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あいつはいいのに。
「ごめんなさい……」
僕が考えていたような幼子が紙にクレヨンで描くのと似た理想の結末などよりも、よっぽど大人な結末を迎えたことにホッと胸を撫で下ろした後、楠木さんの言葉で彼女の手と僕の手が重なり合っているのを思い出してすぐさま距離を取っては謝罪の言葉と共に頭を下げていた。せっかく綺麗に纏まったというのに、僕は楠木さんとは違って相変わらず格好がつかない。
異性の肌に触れる。
これはれっきとした痴漢行為であり、僕がまだ生きていられるのは楠木さんの温情のお陰であり、これはきっと僕が友達だからという理由で甘んじていいことにはならない。
遊佐さんのように、自らの行いを顧みて罪を受け入れ謝罪する。
今の僕に求められるのはただそれだけだった。
「顔を上げて。……別に、怒ってなんてないし。むしろそんな謝られると、私だって傷付く」
「ご、ごめん……」
「もう、謝らなくていいから」
なぜだか謝った方が楠木さんをムスッとさせてしまったのだが、僕の謝罪が一体彼女の何を刺激してしまったのか、分からない。
いつものように向かい合って座るのだが、頬杖をついて不機嫌そうな顔をしていても、やっぱり楠木さんは綺麗だ。そんなお門違いな感想を抱いても、今ここで口にするのは憚られる。だって火に油を注ぐような結果となったら増々手が付けられなくなるのだ。
僕はただ、楠木さんとこうやって穏やかに過ごしていたいだけ。
彼女の機嫌を損ねている現状が穏やかかと聞かれれば、必ずしも首を縦に振れるものではないのだが。
「あんたは、これで満足したの」
高校生というのは曖昧で、大人かと問われれば成人年齢を過ぎているから大人だといわれる。
けれども大人達は、高校生を子供かと聞かれれば鷹揚に頷く。
それらは大人達が勝手に作った括りであり、僕達がその枠組みに収まるかどうかは結局、僕達次第。
何せ、同年代であっても、僕のように自らの将来の責任すら取れない子供のような十八歳もいれば、自分の感情に自分で折り合いを付けることができる楠木さんのような大人顔負けの十八歳もいるのだから。
それらを一つの枠組みに収めるだなんて、土台無理な話だろう。
今回の話だって、楠木さんと遊佐さんが大人だったからこうして話がまとまったのであって、どちらか一方が頑なに譲る気配を見せなければ、関係は断絶されていたことだろう。むしろその方が自然であるとすら言えるもので、このお互いに譲歩し合った結果に文句をつける人がいるのであれば、それは相当に頭がお花畑な人か、初めから話し合うつもりのない人だろう。
だから僕は、歩み寄ることを決めた楠木さんと遊佐さんの二人を強く尊敬する。
「満足、というか……なるべくしてなった、というか……」
「煮え切らないのね。そもそも、どうして私とあの女を合わせようなんて思ったの。あんた、そんな行動派じゃなかったでしょ」
「遊佐さんが、楠木さんのことを諦めてなさそうだったから、かな。それならいっそ、きちんと話すべきなんじゃないか、って思って。遊佐さんは楠木さんのことを誤解しているだけで、二人は案外相性が良いんじゃないかと、仲良くなれるんじゃないかって、思ったんだけど……」
「結果はこの通り、見事に惨敗ってわけね。……ま、あんたの頼みでも、逆にあいつから頼み込んできたとしても絶対にお断りだけどね。あいつとは絶対に仲良くなんてなりたくないもの」
フン、と吐き捨てるように言い切った楠木さんは、並べた言葉の数々にそこまで悪感情を乗せている様子でもないように感じられたのは気のせいだろうか。
「……ごめんなさい」
「だから、もう謝らなくても」
「違くて……。これは、僕が楠木さんの気持ちを考えられてなかったことへの謝罪。遊佐さんにばかり気を取られていて、楠木さんが怖かった思いをしたことを無かったことにしようとしたことへの謝罪、です。楠木さんの友達だって言ったのに、友達の気持ちよりも僕の勝手な気持ちの方を優先した……。嫌なことも思い出させた……。だから、本当に、ごめんなさい」
「それは……」
楠木さんが言葉を濁らせたのは、それが真実だから。
だからあそこで手を握ったのは、自分の罪悪感を和らげるための逃避にも近い行為だった。
自分の犯した罪から逃れるための、免罪符を用意するような行動。
自作自演。人の悲劇を借りてマッチポンプを生んだ結果は、余りにも下衆と呼べる結果であり、自分で自分が嫌になる。
「でも、あんたは私の手を握ってくれた。そのお陰で、私は冷静でいられたの」
そんな目で、感謝の想いを乗せた目で、僕を見ないでくれ。
僕は、後ろ指を差されて当然の行動をした。
それを自覚した途端、極度のストレスで全身を針で刺すような痛みに襲われるのだが、これが罰であるなら、と黙ってそれを受け入れる。
「ねぇ、ちょっと」
あまつさえ先日の恐怖が拭えていないところに傷口に塩を塗るような行為をした挙句、それをかさに勝手に体に触れるなどという、言語化すれば捕まってもおかしくはないような真似をしたのだ。
叶うのならば、楠木さんの方から絶交を言い渡してもらいたい。
いいや、そんな願いすらも烏滸がましいのではないかと思ってしまっては、僕の思考は袋小路に追い詰められていく。
考えれば考えるほど、目の前の世界から色という色が抜け落ちていく。
視線を落とした机も、床も、身に纏う制服も何もかもがモノクロになっていく世界。そんな世界でもきっと、楠木さんは、楠木陽葵だけは、必ず色付いて見えるのだろう。顔を上げて確認することさえもできなくなった以上、僕にはもう関係のない話だ。
「──涼村くんッ!」
「ッ」
膝を抱えて座り込んだ僕を囲むのは攻撃性を持った何人もの僕自身。そうやって四面楚歌の状況を作り出して、思考の渦に取り込まれていた僕の手を引いてを助け出してくれたのは、楠木さん。
耳元で叫ばれたかのような僕の名前を呼ぶ声にハッ、として目の焦点が合っていくと、目と鼻の先にある楠木さんの整った顔立ちを僕の頭は認識し始め、くらりとめまいがするような美しさ前に、僕は呆然とするばかり。
向かい合った机から彼女が身を乗り出して、僕の両頬に手を添えて頭を持ち上げている状況など、現実とは思えなかったから。
真正面から覗く彼女の肌はきめ細かく、はっきりと「怒っている」と書いてあるかのように目を鋭くした楠木さんに対して、僕は空気も読めずに彼女の美しさに圧倒されて呼吸を忘れてしまっていた。
「……あんたが何を考えてるのか、なんとなく分かる。分かるように、なってきた。だから言わせてもらうけど……それは違うでしょ。私が何か言った? あんたを責めるようなこと言った? 言ってないでしょ。あんたはいつもいつも考え過ぎなの。今回のこと、あの女が動いたとも、先生が動いたとも思ってない。あんたが、私のために動いてくれた。そうでしょ? あんたが動いてくれたから……、友達のあんたがそこまで言うなら話を聞こうって思っただけ。他の誰かじゃない。あんたのお陰で、あの出来事を払拭できそうなの。……なら、ここまでされて私が黙っていられるわけない。私があんたに言うのは、言うべきなのはただ一つだけ。一回しか言わないから、よく聞いておきなさいよ。…………私を助けてくれて、ありがとう」
直後、僕の目の前の世界が開けていくかのように、モノクロだった世界に色が付いていく。
楠木さんの透き通るような肌色も、長い睫毛も、その奥に輝く黒い真珠のような瞳も、栗毛の髪も。どれもが色付いていく瞬間というのは、世界で一番美しいものを見たときの感覚に似ている。否、その感覚は逆だろうか。
世界で一番美しいものを見たから、今までの色が嘘だったことに気が付いたのだ。本当の原色というものを知った今、僕の目には以前よりも輝いて見える楠木さんの姿があって、差し込んだ夕日のせいで赤く染まった頬に何よりも目を惹かれるのであった。
「……」
「はぁ……。なんとか言ったらどうなの」
呆然とした様子で瞬きを繰り返すだけの僕の目を穴が空くまで見つめていた楠木さんだったが、慣れない態度を取った為か、何の反応も示さない僕の頭をぺいっ、と投げ捨てると、元の場所に戻るなり顔を背けてボヤく。
そんな楠木さんの姿を見て、僕はただひたすらに、感心させられていた。
僕が楠木さんに憧れを抱いたのは、僕の手が届かない存在だからでも、綺麗だからでもなんでもない。
彼女の芯ある強き姿に加え、その強さを傍若無人にはさせない、何よりも美しき心根に惹かれて僕は彼女に憧れたのだ。
まごうこと無きその一端を見せつけられた僕の歓喜に沸く心というのは、目の前に流れ星が落ちてきたことのあるような人でなければ想像することすらできないだろう。
「……あ、え、と」
世界の色を思い出したのはいいものの、紡ぐべき言葉をすっかり忘れてしまった僕はぽつぽつと零れる言葉を拾い集めるのだが、楠木さんはそれを急かすわけでも、その姿を見て苛立つわけでもなく、ただひたすらに、僕の口から出る言葉を待ち続ける。
意味のある言葉が出ると、分かっているかのように信じた様子で。
「……これからも、友達でいてください」
「私は最初から、そのつもりだったけど?」
「うぐ、僕の自信の無さが招いた結果です……」
「分かればよろしい」
「ははぁ」
「何それ」
「いや、女王様に平伏そうかと思って」
「……そう呼ばれるのは、好きじゃないの」
「うん、ごめん。楠木さん」
「……そうじゃ、なくて」
「うん?」
「なんでもないっ」
ぷいっ、とそっぽを向いた楠木さんの横顔は、先程までの凛々しさとは打って変わって小動物のような愛らしさが宿る。仏頂面の多い彼女は、こうして接してみると分かるが思いの外感情表現が豊かで、見ているこちらとしては飽きることはない。
「……そういえば、涼村くん。私の言うことをなんでも一つ聞いてくれるのよね」
「お、覚えていらしゃったのですね」
「あの女への権利なんてのはいらないけど、あんたには色々注文したいことがあったの」
「お手柔らかに、お願いします……」
どれにしようかな、なんて楽しそうに悩む楠木さんの前で、僕はようやく手に入れられたはずの安寧が嘘だったかのように身構え、震え出す。
彼女が何の願いを口にするのか、想像がつかないからだ。
今し方僕自身の落ち度を認めて落ち込んだ手前、無理を言って話し合いの席に着かせた責任を知らぬ存ぜぬで通せるはずもなく、僕には彼女の口にする願いを叶える責務があった。
それが例え遊佐さんが勝手に言い出したものだったとしても、僕はそれを拒否できる立場になかったし、頷きもしなかった。
そう、頷いていないのだ。僕は遊佐さんと楠木さんの間で結ばれた約束を受諾していないのだから、約束は結ばれていないはず。であるならば僕が楠木さんの願いを叶える必要など、ないはず。
だがしかし。
その理由で「あれにしようかな、これにしようかな」と口元をもにょもにょさせながら考える彼女の期待を裏切るようなことが、僕に出来るだろうか。いや、出来ないだろう。
それは、僕が小心者だから。期待を裏切る罪悪感に耐えられないから。そんな理由も言い訳も、布団を叩いて出てくる埃のようにいくらでも捻り出せるというものだが、僕が楠木さんの期待に応えるつもりでいるのは、それが『通すべき義理』であると分かっているから。
楠木さんが今回話し合いの席に着いてくれたのは、僕と遊佐さんが「何でも言うこと一つ聞く」という条件を飲んだからではない。自分を傷付けた加害者と対峙する必要なんて、話に耳を傾けるなんて、本来であればする必要もないというのに、彼女は僕を「友達だから」という理由だけで、楠木さんと僕の間にある、目に見えない友達というか細くもしっかりとした繋がり、それこそ『義理』というものを信じて話し合いの場を開くことを許してくれたのだ。
ならばそれに応えるのが作法であり、ここで逃げたら僕はもう今後一生、楠木さんの友達だと胸を張って言える日は来ないだろう。
だから僕は、今この瞬間だけは、虚勢だとしても顎を上げて、胸を張るのだった。
「なんでも言ってよ。僕に出来ることなら、なんでも」
「それなら──」
僕の覚悟のこもった言葉に楠木さんは何も気にする様子もないまま思考に集中すべく天井を見上げた後、ゴールの前で「何でも来い」とどっしりと身構える僕に向かってシュートを放つのであった。