23
似た者同士。
校舎裏に呼び出し。
学校生活で誰もが一度は夢見る妄想の産物。
それを今、僕は遊佐さんに手を引かれて連れて来られることで、夢を実現されていた。
ただ、中身が中身なだけに、これは夢とも理想とも結びつかない。もっとバイオレンスでフィジカルな状況というべきだろう。
「……」
初めての美化委員の仕事を全うした遊佐さんは、カメムシで汚れた軍手を放り投げ、僕が荷物を倉庫に片付けるのをただ黙って待っていた。
倉庫の入り口付近で佇んでいたのは、僕が逃げないように監視していたのだろう。
土に塗れて汚れたジャージ姿もそのままで、校庭で練習に励む生徒達の声から遠ざかるようにして僕の手を引いて校舎裏にまでやってきたのであった。
「何か、言いたいことがあるんでしょ」
僕の手を引いて終始無言を貫いていた遊佐さんが遂に口を開いたかと思うと、さっきまでの無邪気さというか、無害さを感じさせるような微笑を湛えていた姿が面影すら残さずに嘘のように消えていく。そうして表れたのは、あの日楠木さんに襲い掛かったときと同じ、目の奥に黒い感情を宿したかのような遊佐さんの姿が目の前にあった。
先程までの姿は猫を被っていたのだとすると、こちらが素ということになるが、不思議なことに僕にはどちらも彼女の素のようには思えなかった。
壁に背中を押し付けられ、逃げることを許されないような状況もまた、望んだものではなかったけれども非日常の体験。
普段の僕なら混乱してパニックに陥ってもおかしくない状況にもかかわらず、僕よりも頭一つ分小さな遊佐さんを見下ろす僕の頭は、至って冷静なままだった。
「……あたしが周りの目を気にしてるって、猫を被ってるって、どこで気付いたの」
「な、なんとなく、ですけど」
「はぁ?」
「遊佐さんと一緒で、僕も、周りの目は気にしてばかりなので……。そしたら、遊佐さんの振る舞いは、僕とよく似てたから……」
「結月とあたしが……似てる? ハンッ、そんな訳ないでしょ。あたしを教室の隅っこでカビみたいにジッとしていることしか出来ないようなあんたと同じにしないで。寝言は寝てから言ってくれる?」
僕の意見は、すっかり人の変わった──否、被っていた猫を脱ぎ捨てた遊佐さんによって鼻で笑い飛ばされる。
彼女が僕のことをどう思っていようと僕の意見は変わらないのだが、彼女から見た僕は教室に静かに舞う埃ですらなく、隅っこで動かないカビだという。
それは恐らく遊佐さんだけの意見に限らずその他のクラスメイトの大半がそう思っているのかと考えるとチクリと胸が苦しくなるが、今は落ち込んでいる場合ではない。
むしろ、楠木さん同様に滲み出る性格の悪さが僕の目についたと認識を改めることができたし、遊佐さんはやっぱり楠木さんとは仲良くなれそうな気が余計にしてきた。
「で? 何。あたしがプライドも何もかもをかなぐり捨てて着飾った表の顔は嘘です、裏ではもっと酷いことを考えてます、とでも言い触らすつもり? 大体、あんたみたいなのが言ったところで、誰が信じるか、っつーの。この前の件であたしの看板に多少は傷が付いたけど、結月なんかよりよっぽど、周りへの影響力はあるから。例え言い触らしたところで、あたしにとっては痛くも痒くもないの。分かる?」
「じゃあ、どうして」
「どうして? そんなの決まってるでしょ。あの日あの場所にいた結月が、ボロを出さないか目を凝らしていただけ。念には念を入れるため、ただそれだけなの。何、もしかして変な期待でもしてた? ふはっ、気持ち悪」
ゴミを見るような目。
その言葉がこれ程までによく似合う遊佐さんの目を真正面から受け止めながら、僕は矢継ぎ早に捲し立てられる言葉のナイフの雨にも立ち向かう。
僕は、彼女の真意を聞き出す為にここまで大人しくついて来た。
だから遊佐さんの態度の裏表なんて正直、どうでも良かった。とは言え、これ以上黙ってただ傷付けられるのを待っていられる程、僕の心は強くもないし、かと言って迫り来るナイフの雨を回避しつつ彼女の懐に潜り込むなんて器用な真似は僕には到底できない行為だった。
だから僕は、これ以上の無為なお喋りを切り捨て、問答無用で彼女の核心を突くために言葉を放つ。
「どうしてそんなに、楠木さんを敵視するのか。それを聞きたいだけ、です」
「……なんであいつのことが出てくる訳?」
「違うんですか? 僕の目には、遊佐さんはずっと僕を見るふりをしながら、楠木さんばかりを見ている気がしたから」
僕と遊佐さんは似ている。
似ているからこそ、遊佐さんの考えていることが分かる。
僕が楠木さんに憧れを抱いたように、遊佐さんが楠木さんに嫉妬心を抱くのも理解ができる。
楠木さんは、特別だから。彼女の才能に嫉妬してしまうのも分かる。
けれども、遊佐さんの楠木さんに対する感情は、嫉妬のみならず、先日のように明確な敵意を持って襲撃にかかるといった、異常なまでの執着を見せていることが理解に苦しいが故に、僕は遊佐さんの表の努力を分かっていながらもそれを掃いて捨てるかのようにして問いかけたのであった。
それこそが遊佐さんの目の奥に宿る核心だと分かっていながら。
「っ、どいつも、こいつも。あいつのこと、ばっかり……!」
楠木さんの名前を出した途端、遊佐さんは露骨に表情を歪める。
先程から忙しなく動かしていた彼女の足先がさらに激しさを増して、遊佐さんの苛立ちが増しているのが良く分かる。
「僕に近付いたのは、楠木さんの弱みを握るため……そうですよね」
遊佐さんが口を滑らせた通りに、彼女が僕に近付いたのは僕自身に価値を感じていたのではなく、僕が所持、もしくはこれから手に入れるであろう情報を奪い取るか、共に手にしようと画策していたからに違いない。
そして、僕なんかが手にする情報の中で遊佐さんが執着するものといえば、問題の楠木さんの情報であるに違いなかった。
接触禁止を言い渡されたのは遊佐さんの噂を広めた男子生徒のみとはいえ、遊佐さんを含む残る三名が公の場で楠木さんに接触するのは不味い。
しかし、目の敵でもある楠木さんの情報が欲しいとなれば、今回巻き込まれただけだと言い張る僕に接近して、僕から楠木さんの情報を手に入れるしかない。
遊佐さんはそれを、病院で会った時点で早速行動に移した。
その行動の早さは、優柔不断な僕からすれば羨ましく思うし、賞賛に値する。
ただし、そこに楠木さんを害そうとする意志がなければの話だが。
「……何。あいつの騎士にでもなったつもり? マジでくさいし、ダッサいんだけど」
僕が守る。
そんな大それたことを言える程僕が強くはないのは分かっているし、楠木さんもただ守ってもらわなければならないほど弱いというわけではないのも分かっていた。
だけれども、それが目の前の遊佐さんが楠木さんを害そうとしているのが分かっている上で見逃す理由には、ならないだろう。
僕は、変わらなければならないから。
楠木さんの友達として胸を張れる存在になりたいから。
理由を付けなければ一緒に話すこともできないような存在のままなのは、嫌だから。
「……結月なら分かるでしょ。あいつがあたしを見下してること。このまま見下されたまま終わるだなんて、あたしは絶対に許さない。あいつのせいで、あたしはもう、後戻りできないの……!」
「遊佐さ……んっ!?」
僕を壁に追い詰めた遊佐さんは、訳の分からないことを口走りながら拳を握り締めたかと思いきや、次の瞬間には僕の体に自分の体をぴったりと這わせるかのようにしなだれかかってきた。
突如として降りかかる体の至る所に感じる女の子の柔らかな感触に、僕は思わず頭の中が真っ白になって固まってしまう。
生まれて初めての経験に、僕は声を上擦らせることしか出来ぬまま、遊佐さんの厚い吐息交じりの声に身体を固くさせるのだった。
「お願い……結月。協力して……。あの女に痛い目を見せるためだけでいいから。一回だけでいいの。そしたら……あたしの体、好きにして、いいから……!」
「ッ。っ……!! は、離れてっ!?」
「チッ」
典型的で、初歩的な、ハニートラップ。
なりふり構わないといった様子の顔のすぐ傍まで迫った遊佐さんを引き剥がせたのは、頭に楠木さんのことが浮かんだからではなく、苦しそうな遊佐さんの顔が目に映ったから。
健全な男子高校生には余りにも刺激の強いそれに、僕の頭には思わず遊佐さんの悪い噂が過る。
それを勢いのままに口に出して罵倒の一つも言わなかったのは、僕の憎むべき悪癖が故。それが功を奏したと思えたのは、夢かと思う程に一瞬のうちに切り替えられた遊佐さんの表情を目にした時。
それでも、乱れた服装を整えながら恨みがましい視線を向けてくる遊佐さんを前にすると、胸の奥から大量の熱が湧き上がってくることに気が付く。それは、遊佐さんに対してなのか、僕か、それとも別の何かに対して怒りを抱いているのかは定かではないが、珍しく僕が怒っていることを自覚していることだけは間違いなかった。
「……遊佐さんは、何がしたいの?」
「あたしは……っ! あたしは、楠木陽葵、に…………」
はっきりと口にした問いかけに対して、遊佐さんは口を動かしたものの、自分の中で答えが見つからないのか、そこから先は一切言葉が出てこないようだった。
だから僕は遊佐さんの本当の狙いを聞き出す為に掘り進めて行く。例え遊佐さんが、言葉に出して現実にすることを避けていようとも、楠木さんが狙われる理由を知らなければならなかったから。
「僕に粉を掛けて、何がどうなるんですか。遊佐さんは、本当にこんなことを、したかったんですか?」
「……結月を、楠木から奪いたかった。今の行動は、ただそれだけ。楠木の、嫌がる顔を見たかっただけ……それだけ」
「それが、どうして僕を狙うことに繋がるんですか」
「は? だって結月……あいつと、付き合ってるんでしょ? だから、あいつから男を奪えれば、って……え? は? えぇ……? あんた達、付き合って……ないの?」
そんな驚いた顔をするのは止めて欲しい。
むしろ人からしたらそう見えているという事実に僕の方が驚いているくらいなのだから。
「ぼ、僕と楠木さんが!? ぜ、全然違います。ただの友達……なんですけど」
「何、その間は」
「いや、その……補習課題も終わって、そっから話してないし、そんなんでちゃんと友達だ、って言えるのかな、って不安になってきて……」
「はぁ!? な、何言ってんの? 友達は友達でしょ……って、なんであたしが説教する側に回ってんだし。はぁ……こんなことで無駄に処女を散らせる羽目にならなくて良かったと思えばいいのか、それともあたしの行動が無駄に終わったことを悲しめばいいのか……、もう分んないよ」
僕の反応を見て即座に頭を抱えてその場でしゃがみ込む遊佐さんに対して、僕も同じ体勢を取りたい衝動に駆られる。
そんな風評が出回るだなんて、楠木さんからすればいい迷惑だろう。
僕と楠木さんが男女の関係で釣り合うはずがない。釣り合いが取れていなければ、どちらかに偏った結果、共倒れる未来が見えている。
だから僕は楠木さんに恋心を抱かないし、楠木さんもまた僕に対して恋愛感情を抱くことはないに決まっている。だって僕達は、友達だから。
「ていうか、処女って……」
「はァ!? そこは男なら聞き流すところでしょ!? 何聞き返してんのよ!! 馬鹿! 変態!! キモすぎ!!!」
「ご、ごめんなさい……」
「はぁ……。なんであたし、こんなんなっちゃったんだろ」
きぃきぃと叫んだ遊佐さんは、先程までの勢いはどこへやら、といった様子で溜め息を吐きネガティブな彼女が顔を出して自己嫌悪に陥ってしまう。
「遊佐さんは」
「みおな」
「……澪奈、さんは、何をそんなに恐れているんですか?」
「何を、って、分かるでしょ。あたし……一人になっちゃったんだよ。頂点から、底辺まで真っ逆さま。あたしの価値が、全部失われたんだよ? 楽しかった学校生活が、三年生になってすぐに、こんなことで無くなったんだよ!? ……取り戻したいに、決まってるじゃん」
楠木さんに怖い思いをさせた挙句、まさかの自分は被害者面。
あの件によってもたらされた全ての結果は、遊佐さん達の自業自得に行き着くため僕が同情する余地はない。それどころか、聞かされる僕からすれば、まるで冗談でも言っているかのように聞こえる。
だがしかし、必死に語る遊佐さんの目は決して冗談を言っているようには思えない真剣さで、彼女は本気でクラスカーストの上位というものをステータスだと認識しているようだった。
遊佐さんは僕と似ている。
だからこそ彼女が何を考え、何を目的としているのかが何となく読めていたのだが、それでも分からないことがあった。
まさか遊佐さんがなりふり構っていられない程に追い詰められていることも読めなかったが、それ以上に彼女がどうして僕に関わろうとするまで追い詰められているのかが分からなかった。
だが、今の彼女の話を聞いて、ようやく合点がいった。
「それって、自分を傷付けてでも取り返さなきゃならないくらい、大切な物なんですか?」
だから僕は彼女の価値観を否定するようなことを口走る。
僕は、人間関係がヘタクソだから。距離感が掴めないからこそ、そんなことも平気で口にできる。それはきっと、僕が遊佐さんと一緒で、良い人の振りをするので精一杯な、悪い人だからなんだと思う。
だから案の定、僕の言葉に遊佐さんが激昂して、胸倉を掴んでくる。
「はぁ!? 大切に、決まってんじゃん!!! だからこんなに必死になって──」
「その大切な物が遊佐さんにもたらしてくれたものは、なんですか。友達ですか。恋人ですか。思い出ですか。そんなに大切なのに……どうしてそんな簡単に手放すような真似をしたんですか? 大切なら、人を傷付けてもいいんですか? 大切なら……、同じく大切だと思っていた人が、いるんじゃないんですか? どうしてその人たちは、遊佐さんがこんなに苦しんでいるのに、助けてくれないんですか? 遊佐さんは、そんなものに縛られる必要なんて、本当は無いんじゃないですか」
「え、あ……う……」
目と鼻の距離に迫った憤怒の形相を浮かべる遊佐さんに、思いつく限りの言葉を投げかける。
――あなたの考えは本当に正しいのですか、と。
本来なら、僕にそれを口にする必要も、資格も権利もない。
何も持ち得ていない僕が言ったところで、空虚な言葉でしかないのだから。彼女の向かう先を変更させることができるのは、僕なんかよりももっとずっと中身の詰まった大人にしか出来ないことだ。
それでも、これ以上遊佐さんが取り返しのつかないところに行ってしまう前に手を引いてあげて、引き返す切っ掛けを与えることくらいはしても罰は当たらないだろう。
「遊佐さんは、価値のない人間なんかじゃないです。とっても魅力のある女性です。だから、自信をもってください。本当に遊佐さんに必要なものは、あなたを置き去りにした過去なんかじゃないはずです」
「……っ、結月と話してると、頭痛くなってくる」
「それは大変ですね。保健室に、行きましょう」
「は? 別に、いらない、って……! ひ、引っ張らないでよ……」
目に迷いが生じた遊佐さんの手を物理的に引いて、僕は走り出す。
これ以上彼女と会話を重ねても、ろくな解決策は見つからない。であるなら、多少強引であっても大人の力を借りるべきだと判断して、僕は遊佐さんの手を取って校舎裏を後にする。
遊佐さんは思いの外抵抗の色を見せずに大人しく付いて来てくれている。
僕達のいた校舎裏とは反対側。
生徒の多くが体育祭の練習に精を出していた校庭は、話し込んでいた間に隙間が目立つようになっていた。
それに紛れ込むようにジャージ姿の僕達が保健室を目指して走り行く。目立ってないと良いけど、なんて考えながら保健室に駆け込むと、委員会の仕事が終わったというのに報告にやってこない美化委員の二人を探していたらしい勅使河原先生に二人揃ってこっぴどく叱られるのであった。
今年もよろしくお願いします。
と、いうわけで、評価と感想下さい。




