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面倒事。
晩春の気候は夏服への移行を待たずして汗ばむような陽気を呼び寄せるおかげで、教室までの階段を上るだけでもインナーの下にじんわりと汗が滲んでくる。
「暑い……」
補習課題を出され、進路について注意を受けたのが大型連休が明けた初日の、火曜日の出来事。
そして楠木さんが映像研究部に入部したのが、翌日の水曜日のことだった。
まさか今週がこんなにも変動の激しい一週間になるなんて思ってもみなかったため、月曜日の僕に「こうなるぞ」と話をしてもきっと信じてもらえないだろう。それくらい、上下のふり幅の大きな三日間を終えてそこに至るまでのスピード感に置いて行かれそうになった僕だったが、明くる日の木曜には楠木さんは予定があったようで、部室には姿を現さなかった。
突然部室に一人残されると、昨日までのジェットコースターのような出来事の連続はやはり夢だったのかと思い直して一人で補習課題を進めようと思ったのだけれども、その日は不思議なことに一人であるはずなのにどうしてか集中できなかった。
「バイト、か」
その楠木さんの予定というのは、アルバイトであった。
前日に自慢話のようにしていた内容を聞き流していたのだが、まさかそれが本当のことだったとは思いもせずに、僕は彼女の仕事をしている姿に想いを馳せた。
そう、彼女は働いているのだ。
楠木さんはどうやら学校側に許可申請をしてまでもアルバイトをしているらしく、しかも彼女は自分の仕事に誇りを持っていた。
ただでさえ同年代には思えない彼女ではあったが、さらにそこに「働いている」という文字列が加わることで、加速度的に僕と彼女の間にある差は彼女と関われば関わるほどに開いて行っているような気がしてならない。
『私が何してるか知らないの!? この学校に在籍してるのに知らないとか相当のもぐりね、あんた』
『ず、随分と自分の知名度に自信があるんだね』
『当たり前でしょ。だって私、自分の容姿には自信があるもの。私が私を誇るのは当然の権利だから』
『……? 綺麗だと知名度があるものなの?』
『そりゃそうでしょ。私の仕事は綺麗だからこそ需要がある仕事なんだから』
『もしかして、芸能の人だったりするの?』
『まぁ……、そうね』
『へぇ』
『少しは興味持ちなさいよ。【Elma】って雑誌に私が載ってるから、買って読んで私の美しさに平伏すといいわ』
『……課題、進んでる?』
『……ここ、どうやって解くの』
この会話を交わした時点では気が付かなかったが、彼女の口ぶりからして目の前の終わりの見えない課題から目を背けたいがための現実逃避であったように思えるのは、きっと気のせいじゃない。ペンを持つ手もぱったりと止まっていたような気もするし。
腹を立てたり、微笑んだり、照れたり、と。
教室でのクールな印象とは違って部室での彼女はよく喋るようで、僕が会話に乗ってみると彼女は些か自信過剰な台詞をペラペラと口にするのだが、それはきっと課題に取り組む上で溜まったストレスを発散しているのかもしれない。
しかし、教室どころか学年を通して「女王様」と呼ばれて遠巻きにされているのは不服かと思っていたのだが、その様子を見る限りでは満更でも無いのかもしれない。
ここ数日一緒に課題を進めていると、今まで遠巻きに見ることしかなかった楠木さんのことを少しずつ理解し始めていた。
例えば、課題を進めていく上で判明したことだが、楠木さんは極度の負けず嫌いだ。それは彼女の長所であると同時に短所でもあるといえる性格であり、一長一短な部分であった。何よりも短所足り得るのは、他人に対して負けず嫌いが発生した際。相手を見下すまでに至るほどに勝ちにこだわるのは短所と言えるだろう。ただ、そんな彼女の性格が長所足り得る所以が、短所となる要素以上に彼女は自分自身に対して特別厳しいという点であった。
補習課題の問題が解けないという事実にすらも悔し気に腹を立てながらも決して折れることなく立ち向かう姿は些か自分に厳し過ぎるのではないかとすら思えるのだが、それは彼女が補習課題にすらも本気で、真摯に取り組んでいる姿とも取れる。翻せば、補習課題にすら全力で取り組める彼女であれば何事に対しても全身全霊で取り組むことが可能なのではないかとすら思えるくらい、熱い性格が見て取れた。
先生に「やれ」と言われたからただの義務感で漠然とした気持ちで補習課題に取り組んでいる僕とは異なるその姿勢は、僕の目にとても眩しく映るのであった。
だからこそ、そんな楠木さんが気まぐれで放った言葉が、彼女からすればなんでもないような言葉の一つでさえも僕は記憶してしまっていて。
気が付けば鞄の中には、教科書に混じって勉学には不要であるはずの女性向けファッション雑誌が鎮座していた。
「どんなのか気になって買ってみたはいいけど、目を通すタイミングが、なぁ……」
登校する道すがら、コンビニに立ち寄った際に見かけて購入してしまったのだ。
なんだか彼女の言葉に踊らされている感が否めなくて悔しいのは、僕も僕で負けず嫌いだからだろうか。
気が付いた時には既に会計が終わっていて、お昼ご飯と一緒にビニール袋に入っていた。律儀にも「袋お願いします」と言った記憶までばっちりと残っているが、見知らぬ女性がでかでかと表紙を飾って上部に【Elma】というロゴがお洒落に配列されている雑誌を手に取った記憶だけは綺麗さっぱりに抜け落ちでもしたのか、一切残っていなかった。
とは言え「間違えました」と言って返品する勇気などあるはずもなく、買ってしまったものは仕方ないかと割り切るようにして鞄に詰め込んで登校してきた次第。
放課後には部室で顔を合わせるのかもしれないが、話に聞いてからそう時間も経っていないというのに話に出た雑誌を買って目を通している姿など、楠木さんに目撃でもされれば目も当てられない。もしそうなれば、彼女は鬼の首を取ったように鼻高々な様子で鬱陶しいくらいの自慢話が始まってしまうのが目に見えている以上、どこかのタイミングで放課後までに目を通さなければならない任務を、僕は自分自身に勝手に課してしまった。
とは言え朝の喧騒に塗れた教室で女性向けのファッション雑誌を広げた日には、エンタメ消費に青春を捧げる標的に飢えた集団に確実に目を付けられるに違いない。そしてそれは授業間の休み時間も昼休みも条件は同じであり、それならいっそトイレの個室にでも隠れて目を通すべきか、とすら考えられるのだが、見つかった時のリスクがそっちの方が大きい以上、僕は八方ふさがりの状態だった。
「全員席つけー。朝のホームルーム始めるぞー。まず注意事項というか、注意喚起からな。最近我が校の近辺で変質者の報告が相次いでいるらしく――」
本日の時間割の中でいかにして隙を見つけるかを真剣に考える僕の耳から、宮野先生の声が遠のいていく。
かと思えば、日中の時間など瞬く間に過ぎていくばかりで長い思考を経て訪れるのは、あっという間の昼休みの時間。
結局、午前中の時間で雑誌を広げて目を通せるだけの時間などそう都合よくあるはずもなく、僕はただ余計な思考を割いたことでただでさえ悪かった授業態度がさらに悪くなっただけであった。
どう足掻いても学校の中という衆人環境において人の目を避けることなどできるはずもない、と午前中の授業の時間を余計な思考に費やした果てに見つけ出した答えに頷き繰り返した僕は、家に帰ってから読もう、と結論付ける。
何も昨日の彼女はちょっとしたストレスの発散のために自己を最大限に評価する言葉として自身の仕事に関して口走っただけで、僕に感想を求めたわけではないはずだ。というか、絶対にそう。むしろ僕が突如として感想なんて口にしたら引かれても仕方が無いような変態的行為を自分がしていることに気が付いてしまって、例え目を通したとしても感想など言えるはずがなかった。
であるならば、成績を落としてまでも頭を悩ませる必要は無かったのではないかと、今日一日の半分を費やして頭を悩ませた時間を否定するかのような答えが見つかって肩を落とす。
行き先を失ったファッション雑誌が所在無さげに鞄の中で佇む中、僕はクラスメイトと同様に昼食の支度を始める。授業という拘束からの解放感からか、友人同士で談笑しながら好きに机や椅子を移動させる他のクラスメイトと違うのは、僕が一人だということだけ。
学食施設のないこの高校では、お弁当やコンビニ飯、購買部の三択しか昼食の選択肢は無い。競争率の高い購買部には昼休みが始まったと同時に走って向かわなければ、得られるのは売れ残りのみという過酷な競争地獄が待っているため、僕は予めコンビニでご飯を調達するのが常だった。一度だけ寝坊してコンビニ飯を調達できなかったことがあって購買部にお世話になったこともあるのだが、そこは飢えた獣たちの奪い合いが待っていて、怖気づいた僕はその獣たちが去った後に唯一残された、不人気の葡萄パンを情けなく買うことしか出来なかった。
そんな飢えた獣たちが購買部に向かっているとは言え、それ以外のクラスメイトは、部活や委員会といった各種の用事がない人達は皆、総じて数人のグループで集まってスマホとお弁当を片手にわいわいと談笑を始め出す。
そんな中で孤立しているのは僕と、楠木さんくらいのもの。
話すようになったとはいえ、楠木さんと僕が教室のど真ん中で、陽の下で会話をすることは一切ない。
それは楠木さんが教室の中では完全無非なる「女王様」の鎧を身に纏っていて話しかけづらいという理由もさることながら、何よりもまず僕に自信が無いのが一番の理由だった。
自ら孤立を選んで孤高を受け入れる彼女とは違って、僕は一人になることを望んでいるわけではなく孤立している。そんな自分を恥ずかしく思うのと同時に、こんな自分が楠木さんのような人と一緒に居ていいわけがない、と勝手に決めて勝手に線引きをしてしまっているから。
多少話すようになったとはいえ、あくまでも僕と楠木さんは他人。そこに、彼女のイメージを守るために補習課題について開けっ広げにしてはならない、などという僕と彼女の関わりを無かったことに出来る言い訳が一滴のエッセンスとして加えられたのなら、僕は喜んで身を引く。なんでもない路傍の小石のような僕と、文字通りの高嶺の花である彼女。そんな花を穢すことが無いよう、僕は首が痛くなるまで見上げているのがお似合いだということは誰に言われるまでもなく分かっているのであった。
「あ」
だからこそ、雑誌の重さを考慮せずに鞄からお昼ご飯を取り出そうとした際に、教科書かノートの角に袋の持ち手が引っかかったのか、折角買ったおにぎりと野菜ジュースを落としてしまう──などという惨事だけは、彼女と僕の関係を探らせないためにも絶対に避けなければならなかった。
だが、そんな具体的な光景が思い浮かんだのは妄想力や想像力が豊かだからではなく、現実で、今、この瞬間、僕の目の前で起こっているからこそであり、一緒に入っていた女性向けのファッション雑誌も例に漏れず教室の床を滑っていく。
終わった……。そう思った次の瞬間、僕は幸運と不幸を同時に味わうのであった。
「あ? なんだこれ……。お前のか?」
「あっ、えっと、うん……。ありが──」
「ほらよ。あっ、ちょッ!!」
まず幸運だったのは、雑誌が滑って行った先は親切な男子生徒で、足に当たった雑誌を拾い上げた彼は僕と雑誌を交互に見て興味深そうにしたものの、何の気もなしに返そうとしてくれたこと。
そして不幸だったのは、その光景を昨日のクラスの目立つ生徒に目撃され、拾ってくれた彼の手から僕の元に返ってこようとした雑誌を横から掠め取られたことだった。
「──へぇ!! なんだよ涼村。お前他人なんか興味ありません~、みたいなすました顔しといて女王様には興味津々ってか!? この学校で男が【Elma】を買う理由なんてそれしかねぇもんな!!」
僕の肩を乱暴に掴んだその人はわざとらしく教室中に聞こえるような声で、昼休みに興じていた多くのクラスメイトの視線を集めるように喧伝していく。
お陰で昼休みの教室中の注目は僕に集まる。最悪だ。最悪の中の最悪である。
その中にはクラスで目立つ集団や、楠木さんの視線も混ざっており、僕は思わずいたたまれなくなって俯いてしまう。
こんな時、うまいことの一つや二つでも言って切り抜けられたら、なんて考えるが、多くの視線に晒された僕の頭の中は一瞬にして真っ白になってしまい、早くこの時間が過ぎ去ってくれることを祈ることしか出来なかった。きっと今鏡を見れば、首まで真っ赤に染まった僕の顔が映ってその様を拝めるのだろうが、僕の体はその場から逃げ出すことすら放棄してしまっていた。
「おい、やめてやれよ。涼村が困ってるだろ」
「そんなことないよな、涼村ぁ? 俺はただ、共通の話題で仲良くなろうと思ってだ、な──」
「……私が載っている雑誌で遊ぶのは止めてくれないかしら。不愉快なの」
そんな時、頭上から降り注いだ冷たく刺すような声が聞こえて顔を上げると、クラスの目立つ生徒の手から雑誌を奪った楠木さんの姿があった。
体の芯まで底冷えするような、心の底から不愉快さを露わにした彼女の眼光は、それまで賑やかな喧騒に満ちていた教室の空気を一瞬にして氷点下にまで下げてしまったかのように静まり返らせ、僕に突っ掛かって来たクラスメイトの口を有無を言わせぬように黙らせた。
僕の目には、そんな楠木さんの姿がやけに眩しく見えて仕方が無かった。
「何か言いたいなら言えば? そんな気持ちの悪い目線を向けられていても気分が下がるだけなの」
「っ、で、でも、こいつはお前に近付こうと雑誌を買って……!」
「へぇ。涼村君がそう言ったの? それとも何。【Elma】を買う人はみんな私に興味があって、私に近付こうとしているの? 違うでしょ。【Elma】の発行部数は約四万部。その内の誰が誰を目当てに買っているのかなんて皆目見当もつかないし、下心の在る無しなんてもっと分からない。……そもそも、下心のない人が買ってはいけない、なんてルールはないはずでしょう。あなたがこの前グラビアアイドルに熱心だったのは、一切の下心がないと言えるのかしら。それに、一つの雑誌にはモデルが二十人以上も載っているの。そんな中で涼村君がもしも私を目当てで買ってくれたのなら、私が載っていることに価値を感じてお金を出してくれたのなら嬉しく思うし、その気持ちには感謝こそすれど、気持ち悪がることなんてありえるはずがないでしょ。私としてはそういう飛躍した考えの方が気持ち悪いと思うけれど、世間一般からしたらどうなのかしらね? もう少し常識的に考えた方が良いんじゃない」
「う、ぐ……」
彼女の言葉でしん、と静まり返った教室は、他クラスや廊下から聞こえてくる喧騒がいやに響くようで、楠木さんはそれだけ言うと満足したのか、僕の手に雑誌を返すと折角広げてあったお弁当を包み直して教室から出て行ってしまうのだった。
楠木さんの姿が消えると同時に、教室の中からもちらほらと談笑を再開する声が聞こえてくるのだが、それはまるで「女王様」を邪魔者扱いしているようで、僕にはその空気が好きにはなれなかった。
目立つクラスメイトは楠木さんの言葉に呆けていたが、彼の所属するグループの人たちに揶揄われるようにして我に返ると、僕の方を振り返りもせずにグループへとヘラヘラしながら向かって行く。
「……なぁ涼村。お前、女王様と仲良いの?」
「え゛っ?」
何も無かった、とでも言わんばかりに日常へと戻っていく不快な空気の中で、雑誌を拾ってくれたクラスメイトだけは僕をじっと見つめたまま席に戻る素振りも見せないかと思っていたら、思いもよらぬ問いかけを受けたせいか驚きの余り自分の喉から出るとは思えないような声を発してしまう。
今のやり取りで一体何をどう受け取れば僕と楠木さんが仲良いと思えるのか、もしやこの人の友人関係とはそういうものなのか、と勘繰りながら続く彼の言葉を待ち構える。
「はは、なんだその顔。いやあ女王様って、人のことを呼ぶ時って、決まって『おい』とか『ねぇ』とかなのに、涼村だけはちゃんと名字で呼ばれてただろ? それになんか、いつもより言葉尻が柔らかかったような……。てっきり仲良いのかと思ったけど涼村は転入生だし、女王様と昔からの知り合いって訳でもなさそうだしな。だとした今まで隠してたってことになるけど……反応からして違うっぽいな」
「そ、そうだよ……」
「そっか。てっきり同じモデル仲間か何かかと思ったけど、流石に違うよな」
「も、モデル……? 僕が?」
「そうそう。良くあるだろ。クラスの冴えない男子が、前髪を上げたら実は……みたいなヤツ!! でもまぁ、流石に違うわな」
「……ここで不服に思う程僕は自惚れてない」
「あはは、なんだよそれ」
「わっ、こ、声に、出てた……!」
「ははっ、涼村お前面白いな。俺、お前とは一度ちゃんと話してみたかったんだ。ほら、俺達って地味に接点あるしよ」
「接点……?」
「え? 俺、陸上部だし。涼村って確か映像研究部だろ? 兼部してるやつからお前のこと聞いてよ。それに、涼村の美化委員会に居る夢野、って分かるか? そいつ、俺の知り合いでさぁ! な? 意外と接点あるだろ?」
「いや、全部伝手じゃん」
「わはは、ナイスつっこみ! っとまぁ、俺はお前ともうちょっと話してみたいんだけど、どう? 嫌ならいいけどさ」
「……また、今度なら」
「はは! そう言うと思った! じゃあ約束な。今度なんか誘うからな。じゃ」
的を得たようで得ていない彼の会話の中身は彼が去った後で僕と話すための種でしか無かったことに気付くも、恨み節は疎か憎らしい感情すら湧いてこない。それくらい彼から邪気を感じられなかったのだが、そう思うこと自体に彼のペースに乗せられているようだった。
彼と軽く会話をしている間に教室はすっかり元の喧騒を取り戻しており、僕も自分の席に戻っておにぎりの封を切ってお昼にあり付こうと思ったところで、例の雑誌を所持していることが楠木さんにバレたことを思い出して、おにぎりの味は分からなくなってしまうのだった。
「……どう言い訳しよう」
空になった彼女の席を見つめ、僕は放課後に何が待っているのか想像もつかない不安に包まれた状態で、残りの午後の授業を過ごすのであった。