠木さんは顔を反対側に向けてうつ伏せになっているから彼女が今どんな顔をしているのかは分からないが、それでも僕のこの真っ赤に染まっているであろう顔を見られずに済んでいるのは僥倖と言えるだろう。
こんなに熱くなって汗までかいているのはきっと、十月の終盤にも関わらずでしゃばっている残暑のせいに違いないと思い込むことで、僕は必死になって下心を抑え込む。
「もし、合格したら、さ」
「……はい」
「文化祭、一緒に、回ってくれる」
どこか懐かしさすら感じる、楠木さんの片言の誘い文句に、僕は思わず彼女にバレないよう小さく笑みをこぼすと同時に、その言葉の意味を理解して瞠目するのだった。
文化祭。
この学校の文化祭は毎年、十一月の後半に開催される。
世間の文化祭期間からかなり遅れての開催になるのだが、それには三年生の指定校推薦の時期と被らせないようにするための配慮でもあった。
一月中旬にある大学受験本番を控える生徒はまだ多く残っているが、その頃には進学先も決定して文化祭に集中できる三年生が出始めるお陰で、卒業生としての思い出作りがここでも出来るようになっていた。
三年生は強制参加ではないため、露店や出し物と言った準備が無い。
代わりに、一年生と二年生が露店や出し物には力を入れる。それから各部活動の活動発表会のような催しが並べられるため、三年生が居ないからと言って文化祭の盛り上がりが欠ける、というようなことはない。二日目の一般参加の日には生徒の家族や友人、近隣の住民まで足を運ぶくらい大盛況になるなど、受験に縛られない一、二年生にとっては一番の目玉のイベントでもあった。
僕達のクラスは去年、衣装から大道具、小道具に至るまで手作りをした舞台演劇を取り行ったのだが、二か月近く準備に費やしたお陰か、クオリティはかなりのものだった。
ちなみに僕は看板をぶら下げて校舎中をうろつく広告塔の役目を担っていたのだが、偶然にも楠木さんも同じ役割を担当ていたため、視線の大半を楠木さんに掻っ攫われてただただ練り歩いただけ、という寂しい記憶がある。お陰で広告の役割を担っていたくせに一言もしゃべらずに終わったのはなんだか虚しかった。
そんな中で受験を終えた三年生がやる事といえば一般参加の人たちのように下級生たちの出し物や露店、部活動の活動報告を見て回るくらいのものだが、プログラムの中には飛び入り参加や事前に参加を打診されたりすることもあるため、決して何もすることが無い、という訳ではなかった。
実際に僕達の演劇にも三年生が飛び入り参加したらしいのだが、僕はそれを見ていないため詳しくは分からない。
「……え?」
そんな文化祭を、楠木さんが一緒に回ろう、と言うのだ。
僕の頭は一瞬彼女の言葉の理解に時間を取られてしまったものの、それでも尚聞き間違いではないことだけが理解出来てしまったがゆえに、僕は困惑そのものを吐き出すみたいに言葉を口にしていた。
それが彼女の不安を煽ってしまったのだろう。楠木さんに触れた手から、彼女の早鐘を打つ鼓動が感じ取られて、却って弱々しい声が聞こえてきてしまう。
「や、っぱり、なんでもな──」
「い、行くっ! うん、行くよ。文化祭……」
「いいの?」
「うん。少しくらいなら、息を抜いても罰は当たらないと思うし」
「そうね。うん、そうかもね。それじゃあ、約束だから」
「約束だね。今年はどんなのがあるんだろうね?」
「去年のも、その前のも覚えてない」
「僕も。部活の発表原稿書いたくらいしか覚えてないや。でも、見に来た人は確か、四人だった気がする。二日間で」
「何それ。それは、廃部になるわね」
「本当だよ。先輩たち、頑張ってたんだけどね」
「他には、先生達が何かやってたような気がするわ」
「そうなんだ。それも見に行きたいね」
「楽しみね……。もうちょっと、擦ってて」
一緒に回ることは決まったけれども肝心な中身までは何一つとして定まらないのは、僕達が持ち寄る情報量の少なさのせいだろう。
それでも「約束がある」という未来への光明は、僕に受験への更なる奮起と、楠木さんにはささやかなリラックスを与えてくれる。
驚きの余り手を止めていた彼女の背中を擦る手を再開させると、強張っていた体がゆっくりと弛緩していくような感覚が指先から伝わってくる。
彼女の体が強張っていた理由も、受験に対する緊張だけではないことを僕の手指の先端は知っている。この可愛らしい子供のようなおねだりも、楠木さんにとってみれば勇気を振り絞った提案だったのかもしれない。僕だって、もしも彼女を誘うことがあれば緊張して目も見れないかもしれない。
断られたらどうしよう、とか。相手の重荷になったらどうしよう、とか。
そんなことを考えると言葉が出なくなるのだ。相手がそんなことを考えていないとしても。
だから僕は楠木さんの感じていた思いが痛い程よく分かるし、それが快諾されたときの喜びも非常によく分かる。
「……」
それから間もなくして、楠木さんは静かに寝息を立て始めたため、僕は自分のブレザーの彼女の肩に掛ける。
十一月も間際となると陽が沈むのが早くなって、日が暮れると少しだけ肌寒く感じるようになる。受験を目前にして風邪でも引かれたら困るため暖房の無い部室で寝るのは控えて欲しいものだが、それでもようやくリラックスできた楠木さんを無理に起こすことなど出来るはずもなく、僕は離れた場所で受験勉強に精を出す。
「…………違うに、決まってるよな」
しかし、僕の頭にはふとした疑問が生じるせいで、上手いこと勉強に集中することができない。
その原因こそが、今しがた自分の中で答えを出した結論。
彼女の勇気を振り絞った行動に関しての、疑問。
楠木さんの気持ちが良く分かるということは、もしかすれば楠木さんも僕と同じ気持ちなのかと発想が飛躍しかけるお陰で、僕は必死になってその思考を振り払うので精一杯という状況に追いやられてしまう。
「自惚れんなぁ……」
頭を抱える心の中では、相反する感情同士がぶつかり合って、それ以外も巻き込んだ渦を生み出す。
僕が楠木さんに抱く感情、それは憧憬。
そこから蜘蛛の巣状に伸びて派生する感情が楠木さんも僕に対して抱いているなどという感情と、そんな考えは不遜であると思考する一瞬すらも与えずに切って捨てる感情の二つがぶつかり合う。
楠木さんが僕に憧れる?
それこそ、寝言のように誰にも気付かれないような空想の類。
僕のようなつまらない人間と比べることすら烏滸がましいくらい、格が違う。
楠木さんが僕を誘ってくれるのも、部室で一緒に過ごしてくれているのも、全ては奇跡に近い事象。
それ以上を望むだなんて、それこそ罰が当たるというものだ。
あれから、僕は自分の価値観を見直すようになった。
僕には楠木さんやひめ姉が認めてくれた価値がある。僕一人では見つけ出せなくても、二人が教えてくれた価値を信じて、少しだけ自分を認めてあげられるようになった。
それでも、僕は僕自身の身の丈というものを知っていて、僕と楠木さんとではどう考えても釣り合いが取れるはずがないというのが現実。
それはもちろん、ここまで距離が近くなった異性というのは楠木さんが人生で初めてであり、あわよくば……なんて考えたことは一度や二度じゃない。僕だって男だ。楠木さんのような月すら霞むような存在に近付けるチャンスがあるのなら、そんな期待をするなという方が無理な話。
だがそれも、考えていたのは初めの方だけだった。
楠木さんの生来からの生真面目さ。身を守る自己防衛のための刺々しさなど、彼女と触れ合う度に知っていく内面を知れば知るほど、彼女に惹かれていった。
いつの日からか僕の胸に宿った感情。
整理をつけると言ったまま放置され続けても尚、変わることが無いどころか、時を経るごとに、正確には楠木さんのことを一つ知る度に大きくなる感情に、僕はようやく目を向けることが出来るようになった。
本当なら僕自身の立場や愚かさを考慮して折り合いをつけるべきなのだろうが、これに関しては見て見ぬ振りのような真似はしたくなかった。無かったことになんて、したくなかった。
生まれて初めて、こんなにも大切な思いがあると、知った。
隠す必要が無いのであれば、いくらでも言える。
──僕は、楠木さんが好きだ。大好きだ。
楠木さんが笑った顔も、怒った顔も、不貞腐れた顔も、悪戯が成功した時の顔も全て。
彼女の面倒くさいところも、嫌な所も全部含めて、全部が大好きだと言える。
夏休みの前に衝突して、それでも彼女と同じ時を過ごしたいと思えたのは、つまりはそう言うことなんだとようやく自覚することが出来た。
彼女がただ寂しがり屋であることを知っていく内に、僕は彼女の傍で支えてあげたいと思うようになっていた。
これが恋や愛で無ければ、僕はそれを何というのかを知らない。
この気持ちの名称を、この気持ちの求め方を、僕はその二つの言葉でしか知らなかった。
だがしかし、それは男女の関係でなくとも友人関係でも同じことが出来る。
でも、好きだからこそ、この好意は一生胸に秘めたままでなければならなかった。
何せ、楠木さんと僕とでは、月とスッポン。
言うまでもないが、僕がスッポンの方だ。
どれだけ恋焦がれて首を伸ばしたとしても、僕はただみすぼらしくなるだけで、月の輝きは不変ものだし、月の方から僕に近付いてはくれない。
ならば、変に高望みなんてしないで今の関係のまま、卒業という僕達が分かたれる日が来るまで一緒に居られればそれでいいと思うようになっていた。
なんて、都合よく色好い言葉を並べてみたものの、結局は手の届かない高嶺の花に手を伸ばすのを諦めるための言い訳をむざむざと並べたのに過ぎない。
ここで自分が変わることを決意できたら、どれだけ楽だっただろうか。
この思いを無駄にすることなく、彼女と向き合えるようになれたら、どれだけ幸せなことか。
だけれども僕は、目に見えていたはずの分かれ道の看板から目を逸らした。目を逸らして諦めたと言いながら、僕は彼女の傍に居るための言い訳として、友達であろうとした。
そんな卑怯で卑屈な人間が、僕という存在。
楠木さんとひめ姉には打ち明けられない、僕の心の奥にいる本当の自分。
それこそが、僕が僕自身を評価できない本当の理由であり、二人に打ち明ける日など来ないまま墓まで持っていくつもりのものだった。
「……勉強に、集中しよう」
僕は、最低だ。
自分が楠木さんとは釣り合わないことを分かっていて、彼女の傍は分不相応だと分かっているのに、まだその席にみっともなくしがみついている。
そして今も、その現実から目を逸らすために受験を言い訳に使って逃げている。
だがしかし、それが全て悪いことだとは思っていない。
楠木さんの友達で居続けるためには、自分の好意に蓋をすることだって厭わない。
それが『楠木陽葵の友達である涼村結月』に必要だというのなら、尚の事。
僕は僕自身を評価するために、楠木さんが認めてくれた価値を証明するためにその道を進む。それが例え、正しい道から外れていようとも。
「この気持ちだけは、胸に秘めておかないと……」
下唇を噛んだ後、小さく二つ、頬を叩いてそう呟く。
そうして切り替えた頭で、僕は最終下校の鐘が鳴るまで勉強に精を出すのであった。
「…………バカ」




