21
人間関係。
「……」
部室には、重たい空気が満ちていた。
窓から茜差す陽光に混じって聞こえるのは、一か月後に迫った体育祭へのモチベーションが極めて高い運動部たちの気合の入った掛け声と、哀愁漂うカラスの鳴き声。
これと言ったトラウマがあるわけではないが、僕はカラスが苦手だ。鳴き声だけなら特に恐怖を抱くことは無いのだが、朝とか日暮れ時に数羽がまとまっているのを見ると酷く恐ろしく見えてしまうのだ。黒い影に黒いくちばし、真っ黒な瞳。それらが明確な意思を持ってこっちを見ているところとかが、特に怖い。
知能で言えば小学一年生と変わらないと聞いたことがあるが、それが事実ならばカラスの行動一つ一つには意味があると考えても不思議ではないのだから。
そんなカラスの視線が如き恐ろしさを湛えて僕を睨み付けるのは、同じ映像研究部に所属する楠木さん。
彼女が映像研究部にやって来てからまともに部活動を実施した記憶はないが、彼女はもう顧問に入部届を受理された立派な映像研究部の部員の一人である。
その楠木さんに僕は今、部室に到着して早々に詰められていた。
内容は、先の体育祭出場種目であった一幕のこと。
「もう一回聞くけど……あの女、遊佐澪奈とはどういう関係なの」
腕を組み、足を組んだ彼女の姿勢は誰がどう見ても一国の主。
完全無欠の女王様、という彼女が望まずして手に入れた称号に見劣りせず、向かい合った机に着席しているにもかかわらず彼我の間には不思議と距離ができていて、楠木さんの振る舞い一つで空気が一変してみせる。ここはさながら、謁見の間。
頭を上げることすらできない僕は、今から申し開きをする他無いのだが、楠木さんがどうしてここまで不愉快そうにしているのかがさっぱり分からない。理由が分からなければ申し開きのしようもないのだが、僕には申し開きをしない、という選択肢が残されているようには思えなかった。
今この場で「楠木さんは関係無いから」なんて言えば、間違いなく楠木さんはただでさえご機嫌斜めだというのに更に機嫌を悪くさせるし、もしかしたらようやくできた友達の関係にもひびが入ってしまうかもしれない。
こんな時はひめ姉に相談だ、とスマホを取り出せればどれだけ良かったことか。スマホを取り出した刹那、楠木さんの手によって破壊される未来が見えたのはきっと間違いじゃないはず。取り上げられるだけで済めばまだいい方だろう。つまり、ひめ姉を頼ることは現実的に、不可能。
となると、僕に残された道はただ一つ。
正直に打ち明ける他、ない。
僕がこの部室から……否、女王の御前から生きて帰るには、正々堂々、嘘偽りなく真実を口にするしか方法は残されていないのであった。
「……遊佐さんとは」
「澪奈」
「え……?」
「澪奈って呼んでたでしょ。あの女とは、名前で呼び合う仲なんだ。ふーん、へぇー、ほーん」
「いや、あれは向こうから言わされてるだけで……」
「ふーん。あんたは押されたらなんでも従っちゃうんだ。誰にでも、下の名前を呼ばせるんだ」
「え、えぇ……」
分からない。
僕は今、彼女の考えていることが分からない。
全くと言っていいほど、分からなかった。
二週間近く接してきて、彼女の苦手な勉強にも必死に打ち込む真面目な姿も、キチっとした表面の裏で少しだけズボラな性格が見え隠れするのも、子供みたいな嘘を吐くときに髪を弄ったりするのも、全部見てきた。
だと言うのに、僕には今、彼女が何を言いたいのか、何を考えているのか、何一つとして分からなかった。
人には数え切れない程の側面があるということをようやく思い知って、僕は苦し気に奥歯を噛み締める。たった一つの側面を知っただけで僕は彼女の全てを知ったような気になって驕っていたことは恥ずべき事態であり、それを誇らしげに思っていたことが何よりも恥ずかしい。
だから、いつもこうなる。
少し仲良くなっただけで、その人の一挙手一投足全てに注視して、相手の癖や、一度でも言ったことを全て記憶して、気持ち悪がられる。
今度こそ失敗しないようにと努めていたのに、僕はまた、自我を出してしまった。無意識の内に、謙虚であるべき姿勢を崩して驕ってしまっていたのだ。慣れというのは、本当に恐ろしいものだ。
それでも、今この瞬間で僕が僕に求めるものは、楠木さんの期待に応えることだ。彼女の期待に応えることで、その怒りを治めてもらう。
その為に必要なのは、楠木さんが僕に何を求めているのか。ただその一点のみ。
それが分からなければ、この場を切り抜ける道は存在しない。二人の関係は、答えられなかった瞬間に違う道を歩む羽目になる。今までがそうだったように。
だがしかし、依然として僕には彼女の考えていることが何一つとして分からないという現状は何の変化も持ち得ない。驕りから覚めた身だとしても、楠木さんの一挙手一投足から目線に至るまでの全ての情報を用いたとしても彼女の考えていること、求めていることが何なのか推察することすら出来なかった。
僕は一体、何について話せばいいのだろうか。
自らの力不足に必死で藻掻きながら喘ぎ苦しんでいると、そこまで考えた辺りで楠木さんは溜め息を一つ吐いて、女王様としてのオーラを掻き消す。
そこに残ったのは、不安そうに眉間に皺を寄せた、高校生の少女の姿だった。
「……ごめんなさい。これは、私の、ただの八つ当たり。あんたに、そんな顔をさせたかった訳じゃないの。だからそんな、不安そうな顔を、しないで」
続けて楠木さんの口から吐き出されたのは、自戒の念。
それに混じって感じ取れる恥じ入るような溜め息は、誰に対しての失望なのか。
途端に、僕には彼女の考えていることが、これっぽっちも分からなくなる。
間違えたのか。
僕はまた、間違えたのだろうか。
そんな思考に囚われてしまいそうになるが、楠木さんがこの場から立ち去ろうとはしないのを見て思い止まる。
彼女は一体、僕に何を求めているのか。何を期待していたのか。
顔を背け、頬に紅を差した彼女から、僕は何も感じ取れなかった。
「……僕の方こそ、ごめんなさい。楠木さんからすれば、遊佐さんにはあまりいい印象を持ってないよね。だから、友達の僕が遊佐さんと仲良くするのは……違うよね。気を悪くさせたかと思うけど、僕は別に、遊佐さんと仲良くしているわけじゃないんだ。遊佐さんの方から、一方的に来られてるだけだから、僕が拒絶すればいい話で」
「違う」
「え?」
何も感じ取れないのであれば、僕は沈黙を選ぶ。
けれども、楠木さんを前に、友達を前に黙ることは決別に繋がることを知っていたから、僕は、例え何も感じ取れなかったとしても、想定し得る考えを口にしようと思い、口を動かした。
楠木さんは、特別だから。
生まれて初めて「手放したくない」と強く思うことができた唯一の友達だからこそ、僕は極力彼女に寄り添った答えを導き出そうと必死になって舌で言葉を選んで吐き出していく。
だと言うのに、楠木さんは僕の必死に出した答えを、望んでなんていなかった。
それどころかむしろ、そんな言葉を吐いた僕の口を、憐れむような目で見てくる始末。
「どうして、あんたはそんなに……極端なの? 確かに、あんたがあの女と仲が良いのは正直、むかつく。けどそれは、私があの女のことが嫌いだから。それだけでしょ。そこにあんたがあの女のことを嫌う理由は……嫌いになろうとする理由なんて、存在してないはずでしょ。なのにどうしてあんたは私に倣うみたいにしてまで、あの女のことを嫌おうとしているの。そんなことされても、私は嬉しくない。私は、喜んだりなんて、絶対にしない。私には私の、あんたにはあんたの人間関係がある。他人に押し付けるみたいにして相手から逃げるのは……なんだか卑怯だよ」
自分にも言い聞かせるかのように、自らの腕を抱き寄せて苦々し気に放たれた言葉に、僕はハッと息を飲んだ。
それは、僕の知らない世界の言葉のようであったから。僕の知らない、知見をもたらしてくれたから。
「……そう、なんだ」
僕は今まで、友達の為なら全てを費やすのが正しいのだと思い込んでいた。
だから傷付きもしたし、返ってこないお金だって貸した。そんなことの積み重ねで、僕の価値観はとうの昔に狂っていたのかもしれない。
だから、生まれて初めて、ひめ姉以外にそんなことを言われたからか、僕の目には楠木さんが余計に輝いて見えて仕方が無かった。
彼女は、僕の道を指し示す一等星。道の見えない夜を照らしてくれる、輝かしい星のように見えて仕方が無いのであった。
「やっぱり、楠木さんはかっこいいなぁ……」
だからこそ、感嘆する吐息交じりにそんな言葉を吐き出してしまったのは、単なる衝動。
そこには打算も無ければ、思惑も無い。
純粋なる僕の心の底からの賞賛だけが、自分の意思とは関係なく吐き出されていた。
「んなっ……!」
「え」
「な、何、言ってんの……」
「口に出てた? 恥ずかしいな」
「恥ずかしいのは、こっちよ」
自分の理想に真っ直ぐ進んでいて、休むことはあれどもその足を止めず、決して道を踏み外さない。
その理想がどれだけ高くとも、諦めることは決してないと、傍から見上げているだけの僕にすら分かるほどの情熱と覚悟。
それは夜空に輝く星々の如く光り輝いて見え、僕はそれに手を伸ばすことしか許されない。
その手に収めることができない天上の存在だからこそ、僕は彼女に憧れる。
そんな彼女だからこそ、僕は全てを捧げてもいいとすら思える。それと同時に、僕如きの存在が彼女を汚して良いはずがないとも理解しているからこそ、伸ばした手で彼女に触れることは、他の誰でもない、僕自身が許さない。
僕如きの存在が、彼女を曇らせてはならない。汚していいはずが、ないのだから。
「……それじゃあ、これからも僕は遊佐さんと仲良くしていいの?」
「それを今、私に聞くの?」
呆れた顔ですら、そこらの美術品よりも精巧に作られているかのよう。
その視線が本来であれば僕に向けられるはずがないことを知っているから、僕の心は余計に苦しいのだが、僕が彼女の手元の課題に視線を落とすと、それに釣られて彼女もまた視線を課題に落とす。
「……言ったでしょ。あんたの人間関係はあんたの問題。私が口出すことなんてないの」
「そっか」
「……言いたいことでも、あんの」
「遊佐さんとは、顔見知りなのかと思って」
「別に。この学校入ってからのクラスメイト……ってだけ。入学してすぐ、一番最初に突っ掛かって来たのが彼女。正直、『調子乗ってる』とか『いい気にならないで』とかは意味分からなかったけど、あの女、遊んでいるように見えてその実、頭だけはずば抜けて良いのが気に食わなかった」
「へぇ、遊佐さんって頭いいんだ」
「知らないの? あの子は三年間、成績上位の存在よ。あんなに遊んでるくせに、影ではしっかり努力しているのが分かるから、正直、私は彼女を妬んでた。勉強で敵わないって分かって、ずっと、悔しかった。だから、それ以外の所では負けないように頑張った」
「運動では負けなしだもんね」
「別に、誇れるようなことじゃないけど」
興味本位、というのは建前で、彼女が嫌だと言えば本気で遊佐さんとの関係を断つつもりだった僕は、彼女の口から吐き出された遊佐さんへの思いの外高い評価を耳にして驚きをひた隠しながら耳を傾け続ける。
楠木さんが自分の言ったことをひっくり返すはずがないと分かっていても、僕は僕自身の判断を信じ切れないが故に彼女に判断をゆだねるようにして言葉を選ぶ。
「そう言えば、楠木さんはこれまで赤点取った時、どうしてたの?」
「……勅使河原先生に、頼ってた」
「毎回?」
「毎回じゃ、ないわよ。二回に、一回くらい……。って、言わせないでよね。勅使河原先生は頭がいいから、私が見栄を張ってるのにも気付いていて、それでも受け入れてくれてた。でも、いつまでも隠れてばっかりはいられなかった。保健室だって、他の人が利用するし、今回は四教科も課題があって、今回こそは駄目だと思ってた。それでも、死んでもクラスの連中には私の弱みなんて見せたくない私の意地ってのは相当よね。……だから、あの時あんたが私の腕を引っ張ってくれたこと、本当はすっごく嬉しかった。今更だけど、ありがとう」
「結局、見つかっちゃったけどね……」
「ううん。大事なのは結果より過程だと思ってるから。あの時も、この前も、今も。あんたには助けられてばっかり。本当に、感謝しているんだから」
そこで一度言葉を切った彼女は、再度頭を上げて、僕の顔を真正面から真摯な眼差しで見抜く。
「だから……、涼村くん。遊佐さんのことで、私からあなたに求めることは、何も無いわ。あんた達が仲良くなろうと、不仲になろうと、私は口出ししない。したくない。……だから、これは、あなたが決めるべきことなの」
「……決めるって、どうやって」
すっかりと僕の考えが読み取られていた楠木さんによって、僕の思惑は何の成果も出せずに断ち切られる。
そして、人間関係の薄さが如実に表れたかのような僕の返しに、楠木さんはまるで出来の悪い弟を見るような目で微笑んだ後、教えてくれた。
「遊佐さんが嫌いなら、距離を置けばいい。好k……好ましいと思うなら、一定の距離を保って仲良くすればいい。私からは、それしか言えない」
「嫌いなら……。好ましいなら……」
それだけ、と言って言葉を切った楠木さんは、最後の課題を終わらせるべくラストスパートに取り掛かる。
課題に取り組む楠木さんの前で、僕は必死に彼女の言葉を頭の中で反芻させる。
遊佐さんのことが嫌いか、好ましいか。
二分化するには情報が足りなすぎるのだが、敢えて決めるというのであれば「嫌いではない」。そんな答えが浮かび上がってくる。
遊佐さんは、確かに楠木さんを目の敵にしている。
強引な手段を用いようとするくらい、楠木さんを敵視している。
その理由も原因も知らないままでは、僕は遊佐さんを嫌いになることはできなかった。
それが、僕の導き出した答えだ。
であるならば、楠木さんが提示してくれた公式とも呼べる「嫌いか、好ましいか」の式に代入するとなれば、後者に値するのだろうか。
そこから先を聞いたとしても、楠木さんはきっと答えてはくれない。
例え聞いたとしても、与えてくれた言葉以上のものを楠木さんは与えてくれはしないだろうから。
だからこそ、ここから先は僕が自分で考えて決めなければならない。
「……ねぇ、ここ。どうしてこうなるのか、教えて」
「あぁ、ここはね」
自分で、考えて、答えを出さなければならない。
楠木さんの課題が終わりを迎えるその瞬間まで、僕は遊佐さんとの関係について考え続ける。
それから間もなくして、遂に、楠木さんにとって念願の瞬間が訪れる。
最終下校の鐘が鳴り響く直前。部室に響き渡るのは、楠木さんの歓喜に沸く絶叫。
楠木さんの、二週間にも渡る補習課題との闘いに別れを告げる時が訪れたのであった。
「──終わ…………、った~!!!」
「お疲れ様……」
提出期限の最終日。
楠木さんの自由を妨げる最後の鎖が破壊され、彼女は遂に自由を取り戻した。
ようやく得られた解放感に昂る感情に乗せて凝り固まった身体を解す彼女を見ながら、僕は最後まで彼女の筆跡で埋まった課題に視線を落とす。
「ありがとうね、涼村くん。これで私は自由……っ!」
そんな僕に対して、楠木さんは上機嫌に笑って、自由を謳歌し始める。運動を求める体の欲求を解消させるかのように執拗な程に体を動かす彼女に対して、果たして僕は、上手く笑えているだろうか。
補習課題。それは、僕と彼女を繋いでいた唯一の接点であり、それが無くなった時、楠木さんと僕を繋ぐものは他に何もない。
これが最後になるのだろうか、なんて未練がましい思いは決して表には出さず、僕は彼女の偉業とも言うべき成果を褒め称える。
「あれだけの量の課題が全部終わったかと思うと、感無量だね。僕は、感謝されるようなことはしてないよ。全部、楠木さんの努力の成果だよ」
「ふふん。そうとも言うかもね。でも、私はあんたに感謝してるの。素直に受け取っておきなさい」
「うん……」
解放感が彼女の機嫌を底上げしてくれているからか、いつもより少しだけ表情が豊かな楠木さんは、普段なら言わないような感謝の言葉を、それこそ素直に口にして軽やかなステップで部室から飛び出して行く。
職員室で待つ宮野先生の元に課題を提出しに行くためだ。
だが、これが彼女が部室に訪れる最後の機会なのかと思うと僕は少しだけ足が重くなるのだが、慣れた道程はあっという間に職員室に辿り着き、宮野先生から飲み物を奢ってもらって帰路につく。
いつも通りの日常。いつも通りの道のり。
けれども、僕からすれば、特別な日常に終わりを告げる瞬間でもあった。
僕達は、明日に向かって、帰り道を歩んでいくのだった。
評価と感想下さい。
皆様、良いお年を~。




