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超ド級のマゾ。


 試験明けにちょっとしたトラブルを挟んでからの、夏休み。

 僕は受験生として臨む夏だというのにもかかわらず、怠惰に、ただひたすらに惰性でうだうだと過ごした結果、あっという間に八月に突入してしまっていた。


 試験休みも含めれば七月の中旬から始まった夏休みも、気が付けば半分以上が消え去った後。

 果たすべき目標も無ければ気力もない、虚無な夏休みを過ごしているうちに、時間だけが過ぎていく始末。

 世間はこれから、お盆の時候。

 そんな夏真っ盛り、暑さは引きを見せるどころかより一層激しさを増すかのようにグングンと上がる気温の中、僕は快適な室内──ではなく、近所の銭湯にあるサウナにも負けず劣らずの蒸し暑さが占める部屋の中で、冷房もつけずに窓を全開にして過ごしていた。


「暑い……」


 外は息をするだけで汗が噴き出るような酷暑であり、網戸を抜けて吹き込んでくる風も外の熱を孕んでいるかのような熱風。入り込む風は断じて涼しいわけではない。

 それでも、家に居るだけで何もしていない僕が冷房を付けて文明の利器の恩恵に与るというのも気が引けて、毎年の夏はこうして過ごすのが僕の中でお決まりだった。


 人間、生きているだけでお金がかかる。


 しかり。僕自身はただ生きているだけの、何の生産性もない、言わば社会のお荷物である現状を正しく理解しており、こんな僕が冷房という文明の利器に頼り、何一つとして生み出すことのない時間に温室効果ガスを嬉々として吐き出すなんて許されるはずがない。そう思って、この脳味噌まで蒸し焼きにされる暑さの中を一台の扇風機と大量の水、それから塩分補給のタブレットに冷えピタと言う、自称完璧なる布陣の熱中症対策の上で、この暑さの中を耐え忍んでいた。


 それで耐えられるのかと言うと、毎年更新される最高気温が示す通り、夏の暑さを舐め腐っているとしか思えない僕に耐えられるはずもなく。

 毎年、汗をかいては一日二回も着替えて洗濯物を増やし、ただただ浄水器の冷たい水を馬鹿みたいに飲み干しているばかり。

 時折吹き込む風が汗ばんだ肌を撫でることで気化熱で冷たい実感を得ては、ほくそ笑む。

 そんな超ド級のマゾしか手を出さないような領域に足を踏み込みつつある僕がひめ姉に怒られるのも、毎年の恒例であった。


 中学生に上がったばかりの頃だったか、父さんに引き回されて辿り着いた先の今とは違う家で、僕は今と同じような生活を続けた結果、熱中症になった。まだ体も出来上がっていなければ、ろくに暑さにも慣れていなかった時期だったからか、筋肉がけいれんを起こして、目眩や嘔吐にも襲われた。

 助けを呼べるほど周りに誰かが居たわけでもなく、自分の心臓が耳から飛び出るような心拍音を奏で始めた頃、偶然様子を見に来てくれたひめ姉のお陰で僕はすぐに病院に運び込まれて助かった。僕の様子を見た医者によって「熱中症の中等症ですね」と診断が下され、症状の改善のため、僕の体には点滴が入り込んでくるのであった。

 点滴を受けて帰る道すがら、ひめ姉に泣き付かれてしまったことで夏休みの過ごし方を改め、反省の意を込めてその生活には別れを告げたのだが、結局その生活に舞い戻ってきてしまっていた。


 もちろん、冷房のスイッチを一つ入れるだけで対策も不必要なくらい快適な生活を手に入れられる、という事実からは目を背けて、自分がいかに無価値であるかを実証するかのように夏の暑さに自分の体が茹で上がるのを待つのであった。


「今日は特に暑いなぁ……」


 そんな地獄を強いられる、もしくは強いている夏ではあるが、僕は決して嫌いなわけではなかった。


 楠木さんはきっと「暑さなんて消えてなくなればいい」とか言うかもしれないが、僕は暑さというだけで話の種になる夏の時期を、嫌いになんてなれなかった。

 そう思えたのは、楠木さんと出会えて友達になれたからだろう。

 去年の今頃では、この暑さが話の種になることすら想像していなかった。

 だからこの先も今まで見向きすらしてこなかった季節の変化を見つける度に、僕は楠木さんのことを思い浮かべるだろう。

 木の葉が色付く秋も、今度は寒いというだけで話になる冬も、芽吹きの時を迎える春も。彼女と一緒なら好きになれるかもしれない。そんな気がして、ならなかった。


 ふと胸に沸いた寂寥感を埋めるように、テーブルに置かれた雑誌を手に取ると、雑誌のページがペラペラとめくれていき、すっかり癖付いたページで止まる。そうして開かれたページには学校では目にすることのないモデルとしての楠木陽葵が載っていた。


 あの日、部室から逃げ出した翌週。

 日を改めての話し合いの場で、僕と楠木さんは無事に仲直りを果たした。


 テスト返却後に設けられた試験休みによって奇しくも距離を取らざるを得なかった僕達は、お陰ですっかり頭が冷静になった後で一学期最後の登校日を迎え、その放課後に、いつもの場所となった映像研究部の部室にて二人きりで話をした。


『あの……』

『えっと』


 会話の切り出しはお互いに被って、僕達はそこで一週間ぶりに視線を交差させた。


 譲り合う形で始まった話し合い。

 素直になれない僕達にとってみればそれがなんだか却って僕達らしいとすら思えてきて、僕が不意に笑みを零したところで「何笑ってるの」とどこかむくれた様子を見せた楠木さんのお陰で、張り詰めていた緊張が緩んですっかりいつもの空気へと変わっていったのは、今思い出しても笑みが零れる。


 喧嘩と言うには些か幼稚すぎて、いがみ合いと言うには余りにも衝突しなさ過ぎた僕達のすれ違いは、それから間もなくして落としどころを見つけることに成功した。


 それよりも、楠木さんが殊勝な態度で、まるで捨てられた子犬みたいな顔をして謝罪をしてきたことには驚いた。

 この件においては、むしろ僕が逃げたせいで収拾がつかなくなっていた節があるため当初は僕が謝って「この話は終わり」という結果に導くつもりだったのだが、楠木さんの気迫のこもった謝罪は、僕に謝らせる気は無いかのように感じられたお陰で、すっかり後手に回らざるを得ないのであった。

 楠木さんの意思を尊重するのは当然だとしても、それでも僕に全く非が無いとは言えない状況であったため、お互いの謝罪を受け入れてもらう、という形でこの件は終わりを迎えた。


 それから、聞いた話によればこの話し合いの場はお互いが脚の向く方へと歩みを進めた結果自然と造り上げられた、という訳ではなく、楠木さんが遊佐さんに相談して、遊佐さんに協力してもらって作り上げられた状況らしかった。

 そう言われてみると、通知表を貰うだけの夏休み前最後のホームルームの前に、遊佐さんに執拗なまでに絡まれて「今日部活行くの? 行った方がいいことあるよ」なんて訳の分からないことを吹き込まれたような気がするのだが、まさか遊佐さんが僕達の仲直りに陰の功労者として名を上げるとは全くと言っていいほど想像していなかった。


 犬と猿もびっくりするくらい、仲の悪い楠木さんと遊佐さん。

 目と目が合えば罵声を浴びせ合う光景は体育祭の頃から教室でよく見るようになり、今ではクラスメイトの大半が「いつものやつか」と慣れた様子で気にも留めなくなるくらい、彼女たちの仲の悪さはクラスメイトから公認のようになりつつあった。

 そのお陰で、最早噂以上に明確になってしまったものに対しては噂にすらなり得ないのか、二人が不仲だ、という噂はすっかり耳にすることも無くなって、陸上部の彼と付き合い始めた遊佐さんの状況は回復傾向へと向かっているようだった。その勢いは以前のスクールカーストでトップに君臨していた頃と比べると非常に緩やかではありつつも、伸び伸びと学校生活を送る遊佐さんの姿は僕の目には以前よりも遥かに生き生きとしているように見えていた。


 そんな不仲説を「不仲です」と断言するかのように振舞う二人のことを、僕は今でも相性が良いと考えていて、同姓だからこそ話せる一番の友達になれるのではないかと常々思っており、その願いがまさかこんな形で叶うなんて思ってもみなかった。

 楠木さんとすれ違ったままなのは嫌で、こうして再び話すことが出来るようになったのはもちろん嬉しいのだけれど、それ以上に、楠木さんが対等に話せる友達、それも、僕が楠木さんとは相性が良いと信じて疑わなかった遊佐さんと手を組んだという事実は、僕の胸に間欠泉が如き喜びを沸き上がらせたのは言うまでもないだろう。


『今年の夏は、休んでいる暇なんて無いぞ。よく言うだろ、夏を制する者は、受験を制す、ってな。推薦に挑むやつも、共通テストに向けて勉強に励むやつも、今年の夏はこれまでの人生の中で一番勉強する夏になるだろう。一日何時間勉強しろ、なんてのは先生かは言わん。それでも、十分だけでもいい、五分だけでもいいから机に向かってみろ。そうすると勝手に脳味噌はエンジンを吹かしてくれるからな。それでも五分しか持たないなら、その五分を繰り返してみろ。それがそのうち、一時間、二時間になるはずだ。……勉強を続ければ必ずいつかはゴールに辿り着く、努力は裏切らない──なんて甘い言葉は要らねぇよな。お前達ならできると信じてる。不安になったらいつでも学校に来るといい。先生はつでも学校にいるぜ。だって先生には、夏休みが無いからな。俺は一生、この校舎という檻の中で過ごさなきゃならないんだ……。お前達、いつでも助けに来てくれていいからな』


 僕のあずかり知らぬ場所で二人が仲良くなっていることの喜びに、嬉しさに加えてどこか寂しい気持ちを抱えながらソファに寝転んで楠木さんとの仲直りを思い出す傍ら、夏休み前最後のホームルームにて向けられた宮野先生からの言葉も思い出す。


 折角の夏休みなのに思い出したくもない言葉を向けられた生徒達は、それまで浮かれていた気分を少しだけ引き締めたかのように空気が一変したものの、その後の先生の情けない言葉に瞬時に緩められてしまっていた。

 けれども、必要最低限の言葉によって確実に誰もが意識したことで、去年までの夏休みと同じように気の抜けた身構えでは受験と言う名の戦争に敗北を喫することになると思い知らされたのは事実。

 宮野先生は一見して真面目ではないかもしれないが、生徒達の心理を言葉巧みに動かすのには長けているようで、こういった細かな所に目端が利くというのは、純粋に尊敬できるというもの。


 その言葉に感化されたからかは知らないが、出不精の僕は今年の夏、頻繁に外出を強いられていた。


 それもそのはず。

 僕は未だに志望校が決まっておらず、夏休みに集中して開催されるオープンキャンパスに頻りに顔を出していたからである。


 無事に仲直りを果たした楠木さんと一緒だったり、ひめ姉がついてきたり、とオープンキャンパスに行くというよりも普通のお出掛けのようなものになりつつあったが、目星の付けていた大学は全て見て回ることが出来た。後は僕の学力と相談して志望校を決めるだけなのだが、どうにも最後の一押しが決まらず、僕は未だに志望校について悩んでいた。

 そのお陰で夏休み中にもかかわらず宮野先生の元を頻繁に尋ねており、現段階では三つの大学まで希望を絞ることが出来ていた。後はその中から第一希望、第二希望、第三希望と決めるだけなのだが、それに関しては宮野先生からは「自分で決めるべきだ」と言われ、大いに悩んでいるのであった。

 そしてもちろん、受験生とは切っても切れない関係に在る模試も頻度が増えてきており、受験勉強には事欠かないため確実に学力は向上しているのだが、ゴールの定まっていないマラソンが地獄だというように、目標の定まっていない受験勉強に果たして意味があるのかどうか分からなくなって、僕はイマイチ受験勉強に集中できずにいた。


「……シャワー浴びよ」


 そんな時は、頭から冷水を被って物理的に頭を冷やすべきだと思考を切り替え、僕はシャワーを浴びに行く。

 頭から被るシャワーに瞼を閉じれば、思い悩む全てを洗い流してくれているような心地を味わえる。

 漠然とした不安だったものが日に日に巨大化していくのを感じる中でこの時間だけは何も考えなくて済む、と頭の中がスッと軽くなっていく感覚に浸っていると、突如として玄関の鍵の開く音が聞こえてきて、現実から目を背けて逃避していた僕は瞬く間に現実に引き戻され、息を飲む。


 鍵は掛けてあったはず。

 流石にシャワーを浴びるとなれば窓も閉めた。

 であればこの音は勘違いか、それとも──


「ただいま……って、アッツい!? ゆーちゃん! また冷房つけてないでしょ!!!」

「なんだひめ姉か」


 泥棒か何かの類か、と悪い想像が頭をよぎったのも束の間、洗面所の扉も通り越して聞こえてきたのはひめ姉の怒号であり、僕の思い浮かべた最悪からは程遠いものだと理解した瞬間、ホッと胸を撫で下ろす。


「──って、ひめ姉ッ!?」

「……この声は、お風呂場ね」


 最悪からは遠かったものの、ひめ姉の到来はそれに遠からずといったところであることには変わりなく、僕はお風呂場に迫り来るひめ姉の足音に思わず肩を竦ませる。

 再三に渡って口が酸っぱくなるくらいひめ姉からは熱中症の危険性と冷房の使用に関して言われているため、今この状況でお風呂場から出ることは自首と同義であった。真夏の昼間に冷房もつけずに部屋の中でジッと動かずにいるという自殺行為にも近しいことをしておきながら、ひめ姉の逆鱗に触れる方がよっぽど恐ろしいのは皮肉だろうか。それとも、ひめ姉の怒りを身を以て理解しているからか。

 いつもなら毎週金曜日の夕方ごろに来るはずが、今日はまだ週の初めの月曜日の昼下がりであり、ひめ姉は普段ならば仕事の最中のはず。なのにどうして、とまで思い至ったところで、僕は今が何の時期かを思い出す。


「くっ、お盆休みか……!」


 ひめ姉は確かに先週は来なかった。

 それ故に油断し切っていたのだが、まさか何の連絡も無しにやって来るだなんて考えもしていなかった。

 普段であればひめ姉の事前の連絡か、やってくるいつもの時間に合わせて冷房をつけて僕の生活空間を詐称するための証拠作りをしておくのだが、何の前触れも無しにやって来られては僕の偽装工作は意味を成さない。

 その末に待ち受けるのは、言わずもがなである。


 しまった、と思った直後、お風呂の曇り扉の前にひめ姉のシルエットが浮かび上がる。

 それだけでも恐怖なのは違いないのだが、最後の砦として阻む扉の内鍵を認識してひとまずの落ち着きを取り戻す。この最後の砦が生存している限り、僕はひめ姉が動くまでお風呂に引きこもるのも辞さない覚悟を持っていた。


 持っていた、はずだった。


「お風呂の鍵ごときで、私を止められるとでも、思った? ゆーちゃん……?」

「ひ、ひぃぃぃいい!!?」


 カチャリ、と静かな音を立てて回った鍵は、器用にもひめ姉によって外側から開けられてしまうのだった。


「お仕置きは、ゆーちゃんの背中を流すことで勘弁してあげる」

「ご、ごめんなさい~!!」


 額に青筋を浮かべたひめ姉に対して、全裸の僕が対抗する術などあるはずもなく、僕は成す術なくひめ姉に四肢を差し出す羽目になってしまう。


 最終的に局部だけは守り抜いたとは言え、再三に渡る忠告を口にした後、背中越しにボソリと「もうあんな思いは、したくないの」なんて言われたら、流石の僕も反省せざるを得なかった。










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